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第六講 心と霊気の交はりの関係について P226〜234

第六講

心と霊気の交はりの関係について


従来よりのベ来りたる如く心意魂魄霊の関係は、既に諸子も解したるならん。 是等のすべては皆悉く気によつてつながれ居ることも考慮せざるべからず。心と意との陰陽関係に於ても、気によつてつながれあるが故に、ここに摩擦を生じてはたらきをなす。 魂魄の陰陽に於ても同様の関係あることも推して察するを得るならん。されば心と霊気


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交はりに於ても気によつてはたらかされ居ることを考へざるべからず。汝の心を我と見なして考ふる時、魂は仮に神なりとして先づ考へ見よ。 神我一体とは即ち魂と心の一体となるにあらざれば望みは達し難からん。然りとせば魂と心をつなぐものは即ち霊気のはたらきなるべし。 先づこの理をよくよく明らめてすべてを考察せばものの理は明らかに知ることを得ん。例へば肉体の病ひと心の病ひとを区別して、心の病ひを病気とし、肉体の病患を病身として取り扱ふならば、肉体の病ひには薬石を用いて治癒の法を択ばざるべからず。さりながら病気と云ふ心のわづらひは薬石にては治癒すること難からん。 ここに病気と病身との両者を混同して取り扱ふが故に、種々様々の迷信盲信が現出して、諸子を迷はする結果となり居るなり。諸子は肉体の病ひに対して、病気と一言に称へ居る結果、斯る誤ちを惹起して誤てば人命を失ふことすら敢てなし居るなり。病気ならば呪にても祈禱にても治癒することもあるならん。 されど病身ならば斯る事によつて一時は治癒したる如く感ずれど、そは病気のみがうすらぎて、病身は一時圧迫せられて働らきを止めたるに他ならざることは云ふ迄もなし。 是には医薬の備はりあるによつて斯る事に耳をかさず、直ちに薬石を用ゆれば治癒すること疑ひなからん。 肉体の病ひは、心の病ひに比してさのみ苦しきものにあらず。 肉体の病ひに心のはたらきが加はるによって激しき苦痛を感ずるなり。 是等の道理は、現今の科学にても証明せらるる筈なり。然るに諸子はこれを知らず。 知りても惑はされて呪祈禱等に委する如きは、実に愚なることなり。呪祈禱とは唯方便にして、悩める者の心持ちを他に転換せしむる方法にすぎざる故なり。呪祈禱は、心と魂の間をつなぐ零気にして、気の病ひとはその零気がくもりたるに他ならず。 故に呪祈薦等の法を以てその雲を払はば、心の病ひは忽ち浄化されて、悩みの影を没するに至るにすぎざるなり。呪祈禱は一種の暗示にすぎざる事は、諸子も末知日記前巻によつて知り得ることと承知す。故に深くは記さじ。呪祈禱等によって病気が治癒せられたる人は、たとえ其が迷信妄信にもあれ受け入れて安らかとなりたる以上、その人は救はれたるにはあらざるか。疑ふものには通ぜじ。其は


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暗示となりて働らかざるが故なり。道理は先づかくの如し。むづかしきものにあらず、呪などには何万何十万と云ふ方法あり。祈禱に於ても又同様なり。是等みなその悉くが暗示の方法にすぎざるなり。 迷信にもあらず。又妄信にもあらざるなり。唯方便として人の心を執着より離れしむる方法に用い居ると知らば、敢て不審するには足らざるならん。

医者の認めたる処方箋を護符と信じて服用して、病気を治癒したる老婆すらあることの例話を、諸子は記憶し居るならん。斯ることを科学的より考ふれば、実に滑稽の如く感じらるれど事実老婆にとりては真剣に考へてこれを信じた結果、暗示となりて病気の雲は払はれたるに他ならざるなり。老婆にとりては薬石よりも医者の尊きを、神の如く信じたるが故なり。 心の気を払はば、心魂を一体化す。故に肉体の病ひは左のみ苦痛にあらざるが故に、一時は治癒したる如く感じられたるにて是を暫くすておかば、又もや再発の悩みある事は云ふ迄もなし。たとえば甲の医者は信用がつきて厚きに反し、乙の医者が信用うすければ同じ薬を用いても、甲の医者の利目は顕著となり、乙の医者の薬は効果うすしと感ずるが故に、同じ薬と雖も利目に於て相違すらあることの例はしばしば見聞する処なり。故に諸子は是等の点よりよくよく修行修養の法を考へ見よ。信ずる力の如何に大なるかを知ることを得ん。たとえ愚者なりと云はるるとも、信じて早く救はれたる人は、却て賢者の部に算へらるるならん。信ぜずして長く苦まば、其だけ長き時間を悩むによりて、疑ふものは却て患者となることの理より、法を研究せば従つて、気と云ふものに対しての重要なることに心づくならん。 前書にも語り居る如く気に掛ることは早く清除せよと語りしも、みなこの理に他ならずと知るべし。

心より発する気体と、魂より発する気体と合したる時、この両者の気のはたらきが、摩擦を生じてここに雲をおこす。 故にこの雲を払へば、心魂一体となることの理は察せられるならん。 心の悩み強ければ強き程、雲は深くなり行


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くによって、魂の光をさへぎる故に、病気となるなり。 肉体は如何に大切になし居りても、種々様々の食物を摂取して生活なさしめ居るによつて、病身となるは是非もなきことなり。此理を知るが故に、行者は、不自然の食を摂取せず。自然食によって肉体を育て居ることの理も亦察せられるならん。

信ずると云ふも気なり。疑ふと云ふも亦気なり。気のはたらきは霊より生ず。心になやまするも気の力なり。此気を払ふ力は魂ならざるべからず。今慈音は我に向ひて、心魂の区別を今少し詳細に語られんことを望むとの要求に、答へて説明せん。手近き所に例あり。其は日本の天皇宗教とも云ふべきものを例にとりて語らん。日月を霊とし、魂を天皇とし、心を文武百官と見なし、民を肉体として観察せばすべては察せられるならん。然してその四つのものをつなぐはすべて霊気なるべし。是に依てその区別を知ることを得るならんと思ふが如何!日本には神ながらの道と称して多くの文献には現はされ居らざれど、事実に於て斯くも分り易き教へを示され居ることに意を用いよ。 天皇と云ふ大切なる魂、失はるれば心のみ残りて、民の安かるべき道理なきことも推して察することを得るならん。 所謂人間性をすてて動物性に化せられるが故に、日月の光は暗し。斯る簡単明瞭なる教へあるに不拘、日本人は他国の宗教を尊びて、却て自己を亡ぼし行く愚をなすことの如何に無智なるかに、 我等は慨嘆するものなり。其は数多の文献の具はりあらざるが故に、却て燈台下暗しの関係となり居ることは是非もなきことなり。 されど是等に対して早くめざめて、然して其を基礎として多くの文書をあらはしては如何!

我、斯く語る時慈音は欣情に向ひて、現今の憲法に天皇を象徴として残しあるはせめての幸福なりと語り居るを聞く。されど是を我等の眼より見る時は、政治をあづかる大臣が、己の権威を恣にせんとのたくらみに残したる迄にて、事実に於て天皇を影の人として止めあるにすぎざるなり。 一度誤ちてロシアの手におつるならば忽ち天皇の影は失はるることもあるならん。其後の日本は如何に、実に危きことならずや。 よし其がアメリカの管轄に置るるともこ


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れ又、日本民族は表面上は独立国の如く見ゆれど、事実は彼等の脚下にひれふすの他なかるべし。 かかる事は即ち魂の失はれたる動物性の政治によって、世を建設せんとするが如き愚を敢てなし居るによって結果に於ては、日本再建にあらずして益々退歩の姿に変ぜらるるは、人間性を忘れて動物性にて終るの余義なき故なり。斯る事にて日本再建は思ひもよらざるべし。否日本のみにあらず、平和の世界は前途遼遠なることに心せざるべからず。余事は兎に角魂と心の関係は是等の例より推理せばうなずくところあらん。

魂を求むるは前途遼遠の如く諸子は感ずるならん。心も魂もすべては汝の肉体にあり。 めざむれば忽ち魂の光明は輝く。 心と魂は紙一枚のへだたりなり。悪人が前非を悔いて忽ち善人に化せられるも、動物性の心が滅却して魂の本然に立ちかへる故なり。諸子は魂と心とを日々交々はたらかせ居るが故に、何れが魂か、何れが心かの区別すら判明せざるため迷ひ居るにすぎず。悪人などは魂をおしこめて、心のみはたらかせ居るが故に、我儘気儘の行為をなし居れど、 一度めざむれば是等をすてて本然に立ちかへるが故に、恰も一廻転なしたる如く思はるる迄なり。人の性は善なりと云ふは、即ち人の性は魂なりとの言葉に他ならず。故に自問自答の法によつて是非の区別を日々続け居らば、是と教ゆるも非と答ふるも是を魂にまかせて、心はこれに順じ居らば、其は即ち大自然に順ずる方法に合ふなりと知らば可ならん。如何にせば魂を発見することを得るやなど苦まずとも魂は汝にあるなり。汝をすてて他方に飛散するものにあらず。心と魂が分離せられ居る如く見ゆるのみにして、実は一体となるべき性質のものにて不可分関係におかれたるものにあらねば、その心してすべてにあたり居らば、心は自づから浄化せられて、魂のはたらきに順ずることを得るなり。 彼是迷ひて種々様々の方法を学ぶにも及ぶまじ。一度めざむれば実に訳もなきことにて、何故斯ること早く気附かざりしかと、己が愚さを己に嗤う如き底のものなり。或禅僧の曰く、我幾年か坐禅工夫して彼是苦きわざをなして漸くめざむれば、我は我なりしと、大笑して山を下りたりと云ふ、話を聞きたり。実に然り。然あるな


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り。我は我なり。 我は彼にあらず。 彼は我にもあらざるなり。 所謂自我一体の境涯に達しなば、其にて己の己なりしことを覚り得ることは易し。されどその後の修養修行こそ大切となるなり。 何となれば魂と心の一体化して、自己の個性を見出したりとて其にてよしと云ふにあらず。個性を見つけてその個性をのばすにあらざれば、何等の価値もあらざるなり。諸子は彼是思ひ惑ふは自然を知らざるが故なり。自然に順じて、其によつて初めて心魂一体の法は得らる。然るに諸子はその自然を知らざるが故に、彼や是やと思ひ惑ふによって却て時間を空費するの他何等得るところはなきなり。地球は自然に順じて廻転なし居るが故に、諸子は安全に生活をなし居るなり。 小さき例にとりて語るならば一個の磁石が常に南北を示す。其が他の金属を近寄せて是を廻転せしむれば、右に左に或は順逆に廻転せしむる事を得れど、その金属を遠ざくれば忽ちもとの南北の位置にかへるにてはあらざるか。自然とは先づかくの如し。諸子はそれを他の力によつて曲ぐるは自然を逆用なし居るにすぎず。 心魂一体に於てもかくの如き行ひをなし居りては、望のはたされざるは当然なるべし。 諸子はあまりに他を求むるが故に迷ふなり。恰も磁石に金属を近づくるに等し。他を求めずば本然の位置にかへる。是即ち個性の特徴なるによつてなり。 他を求めずして先づ自を求めよ。 他を求むれば相対となり、自を求むれば絶対となるによつてなり。

此時慈音曰く、我等はあさはかにして智慧なし。心と魂の区別の理は朧気ながら解することを得たれど、事実日々の生活に於て何等か他に、適当なる教へにあずかりたしと。 我、是に答ふべし。 諸子ははじめて人に対面する時形を改め威儀をただす。 是即ち魂のあらはれなり。然して次第に交はりを結ひ居らば、魂は遠かりて心のみが交はりをなすにてはあらざるか。 はじめて会ひし人と、交はりを深くせし人との相違は、即ち魂と心の相違なりと合点せよ。然して拡大して考へを進めなば、自づと魂の在所は判明せん。 初対面の人に対し形を改め威儀をただすは、心をおしこめて魂を表面化なしたる姿に他ならず。 されどその魂は唯魂の余韻にすぎざるなり。 親しみを重ねるに従ひて心


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が表面化して、魂がかくるると見なさば魂と心との区別は察せられる筈なり。 されど修行したるものと修行せざる者との相違は、魂の磨かれたる者と磨かれざるものとの隔りによって、異なることは云ふ迄もなし。

魂の磨かれたる人は常に魂を忘れず。是を他に転ぜしむることなく、たとひ初対面の人或は交はり深き人の区別に不拘、常に魂を以て交はりをなし、然して心を自由に支配して彼を遇し居るにすぎざるなり。さればこそ他人が魂の磨かれたる人を惑はさんとなすとも、決して犯さるるものにあらず。 何となれば魂は磨かれて是非の区別を、忽ち看破するはたらきを備へ居るによつてなり。欺かるるも可なりと思へば、或は欺かれ、又欺かれじと思はば、是を退くる自由は魂を措いて他にはあらざるが故なり。慈音は他人の語る言葉を聞きて彼は虚偽を語り居ると知りても、其非を咎むることをなさざれど、其は空と実との相違を知るによつて咎めざるに他ならず。 されど慈音の魂は彼の心に喰ひ入りて、その非をせめ居ることは云ふ迄もなし。 こだま会に来るもの慈音に同化し行くも、みな魂のはたらきの力に他ならず。 我等の教へを取り次ぐ任務をなし居れど、 彼の魂がはたらかずば通ずるものにあらざることを、諸子は考慮のうちに取り入れをくも、敢て空しきことにはあらざるべし。 兎に角、心魂の中に、気と云ふ一種のへだたりが、種々様々のはたらきをなすによって或は障碍ともなり、或は利益ともなることに深く意を用いざるべからず。諸子は病気する勿れ。常に不病気の姿となり健康なる気を具へ居らば其にて可なり。 心魂一体の人となりて気を病むことなければ、呪祈禱の術をなさずとも又受けずとも可ならん。されど修養修行の力なき人に対しては、或はその法を用ゆる要もあるならん。 早く斯る法を用いずとも明朗なる心に、或は魂によつて斯るものの必要なき底に迄、至らしめよと教ゆるものなり。

ここに聊か注意することあり。其は他ならず。 諸子は、心気と霊気との区別を、誤解し居ること多からんと思ふなり。霊気は四六時中間断なく通じ居る気体にして、心気は空気の如く雲を宿し雨を降らす如きものにて、時には澄み


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きりたる青空の如くなることもあり、又雲を深く重ねる如き場合もあることに心せざるべからず。是霊気と心気の相違なるが故なり。されば心気常に穏かとならば、霊気は是に順じて一層明朗に化せしむる力を有するものと思はば、気の和しかたに対してさとる所あるならん。 心気濁るとも霊気は通ず。されど是を強いて晴さんとはなさざるなり。心気濁りて不善を企つる時、霊気は唯それに任せて不善にも組し、又善にも組す。此事柄の詳細は前巻によつて学ばれ度し。

我等よく聞くところなるが諸子は子供に対しても汝大きくならば人の頭たれ、必らず下につくこと勿れとさとし居るにてはあらざるか。これは何を物語るや。足は地上にありて頭は空間にそびゆ。然して尚も高く々々ならんと考ふるは頭なるべし。 是空間にのみ囚はれ居るにはあらざるか。 諸子は地球を足かかりにして天界に上らんとする考へより、人の頭たれと教へ居るか、但しは他に意味ありての事か。兎に角他人よりも聊かにても高からんと望むは空の方向なるべし。 又正直の頭に神宿るとすら語り居るをよく耳にす。神は頭にのみ宿り居りて、他にはなきものかに対しての道理は別として、頭は尊く他は卑しとの心なるか、或は他人より勝れたるものとなりて神の如く敬はれんとする心なるか。是等を一括して考ふる時空を尊び、 実を卑しむ傾向ありと思ふなり。然りとせば諸子は常に人の頭たらんとして高きを望み、空間へ空間へとあてもなく上昇の道を辿り居るならん。さればこそ暴風に会ひて倒るるなり。暴風に会ひて或は折られ或は倒さるる如きは是心のみのはたらきにて、 魂の根を忘れ居るが故なり。我等は実も空なり。空も実なりと語り居るは即ち心魂一体の行ならでは得られじとの道理を語り居るなり。

大地の恩恵を忘却して徒らに空の高きを望み居るが故に、折られ倒さるる如き過失を犯すも、是一方的にして空実一体ならざるが故なり。 魂あるが故に心は延ばされ行くは、恰も根に依て葉、分布すの比喩となるなり。教主が前巻にて教へられたる如く、頭に囚はれ居りては望は達し難し。又腹にのみ囚はれ居ても同様の関係となる故に、頭腹一


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体ならざるべからずと説かれたるにてはあらざるか。儲子は頭にのみ任せ、腹を粗末になし居るは恰も地球に肉体をおきながら、空だのみなし居るに等しとは考へざるや。常に語り居る如く魂とは根なりと云ふに対して、 諸子は今尚さとることを得ずして、徒らに空間にのみ任せ居る傾きあり。 空間に思ひをはするは即ち空たのみなり。 空に伸びんとせば、先づ根に相当する魂を育つるにあらざれば、望は達し難し。仏教にては脚下を省顧せよと教へ、儒教にては我身を省みよと教へ居るにてはあらざるか。我にして我を知らずと云ふことは、即ち己に有する魂の存在を知らざることを意味す。諸子のはたらかせ居る心は、心より出づる気のうごかし方にすぎざるが故に、己の心すら知らざるなり。我の語る説は皮肉の如く感じらるれど、心魂の存在を発見するには、言葉にては到底云ひ現はし難きが故に、斯くもむづかしき説明をなして、 諸子の自得見性を促がす材料として供し居る迄にて、 諸子の肉体の中に心が何処、魂は何処と定められたるところあるならば、一言にして教ゆることを得れども、魂の存在は、全身悉くに宿り居るが故に、何処をそれと定むること難きが故なり。 生理学上より見る時は頭に心ありと語り居れど、それは筋肉関係より唯頭を主としての説明に他ならず。故に教主は頭腹一体の法を、諸子に教へ給ひしなり。頭腹一体とは即ち実空一体を語られたるに他ならず。諸子は日々心をはたらかせ、時によりては魂をもはたらかせ居るに不拘、その存在を知ることを得ざるは何故ぞとの念を深く追究して、確かなるものを発見することに努力せよ。心気は肉体変化によつて刻々変化なし居るに対して、魂の存在は何処にありやを知ること難きが故に、日常心のみにたよるの他あらざるなり。 是等の事柄に対しては明日二十四日 (昭和二十五年六月、 こだま会) 円海が我に代りて語ることもあらん。よって彼の教へを受けよ。


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第五講 先づ心と魂との区別 P221〜226

第五講

先づ心と魂との区別


諸子は心と魂の区別を知らざるが故に、自然の理をきはむる事あたはざるなり。 心を魂と考へ居りては、到底人間の何なるかを知ることを得ざるは当然なり。人間と動物の異なる処はここにあるなり。獣類には人間に有する魂はあらずして、人間の持つ心に相当するものが彼等の魂となり居るなり。故に獣類には、人間の如き魂の具備はあらざる為、如何に努力すとも人間とはなり難くして進化の程度きはめてうすし。九流界のクウワオと雖も、人間の有する魂のあらずして心のみが備はり居る為、彼等は是を嘆き、早くその魂を求めんとして生命短からん事を望み居るなり。是を一言詞すれば獣類には心の魂ありて、人間の如き大なる魂の備はりあらずと知らば可ならん。 彼等の魂は人間の心に匹敵す。斯く考れば諸子は人間に生れし喜悦を、感謝せずしては申訳なしとの念は生ずる筈なり。諸子は魂を知らずして心のみ働らかせ居りては、動物と何等異なるところなき生活にて終らん。 実に勿体なきことにてはあらざるか。現今諸子の世界の人類はすべて心のみの作用によつて世を建設せんと計り居るため、その生活態度に於てもすべては動物性に化せられ居るなり。 心の智慧の拡大するは、蔭に魂の宿り居るが故にその光明をうけて、他の動物よりすぐれたる考へを有せど、心のみの作用にては魂の光明にすぎざるが故に、その程度はきはめて低し。

されば魂を発見するには何かの方法によつて、是を求むる道なかるべからず。心の作用のみにては苦みに苦みての後にあらざれば望は達し難し。 是を魂に任せなば、苦まずとも自づとすべてを明らむることを得るなり。 心は枝葉なるが故に限度を有す。魂はその根に相当するものとして考ふれば、是を発見するには左のみ至難にはあらず。もとより人間に与へられあるが故に、心を是にかへせば忽ち魂は現はれてその任務に順ず。諸子は己に有するものを知らず


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して、心のみを働かせて其によつてすべてにあたり居るが故に、迷ふこと多し。

慈音は日常他人との交はりにあたつては心のみを以て是に交はり、己指導者の任務に服する時は、魂を用いて是にあたり居るなり。 先に語りし、慈音は大自然と小自然の間に立ちて行じ居ると語りしは是なり。我、斯く語らば諸子は思ふならん。魂を見つけたる慈音ならば何故魂を以て、人との交はりを常になさざるやと。もし慈音にして魂のみ働かせて世に処し居るならば、世間の人は是を狂人扱ひにして交はりを結ぶものあらざるべし。其は諸子と慈音との隔りが余りに遠き故なり。故に慈音は魂を現はさず、諸子と同様に心を以て諸子と交はりをなし居るなり。されど慈音は人を陥れ或は人を犯す如き振舞は、魂の威徳が心をはたらかせ居るによつて、彼は罪悪を犯すものにあらず。

彼は時には心の人となり、時には魂の人となり、又或場合は霊の人となり居るが故に、 我等と共に語らひもし、教主の導きをも喜びて授かり居るなり。人見て法を説けと云ふ言葉もこの理なり。霊の人となり、魂の人となりて何も知らざる常人に対して交はるとも、それは決して通ずるものにあらず。多くの人より狂人扱ひせらるるの他なきことを知るによつて、彼は小自然大自然の間にありて生活をなし居れど、人来らざる時は魂の人となりて我等の導きを受け居ることの理は、諸子もほぼ察せられるならん。 小自然に順ずるは心にして、大自然に順ずるものは魂なりと知らばここに一段の工夫なかるべからず。

諸子は禅門の僧を見て狂人扱ひになし居ること多からん。 坐禅工夫して漸く魂を見つけたる僧に対してすら、 諸子は狂人の如く思ふならん。 さりながら現今の僧達は昔の徳者の説をとり入れて己、魂をも知らざるに是を知りたる如く吹聴して、世を害し居る人少なからずあるなり。さればこそ彼等は時には罪悪を犯し居ること多し。彼等は所謂さとりたるにあらずして、知りたる禅をなし居るにすぎざるなり。真の魂を発見したる僧ならば、斯る狂人の如き振舞は決してなすものにあらず。心は雲の如し。されど諸子の心は深き雲にして、太陽をさへぎり居るが故に常に陰欝と


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なり居るなり。故にその心の雲を晴らし居らば、其にて己に有する魂の太陽は赫々として輝くこと疑ひなし。心のみ働らかすは雲のはたらきにして、雨を降らせ嵐を招くは当然なるべし。

法とはむづかしきものにあらず。心を常に平になし居らば、黒雲むらくもは起らざる筈なり。 心を彼是とはたらかするは、恰も雲をよび雨をよぶに等しとの考へにてものに執着せず、ものに拘泥ざる生活をなし居らば、其にて魂との一体化は得らるるなり。 心の悩みは拝みと云ふ方法によって払ふことを得るなり。是を心の明らめと云ふ。 心明らむれば魂ははたらきて是を排除するは是魂の任務なるが故なり。諸子は叶はぬ時の神だのみと云ふ比喩の如く、苦みを解くには神の力をたのむならん。 諸子を守るものは諸子の魂なり。故に心の苦みを魂に訴ふることを神だのみと云ふなり。

慈音はすべてのことを明らめて悉く捨てさりたり。故に彼は心の悩みはあらざるなり。 諸子は捨て難きものを棄ることあたはず、さりとて求むるも得難きに不拘、そのものに固着して彼是心を労し居るが故に黒雲は益々加はる。故に魂の光は一層暗くなりて通ぜざるなり。 なり難きものは強いて求めずとも是をすてなば如何? 否棄るにも及ぶまじ。 求めよ、得られんと云ふ言葉もあるにはあらざるか。 魂に求めよ。 然せば魂は明るし。 汝の望を叶へしむるはたらきをよく知る。故に心に苦みあらばすべてを魂に求めよ。 さらば得られん。 閉されて入ることあたはずば魂に向つてたたけよ。 さらば開らかれん。敢て遠きを求めずとも近きにありと教へられ居ることは、此言葉によつて解する事を得るならんと我等は思ふが如何!心と魂は汝の肉体にあり。遠き所にあるにあらず。又も宗教くさき言を語りたり。されど是は魂と心の区別を明らめしめんがための言葉に他ならず。故に是等を宗教的に考ふること勿れ。

天理にらぬ任務をなし居りて、其にて望は達せずと云ふことなし。 諸子は心のみのはたらきにて魂を忘れ居るが故に、己の何なるを知らずして迷ひ居れど、汝に架せられたる魂は汝を棄ることなし。 心にのみ委せ居りては棄てら


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るるは当然なり。 何となれば自然を誤つが故なり。自然に逆行するが故なり。所謂自然を離れて不自然の方向に足をむくるが故に転落するなり。すべてを汝の魂にむけよ。其には先づ我に大なる魂ありて、其力は神より架せられたる働らきあるによつて是に従はば、其にてわづらひはあらじとの思ひを貯へて行ぜよ。信ずるとは己の心より己の魂のあることを信ぜよと教ゆるものなり。魂と心の区別は斯くの如きの相違あることに留意せよ。 とやかく心にのみ任せて徒らに心配すること勿れ。所謂安心とは魂を知るにあらざれば、真の安心は得られざるべし。

兎に角心のみの生活に甘んじ居りては、動物性にて終るの他なし。早くめざめて魂を見出し、是に心を委せて心魂互に融和した生活をなすことによつて、はじめて人間の姿となるなり。然らずばすべての事柄に対しての善悪邪正は知る事難し。何となれば動物性自然と、人間性自然とには大なる相違あるによりてなり。 相対性自然の中にも亦斯くの如く、小自然と大自然の区別あればなり。 心の善悪邪正と、魂の善悪邪正とには相違あるによりて、悩みは清除せらるるなり。例へば一個の宝を見たる心が是を盗まんと計るとき、その陰にひそみたる魂が、汝其を奪ふ勿れと教ゆるならん。其故に心は盗みをせざるなり。獣類はその明らめをなすことを得ず。欲すれば忽ち是を奪ふ。斯る事より推測せば、獣類には心のみありて魂のなき事を知るならん。 我斯く語らば諸子は云ふならん。手なづけたる動物は如何にと。是等は彼等にも心あるが故に、そのはたらきが人間より命ぜられてなさるるのみ。所謂人間の教へが彼等の心を化せしむる力あるによつてなり。 されど獣類には魂なきが故に、一度人間をはなるればもとの如く欲するものは勝手気儘に奪ふことをなすは、是彼等に魂なき証拠にして、先にも語りし如く獣類には人間の心に相当するものが、彼等の魂なるが故なり。是を人間にとりて考ふるならば、動物性本能とは心にして、人間性本能とは即ち魂なることの証明は是によつても明らかに知らるるならん。

反射力と云ふは心のはたらきにして、魂のはたらきにあらず。人間には魂あるが故に、心は二分されて是非の二つ


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に別れ居るが故に、是と云へば非と解し、非と云へば是と解する如き反射作用を起せど、其は唯魂によつて二分せられ居るにすぎざるなり。 謂はば心は魂に達して直ちにもとにかへる。 是はこだまの如しと知らば可なり。 魂が是非の区別を与へ得る余裕をあたへずして、直ちにもとに復するが故なり。自問自答の法とはこの反射力を応用して魂に迄到達せしめ、然してその魂より正しき答へをなさしめる方法に、他ならずと知らば可ならん。是等の方法は前巻にくはしく語りあるによつて、 諸子は既に承知なし居る筈なればくはしくは語らじ。もし諸子にして魂と心が何等の障碍もなく融和なし居るものならば、その反射力が忽ち答へとなりて心に通ず。故に心の反射力と、魂よりの反射力とには相違ある事の理は、推して知る事を得ん。

例へば、己の好むものを見て奪はんとする時、心のみの反射力ならば、奪ふべきか奪ふ勿れ。奪ふべきか奪ふ勿れと、再三再四繰り返してとやかく迷ふならん。 是が魂との反射力とならば、奪ふべきか奪ふべからずにて終るが故に、悩みはあらざるなり。其が次第に魂との交はりを深くすることに依て、欲するものを見るとも奪ふべきかの思ひなどはおこらざるなり。故に何等の妬み嫉みの心など露程もおこるものにあらず。 既に心は魂に依つて手なづけられ居るが故なり。恰も動物が人間の手によりて、育てられたると同様の結果なるに依てなり。 心を魂に融和せしむる事により、執着は清除せらる。 所謂棄執着の法とは、心を魂に同化せしむるにあらざれば、心のみにまかせ居りては、如何に苦み悩むとも成就するものにあらざる事の理は、是によつても明白ならん。是小自然と大自然の二つが、互に流転なし居るが故に、修養の道は作られ居るなり。拾も歩みのそれの如しと思はば可なり。この両自然がすべてに通じ居るが故に、進歩発達は得らるることの理をさとりたれば其より以上は、是を大自然に化せしめて一体となりて、更に次の小自然大自然の順序を追ふて歩みなば、最後には大自然の一路に到達して神の道に順ずることを得るなり。文意不明瞭にして解し難からん。されど是を読むもの考慮を払ひつつ、自得して更に順路を歩まれんことを望む。


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この事柄より現今諸子の世界に於て彼是論議せられ居る世渡りの方法を観察し見よ。 或は是とし非として、互に論議を交へ居れど、 其等の悉くが水掛論となりて是非をたしかむること少なからずあるならん。是等は魂によつて作られたる法則にあらざるが故なり。 神の定め給ひし法則には、斯るまぎらはしきものとしてあらざるなり。 魂の生活と心の生活とにはかくの如き相違あることに留意せられたし。諸子は人と交はるに心の交はりをなして、魂の交りをなさんとせざるによつて相争ひ、又相睦む等の行ひを持続し居るなり。故に何日かは真の融和をなすこと難からん。人間性の交はりならば決して争ひの生ずるものにあらず。心のみの交はりなるが故に、世は安からざるなり。夫婦間に於ても心のみの夫婦なれば、離婚する等の誤ちをおこせど、魂の夫婦とならば斯る事のあらざるは当然なるべし。古来日本の伝説に、遠く離れてありながら親と親との約束にて、結ばれたる夫婦が、互に顔をすら見知らざるに、一方が死したりと聞きて、生涯己縁附かざりしと云ふが如きことすらあるを我等は聞きたり。現今の男女間に斯る人のありやと聞かれなば如何に答ふるや。又斯る伝説を聞きて愚者と嗤ふや。我等に云はしむるならばこの伝説が真ならば、その夫婦こそまことの魂によつて結ばれたる夫婦として我等は賞讃するものなり。 人間の交はりに於ても

斯くありたきものなりと思ふなり。 斯くの如き底の交はりをなし居るならば、世の中の争ひは影を没して平和の世界とならんと思ふが、諸子には如何に感ずるや。余事は別として魂と心との相違は先づかくの如し。


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