絶対界 第五章 霊の動静について P64〜67
第五章 霊の動静について
我等常に諸子に対して拝みせよと語り居ることに対して、 諸子は何か神仏に対する尊敬の念を強くせよとの意味の如く感じ居る人もあり、又神仏の力がすぐれ居るに対して、己が希望を全うせんことを願はんとする如く感じ居るならん。斯る浅墓なる思ひにて拝みするは真の拝みにあらず。神仏を尊敬する心持ちより出づる拝みは、或場合恐怖を誘発する関係も含まれ居る事に心せざるべからず。故にその心掛けより拝みするならば、一方には愛の念を起し又一方には憎悪と変ずる場合もあるなり。 かかる両道にまたがる拝みは絶対の拝みにあらず。又神仏を尊敬する念より生じたる拝みは、是又相対にして絶対にはあらざるなり。 昭和二十五年三月四日のこだま会に於て、円海が泰岳に代りて語りし如く、彼泰岳は一切すべてを神仏として、拝みなし居ると云へる言葉を諸子は如何に考へしか。彼泰岳は一切すべてを神仏の如く取り扱ひ居ると聞かされては、諸子は其意味を解するに苦みたるならん。 諸子の拝みは高低の礼を拝みと心得居るによって、相対の拝みとなることに心せざるべからず。 神を高くし、すべてのものを神より作られたるものなれば、是を低しと見るによって、其処に何か礼に対して差別を作るならん。差別する拝みは高低を意味するによって、絶対の拝みにあらず。我の語る絶対とは即ち神を指して絶対と云ふなり。神を離れて絶対のあるべき理なしと語り居るなり。故に絶対とは神なりとの思ひを貯へて拝みせざるべからず。されば泰岳の如きは絶対の拝みをなし居るにて、 諸子の考ふる如き高下貴賤貧富等の区別はあらざるなり。諸子の言葉にて云ひ現はすならば、一切平等の拝みとなるなり。故に泰岳は猛獣などに対しても和らぎを以て交はるによって、彼等は危害を加えることをなさざるなり。 是等の事柄はすべて拝みの力なり。故に拝みと云ふも和すると云ふも同一の言葉となる。拝み即和なりと思はば可ならん。 手を合はせ頭を下ぐる拝みは、媚へつらいの姿となる事もあらん。 是等は相対の拝みにして絶対
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の拝みにあらず。此処に掲げし標題の事柄を語るに先だち、この事を語り居るも余事にあらず。霊の動静についてと云ふに対して、霊を動に化せしむれば稍もすれば相対と化して、絶対より遠ざかり行きて相対に別るる関係より、この事柄に対して語りたるなり。静と云ふ言葉に対しても止を伴はざる静ならでは、是又絶対とはならざるなり。 動静一体の姿を霊と見なして考へを廻らさざるべからず。恰も小児がかけくらべをなす時、出発点に身がまへなしたる姿こそ、動静一体の拝みと思ひて可ならん。その身がまへこそ静にあらず、動にあらず。無にあらず、有にあらず。 即ち絶対の姿なるべし。是を動静一如の姿と思はば可ならん。 泰岳は常にこの意味に合ふ拝みをなし居たるによって、臨機応変の自由が自然に整ひ居たりしことも、推して知ることを得るならん。国を治むるも家をおさむるも、皆この心掛にて処理するならば、意の如く思ひのままに同化することを得る結果をもたらすならんとは考へざるや。絶対の中に相対の含まれありと教へし言葉も、是等によってうなずく処あらんと思ふなり。神と云へる言葉に対して迷はんよりは、寧ろ絶対を拝せよと語るは却て理解することを得るならん。 又拝みと云ふ言葉に迷ひあらば、 其に和すると云ふ言葉に変へて用ゆるも可ならん。 さりながら伝統的習慣性より、神を絶対とし拝みを和と云ふ言葉に変ゆるならば、何かそこに一種の足らざるもののあるやに迷ひて、 淋しき感じを抱くならん。故に我等は神と語り、拝みと語り居るなり。其は目標を作りて示したるに他ならず。 諸子は彼我の区別を以て対象となし居る為、何か一種の目標なくんば歩みを進めざることを、知るによつて斯くは語りしなり。 若し我等神と云はず、絶対を信じよと教わるなら諸子は決して拝みはなさざるべし。 神と云ふ無形のものを仮に聯想して、始めて其を目標として拝みと云ふ和の心を以て接するならん。 斯かることの間違ひより種々様々のあやまちを惹起し、 思ひもよらぬ横道に迷ひ居る事は、相対の考へより生ずる現象なるによってなり。
何となれば神と云ふ無形の力が巳に依て作られ、その作られたる無形のはたらきが潜在意識となりて、暗示作用を
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誘発し、その暗示作用が巳が心の持ちかた如何によって、或は右し或は左す。斯くなりて動ずるが故に、或は信じ或るいは疑ふ結果となるは、是相対なるが故なり。動じ居りて動ぜざる底の極致に至らば、そのものこそ即ち神の正体なるべし。故に是を絶対と云ふ。絶対境に入らずんば、上下左右に動かされて迷ふは当然なるべし。 動じて動ぜずと云へる絶対境をたしかに、認識把握するにあらざれば、真の神を知ることを得ざるは当然なるべし。 動じて動ぜざる底、
即ち動静一体の境涯を探らんとせば、先づ自己の本心を此位置に迄到達せしむるにあらざれば、和すること難し。 故に彼を求めんとせば先づ我を知りての後、彼に接するにあらざれば、和すること難し。故に和すると云ふの意味は名づけて拝みと語り居るなり。行者が山中に在りて修行に用い居る珠数を見よ。球と球とは分離せられ居るに不拘、是をつなぎ居る紐は、即ち和に相当するものにして即ち拝みの力なり。故にはなれたるものを一つにまとめて接続し、互にその拝みに相当する紐によってはなれず。動じて動ぜざる底の姿となり居るにてはあらざるか。斯る簡単なるものになぞらへあるを見て、何か悟るべきところあらん。人と人との交はりに於てもこの理を知るならば、互に和して平和の世界は建設せらるる道理を知ることもあらん。もとより珠数は行者の計算器なりと称し居れど、仏教者は仏を拝む作法の一種の如く考へ居りて、是に依て巳が心の修養にせんとは考へざるは遺憾のことなり。宗教の如何に不拘是等によって、己が心の誡しめの具に供しなば必らずや得るところあらん。仏教者が用い居るを見て神道者はこれを嘲り、何か他に代るものをと考へて用い居る笏、是等も計算器の一種ならん。笏とは即ち物指しなり。もの指しは即ち計算器ならずや。修験者は山を跋渉するに用い居る錯杖等も、即ち計算器なり。又商人が用い居る算盤も計算器なり。珠数錯杖算盤、何等異なることなし。 商人は算盤を以て利損のみに用いず、心の計算を計るも可ならん。 さとりは簡単なるところにも、心がけ次第によっては修養の導きとなること多し。故にすべてに意を用いられんことを望む。動静一体化したる絶対原理より、分れて相対となり、其が更に複相対と次第に化せられて、宇宙は組織せられた
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りとの理より考ふれば、絶対の中に含まれある相対、更に複相対となり行くとも是等はみな、絶対の中に包含せられたるものなりとの考へを持つならば、自づと絶対原理は察せられる道理あらん。
眼にも見えず耳にも聞えず、肉体すべての触覚にも探り求むることを得ざる魂なるものの形は、如何なるものかを諸子は知らざるならん。 又知らんとして探り求むるとも得ること難し。然るに其具備あるによって物事は感じられつつあるならん。探り求めて得難きものを、汝は保持なし居るにてはあらざるや。是静にもあらず又動にもあらざる底の姿にして、あるが如くなきが如く、言語にては語り難き具備は何処より汝の肉体に通ひ来り居るやを研究し見よ。
汝の肉体は眼に見え耳に聞え触覚に感じ居れど、呼吸止りて一片の煙とならば消えて影なし。されど古来よりその姿は消えては現はれ、消えては現はれつつ未だ消滅せずして持続しあるなり。されど去年の汝と今年の汝とは既に相違あるなり。 仏教者は是を諸行無常とか是生滅法とか語りて、徒らに哀愁を誘ひ居るため、却て人心を弱く感ぜしめ居る為、 世の中を厭ひて出家などなす人も少なからず。 斯かる宗教は教へかた説きかたの錯誤より、却て人心を損ふこと
多し。即ち一得一失はまぬがれざるなり。是を憂ひたる或僧は曰く、「世の中は坊主になるなさかな喰へ、地獄に行くも鬼にまくるな」との狂歌を以て、世の中を強く生きよと教へ居るにてはあらざるか。遯世するは宗の教へにあらず。遯世せしめざる底の導きならでは、真の宗教とは云ひ難し。遯世するは弱者なり。 強者のなすべきことにあらざるべし。形を有する間に無形の魂を確かに見きはむる修行こそ肝要なるべし。古来より此理を確かに語りたる指導者は少なかりしため世は却て混乱し、 迷ひを深くするのみにて真の道理を悟らしむることを得ざりしは、無形のものの余りに広大無辺にしてその理を究むること難かりし為なり。この事を憂ひたる教主は、無智の慈音を通じて世人に其理を深く認識せしめんと計らしを、諸子は喜悦として深く研究せられんことを!
我等耳にする所に於て学者は云ふ、 「一本の針の先にとまりし幾万の生物が種々様々の形に於て、人間の肉体に
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