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絶対界 第一講 不変性絶対と変化性絶対との関係 P199〜202

第一講 不変性絶対と変化性絶対との関係


成人聖者に問ふて曰く、絶対とは如何と。聖者庭の池水を指示して、絶対とは此池を指しその中に有する水も絶対なりと。 彼又訊ねて曰く、されば相対とは如何なるを云ふか。聖者曰く、池も相対にして水も相対なりと。彼更に問ふて曰く。されば何れに信を置くべきや。聖者曰く、汝の心のままにせよ。絶対と思はば絶対とせよ。 相対と思はば相対とせよ。是即ち絶対信なりと。 或人その意味の何なるかを知らず。されど重ねて是を追究する言葉も出でざるため余義なく黙したり。此時聖者その態度を見て彼に語りて、汝今心を動かし居るその姿こそ即ち絶対なりと。是を聞きて人手を打ちてさとりたりと云ふ例話あるなり。是等の理を諸子は如何に感ずるや。今此例話を更に縮小して考へ見る時、諸子は日々の生活に於て見る如く諸子の家には浴槽もあるならん。 又他に種々様々の器物も貯へあるならん。 是等はすべて完成したるものにてすべて皆絶対の姿なり。浴槽の全きものならば水は洩れずして人も容るる力そなる。故に全き浴槽は既に絶対の位置に置れたるものならん。是が損傷あれば水は保たれず。故に是等は相対関係となるなり。聖者が示めせし池も絶対なるが故に水も絶対となりて中に魚も踊る。故に水も絶対なり。池も絶対なりと教へたるなり。されど池不完全ならば水は保たれず。 水保たれずば魚踊ること難し。是相対なるが故なり。故に聖者は相対と教へしなり。 相対と感ずれば相対にてよし。絶対と感ずれば絶対にてよしとの教へも、この言葉によってうなづく処あるならん。 さりながら是等の説に関しては諸子は種々様々の方面より、又種々様々の疑問をなすならん。池は水を貯へんがための目的にて組織せられたるものなれば、完全に池となりて水を貯ふることによって、ここに池としての任務は果されたるなり。故に池の絶対は水を貯ふるにあるなり。浴槽に於ても同様なり。此種の類を名づけて変化性絶対と思はば可なり。即ち池は池の目的を達したるによって、其以上のものに化せられることあら


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ざるが故に、変化性絶対と云ふなり。斯く語らば諸子は思ふならん。是は不変性絶対なるかとの疑問なるべし。さりながら其は然にはあらざるなり。 是等は池として一時的のものにて他に化せらるれば池としての姿を変ゆるが故に、一時的の絶対となるのみ。 姿変われば他のものに変ず、故に変化性絶対と云ふなり。

人間は人間として終らば是等は一時的絶対に置れて、更に人間を離れて他のものに変化す。故に人間と云ふ名称は一時的絶対にして、是等も変化性絶対に属すと知らば可ならん。此比喩よりすべてを考ふれば、絶対より絶対へのつながりとなるならん。更に又他方面より考究せば相対より、相対の関係とも考ふることを得るなり。故に聖者も池も絶対、水も絶対、更に見かたによりては池も相対、水も相対の関係あるによって、何れに信を置くも可なりと教へたり。されど真の絶対とは如何なるものを指すならんと、或人が考へて迷ひたれど問ぶべき言葉を知らず、唯沈黙してありし姿を見てその思ひの境地こそ、真の絶対なりと聖者は語りしなり。是をさとりたるが故に、手を打ちて唯声を発したるのみにて、何等の謝辞を述ふることもあたはざりしなり。 この境地こそ即ち真の絶対境と云ふなり。 諸子はこの理を知るや。汲めども汲めども尽きざる泉こそ実在の絶対なるべし。汲めども汲めども測り知れざる知慧こそ空の絶対なるべし。

諸子が現在用い居る易学の理論として、大極別れて両儀、別れて四象、別れて八卦、別れて何々と語り居れど、是逆に返せば大極に返る。其大極を絶対と思ふならん。是を我等に云はしむればその大極は、即ち変化絶対に他ならず。又日本の国史に独化の三神偶性八神以下等々語り居るも、是等を逆に返せば易学の大極に等し。又仏教者の弥陀三尊とか称し居るもすべて同様にて、弥陀と云ふも是又変化絶対を現はす。他の宗教に於てもみな是等に類す。 何とならば大極別れてとある以上、その大極は変化するによって別るると云ふ意味を現はし居るによって、是を変化性絶対と云ふなり。されば是に対して不変性絶対と云ふ言葉の現はるるは、即ち変化性絶対と云ふ言葉の対立にして、絶


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対に於ても不変性と変化性との相対となる。然して何処迄追究すとも言葉によって定めがたき絶対に迄至らしめずば、確定絶対とはならざるべし。もし絶対に於て確定なしたる絶対を得るならば、無始終絶対に迄至らしむるにあらざれば得ること難し。 故に無始終界こそ真の絶対界なりと語るの他、言葉にて云ひ現はすこと難からん。 果して斯るところを探り求むることを得るや。 もし其所のみ一定の場所にありとせんか、そは神の世界を措いて他にはあらじとのみ答ふるの他なかるべし。然して斯るところのあるならばその位置こそ、限度を有すと云ふ理論も成立するならん。ものごとを仔細に検討すれば人智にては到底認識すること難きは当然なるべし。 獣類にも筋肉の具備あり。人類の筋肉と大差なかるべし。然るに獣類には知慧を有せず。人類にのみ知慧ありとするならば、それは何によってそのはたらきをなさしむるや。 肉体あるが故に知慧はそなはるとの理に帰するものならば、獣類に於ても同様の具備ある筈なり。然るに人間と獣類との知慧の相違は非常に異なる点少なからずあるならん。 学者は是等に対して人間には魂の有するが故なりと。 然らば獣類には魂の備はりなきが故に魂なしとして、人間と比較し見よ。人間の筋肉のはたらきによって種々様々の行動をなす。 獣類も然り。 その筋肉の動作は何によってはたらかされ居るやと、仔細に追究して考へを深くする時、ここに至って又言葉にて云ひ現はし難き数々の説は現はるるならん。生きると云ふ力のあるは何故ぞ。植物も生きる力によって発育するならば、生と云ふ原理は、何処より来りしか等々の質問を重ねらるれ

ば、答へに窮して知らずと云ふの他なかるべし。この知らずと云ふ言葉に迄すべてのものを深く研究して、仏教者はすべてを空なりと説きたるならん。仏教の一切空とはすべてを知らずと云ふ言葉に帰するの他なかるべし。 知らざる境地を空と云ふならん。 知れば空にはあらざるなり。 一切すべて計り知れざる境地を空と云ふならば、空の理論を究めずば空も空となる。その空を知るものは誰ぞ。 又その空を作りたるものは誰ぞと深く追究するならば、ここに又妙味しんしんとして尽きざるものあらん。 すべては教主の教へによつてこの解決を計るべし。


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斯るまぎらはしき方面に諸子の心を引き入るるも、すべては空のはたらきなり。変化性絶対も不変性絶対に包和せられあるが故に、変化性絶対が現出せられ居るなり。変化性絶対は既に空の中に存在する、空の実在なり。故に空の相対も帰するところは、不変性絶対の流れによって働らかせられ居る事に留意せざるべからず。 変化性絶対変化性相対すべて不変性絶対の中にありて、空の実在化となり居る点より、空の中にも空の実在あることに気附かざるべからず。空しとの言葉は、無のなき迄の意味ならん。此言葉と雖も徹底したる無の言葉にあらず。何処迄口にすとも無きものはなしの連続となるのみにて、最後の終点を求むること難からん。無きもの無か、或は無と云ふ言葉なしの意味か、曖昧なる言語にして、俗言に云ふからつぽにすぎず。然して何もあらざると云ふに尽き居るならん。空の研究を進めなばあるものなしの点を、発見すること難きが故なり。諸子は絶対無とか、有を伴はざる無とか、称し居れど斯るものはあらざるなり。 何とならば斯るもののあるならば、無始終霊子もあらざる地点を作らざるべからず。 斯る処を如何にたづね求むるとも、無始終霊子なるが故に知ること難し。 無を伴はざる絶対無、有を伴はざる絶対有とは、即ち無言詞を指すの他なきなり。仮に是を絶対境と考ふるも差支なからん。もし其以上の処あるならば其は神に於ても是を応用なし給はざるべし。又神を措いては他に知るものもなからん。 又人類としてかかる処を探り求めんとなすの要もなからん。 無始終霊子を絶対として考ふれば、其にて神の世界をも知ることを得るによって、其以上追究して迄考察する必要はあらざるなり。 全宇宙は無始終霊子の備はりなるが故に、是を不変性絶対と云ふなり。 無始終霊子の不変性絶対の中に、変化性絶対のあらはれありとして考究せば、其以上の研究は神となるにあらざればなすこと難し。教主と雖も其以上は語り給はざるべし。又語らずともその処迄認識する力備はらば、其にて天界のすべては明らかに知ることを得、又自由自在に往行することを得るによって、安楽境は求め得られて永久不変の居に、置るるこ

とは疑いなきなり。


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絶対界 巻の三 絶対界とは如何なるところか P195〜198

界 巻の三

絶対界とは如何なるところか


絶対界に生れて絶対界に帰る。 もし其が中途にて絶滅するものならば望を達したりとは云ひ難し。 先にも語りし汝は永久汝なりとの説より是を考察する時、絶対界より絶対界にかへるは是その言葉に匹敵す。されど汝に出でて他の彼に変化せば、其は中途挫折して目的を達したるにあらず。 さりながら絶対界より生れたる汝ならば、最後に至って絶対界に帰るの順路あることは察せられるならん。ここに迷ひの生ずるなり。絶対に生れて絶対に至らば、生れし時の絶対と到りし処の絶対とには、相違ありやについて、又新らしき考へを起さざるべからず。 去年の元旦と今年の元旦とは元旦と云ふ言葉に於て同じけれど、事実に於て去年と今年の相違あらん。此事柄より生れし時の絶対と死しての後の絶対とは、等しからずとの疑問を起すは当然なるべし。然りとせば絶対と云ふに対して、不変と云ふ言葉は成立せざるべし。生れし絶対死しての絶対、其が等しからずとならば、絶対にも二種、或は三種の関係ありやとの疑問を起すは当然なるべし。 さりながら諸子の考へは未だ相対考へをぬけきらずしての、考へよりこの疑問を生ずるなり。 何となれば生れて死す。 これ時間空間を考慮し居るが故なり。地球は太陽の周囲を一廻転するには一年の月日を要す。是時間空間を有するが故なり。 去年と今年の相違を考ふるも、是又時間を想像するが故なるべし。 もし是等に対して時間空間をとり去りて、考究する知慧のそなはりが諸子にありや。 先に円海が神も知らざるならんと言ひし言葉に対して諸子は如何に考ふるや。諸子の信仰は相対性の考へより、神を眺め居ること多し。諸子は己にして己を


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知らずと云ひしに対しても、末ださとるところあらざるなり。円海が己末だ地上に生をうけ居りし古き昔を思ひ出して、諸子の心をさとり居るが故に、斯く語りしも決して偽はりの言葉にてはあらざるなり。 神を措いては他に知るものなからんと云へる言葉あり。其言葉あるに不拘何故円海が斯る言葉を用いしや。円海の言葉は即ち諸子への促しの意味と、他にめざめしめんが為の心より斯くは語りしなり。然るにこの言葉に対して諸子は反射力を起して反問なしたるにはあらざるか。是即ち諸子は心を神にむけたる故なり。諸子は、神は凡てを知らざることなしと思ひ居ながら、何故神の眼をくらます如き行ひをなすや。所謂神は知らじと思ふ心より行ひしか。 然らずば神を疎んずる心より斯る行ひをなし居るがの二つなるべし。然りとせば神を神とせず、神を粗略になし居ることを意味するによって、円海はこの言葉もて汝等の心を引き戻したるに過ぎざるなり。すべて空なるものにて眼に見ることのあたはざる神の存在を、彼是論議するとも証拠だつるもののあらざるが故に、神も知らざる事あるならんと語るとも、神は知ると語るとも唯空論にすぎざる故なり。神は知ると思ふも知らずと思ふも、 其等は諸子の心に神あるか、或は神なきかの二つより出づる言葉にすぎず。諸子の信仰は相対性なるが故に、神は知らずとの言葉ありとも敢て咎むるところなからん。是を絶対信仰より語るならば、即ち神は知り給はざるところなしと云ふ結論となるなり。諸子の信仰は相対なるが故に、円海はかく語りしに他ならず。されば一層眼を深くして神は知り給はざることなしとの境地に迄、進みなば何とて不善の行ひをなすべきことあらんや。諸子は日々善行をなし又は悪行をも敢てするは、即ち相対性信仰の現はれにて、末だ絶対信仰とはなり居らざることを考へて、ここに一段信仰の度を高めよと云ふ意味より円海は斯くも

教へたるなり。五月 (昭和二十五年) 二十七日のこだま会に於て泰岳が諸子に教へたる呪(まじない)に対して、此呪(まじない)の何なるかを絶対信仰より見るならば、その尊き教へに感謝するならん。然るに諸子は未だ相対信仰より度脱しあらねば、その意味は察すること難からん。 こだま会の中にて慈音のみが教へを受けざりしは何故ぞ。慈音に聞かすの要なければ泰


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岳は彼の耳をふさぎたるなり。この例に徹しても諸子は一工夫せざるべからず。 絶対の原理をさとりて、其絶対を目標として進むことによって、目的は成就するなり。是を名づけて絶対より絶対に至ると云ふなり。絶対より絶対へ方向をむけ居らば、すべては絶対にして不変なり。是即ち無始終霊子より、無始終霊子を追ひ求めて尽きることなし。此境地に至ってこそ、初じめて諸子は絶対境に移されたる結果となるなり。諸子の到達するところは絶対にして、 出発せしところも絶対なりしことの理を覚らば、其にて諸子は肉体を有しながら既に絶対界の境地に移されたる人となりたるにて、ここに始めて望は達せられたることに留意せよ。然して其さとりを貯へ居らば、永久神の子として神の許を離るるものにあらず。其後は神より恵まるる徳の稔りが完全となり行きて、ここに初めて神の家に帰る事を許さるるなりと知らば、さとりとはむづかしき理論あるにあらず。 教へられて然あるかとのみの考へにて、何日迄も其教への姿を見守り居りては、無用の書物を眺め居るにすぎず。其書によって己その程度迄至るにあらざれば、真の理を明らむること難し。 知るのみにて行はずば食を眺めて喰はざるに等し。味をききて喰はずば味は味はるるものにあらず。要は食するの他なかるべし。故に早く喰ひてその味を知るべし。

前より語り来りたる如く諸子の考へにては絶対とは、すべて行き詰りとなりたる所を想像するならん。 我等の語る絶対とは行きづまりを指すにあらず。 絶対より相対、相対より又絶対にかへりなば、其ところこそ極致なるが故に、以上進むことあたはず、故に其居を指して絶対と考ふるならば、其は行き詰りにして絶対にはあらざるなり。又かかるところに到達するならば不変性なるが故に、決して安楽の場所とは云ひ難し。所謂死ぬと云ふ他なかるべし。死すと云ふは止まるの意味ならん。即ち止まり止むの意味なるが故に死したるならん。 斯るところを絶対と考ふるが故に、諸子の心は安からざるなり。最後の地点が行きづまりとならば、其は修行するの必要もあらざるなり。 我等の語る全宇宙は無始終なるが故に、絶対と教へ居るにて是を正しく認識するにあらざれば、絶対の意味を曲解して迷ふは


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当然なり。無始終なるが故に絶対と云ふなり。行づまりを指すにあらず。この意味は容易にさとることは難からん。

よって修行せよと云ふなり。 修養修行の力加はらずば、この意味を把握すること得ざるは当然なり。即ち絶対なるが故なり。絶対性原理とは無始終界を指すにて、此事柄をさとらんが為の修養修行に他ならず。諸子は一時的然あるかとのみの考へにて終らば其は行きづまりにて絶対にはあらざるなり。絶対なるが故に果しなく尽きる所あらざるによって、我等は是を絶対と名づけ居るなり。迷ふと云ふも絶対自然の現はれにして、迷はずと云ふも同様なり。故に迷ふとか迷はずとか云ふが如き言葉もて、知らしめんと計るとも、決して諸子の心に貫徹するものにあらず。諸子の魂にこれを明らめしめずば、到底言葉にては明らむること難き故なり。されど是が魂によってその真を探ることを得ば、 此処に初めて絶対の何なるかは知る事を得るなり。絶対を知らんとならば到底諸子の世界の言葉にてはさとり得るものにあらず。 言葉なきさとりにあらざれば絶対を知ること難し。 現在学者間に於て絶対とは是なりとか、相対性原理は是なりとか語り居れど、 其等を我等に云はしむれば相対性絶対を語り居るにて、絶対性絶対にあらざるなり。相対即絶対絶対即相対とは、即ち真の絶対にあらず。帰するところは相対性絶対に他ならざる故なり。 現在の学問は相対性絶対を語り居るにすぎずして、真の絶対を明らかになし居る学問にはあらざるなり。故に無より無を追ふて追究せられなぼ、語ることを得ざるならん。有に於ても同様の関係となるなり。有無に関してすら、是を絶対化せしめて語ることを得ざる学問にて、到底真の絶対を語ること難からん。 是等はすべて言葉の至らざるが故なり。故に真の絶対を知らんとならば無言詞界の教へを受けずば、絶対の何なるかはさとること難し。されば教主によって教へを受けよ。


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絶対界 第十章 霊気と霊気の交はりに就いて P190〜194

り。されど是は方便にして帰するところは、自己の魂を発見する方便にすぎざるなり。信の力すぐるれば自己の魂が稔りを全うすることの理は、かくの如き関係となると知らば更に新らしき道を構じて、其によって自己の個性を発見せば、神を求め仏を願ふの要もなからん。 例へば我に信じらるる事柄に対して、他人は厭ひて信ぜざることのあるに対してもうなづくところあるならん。 小さき例にとりても我にはこの薬草が貢献ありと思ひて他に奨むるとも、其人には効果なき事の事実もあるならん。 其等に対して諸子は体質の相違なりと思ふならん。その体質の異なる如く信の方向にも同じ形のあることに注意せばうなづくところあるならん。さればこそ我はこの神を信じ彼はその神を厭ふ如き等々みな、その人々の個性の相違によるなり。故にミキョウも他の人の信仰を傷くること勿れとさとせしも、すべてこの理なるによってなり。外を求むるも帰するところは、内を求め居るに他ならず。是と反対に内を求むると思ふも、他を求め居る関係もあるなり。是は自他一如なるによつてなり。 他と思ふもすべては我なり。 自他一体の境地に至らばすべては、一に帰することは既に諸子も知り居るところならん。

斯く語らば諸子は思ふならん。 悪人は不善を喜ぶは是悪を信ずるによるかとの疑問なるべし。然り、然あるなり。すべて諸子の世界には人々によって定められたる約束の善悪あるによつて、ここに又種々様々の異なりたる範囲が拡められて枝葉をつくること多し。 悪人は悪を好むと云ふも魂の信あるが故なり。されどその魂の本質は善なり。 先にも語りし如く魂に相当する信の種子が、 二葉に芽を出したる時、善に属する方を育てず、悪に伸びる方向に信を育つるが故に、ここに善悪の区別あるなり。故に悪人は悪の方向に育ち行きて悪を好むなり。されどもし其が中途に至つてさとりて魂の信にかへれば、その悪の個性は消滅して善の方向に転換して、ここに初めて悪人が善人となる如き結果となり行くも、すべては個性の魂の信にかへりて、はじめて正しく化せらるると知らば可ならん。善人と云ひ悪人と云ふも斯くの如き性質を有するが故に、二葉は育ちて枝葉をつくるに至るなり。信と云ふも個性なるが故に、そ


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の栽培法をあやまてば善悪何れにも育てしむることを得るなり。悪を信ずれば悪となり、善を信ずれば善となる。 すべては信なり。 栽培するとは即ち指導者の責任にありと知るべし。 兎に角信の力は其人々の個性によって強弱あることは云ふ迄もなし。信ずる力を養ふを魂を磨くと云ふなり。

ここに又考ふべきことは信仰の力を強からしめんがための方法として種々様々の教へをなす。その事に対しての注意なり。個性の相違をよくよく見出して、そのものに対して適当の法を以て導くにあらざれば、信の力を強からしむること難し。厭ふものに対して強いて好まざるものを以て導くとも、望を達すること難きは云ふ迄もなし。ここに指導するものを択ばざるべからず。是を他を求むると云ふなり。他によつて自を育つると云ふもこの種に属す。彼我一体となる喜びこそ真の信となるなり。霊気と霊気の和すると云ふは、即ち縁なりと語りしも是なり。縁とは好めるものと好めるものの両者が和合するが故に縁となりてつながる。 是を縁の道と云ふなり。 この云ひまわしは不徹底なれど我にいささか思ふことあるによってかく婉曲なる言葉を用いて語りたるに他ならず。是等は後に諸子が合点する日は遠からずあるべし。 ここに一言注意することあり。 この十章に対して文字のあやまり或は書損等のあるところは改むることは苦しからず。されど文意を彼是批判して筆を加へて添削すること勿れ。是はかたく止めをく。

好むと好まざるは和合するものにあらず。是を縁なしと云ふなり。縁なき衆生は度し難しと仏書に認めあるはこの理なるべし。故に己の欲する方向に心をむけ居らば、是に対してその好むものと同化するものの来りて結合するは、縁の一大事にしてここに新らしき道のあることに心せよ。

諸子はつる草をつくりたる体験あるならん。つる草は彼方此方とのび行きて何か手がかりあらば其にからみてのび行き、更に又他に手をさしのべて己が欲する方向にのび行くにてはあらざるか。是を人工にて他に転ぜしめんとそのつるを他のものにからますとも厭ひて其ものを離れて、他の方向に転じ居る如きことの体験はあらざるか。魂なきつ


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る草に於ても斯くの如く縁のある方向にのび行き居る事柄に徹しても覚る道はあるならん。 よく我等の耳にする俗言に縁は不思議なるものと語り居るを聞く。されど縁は不思議なるものにあらず。縁は不思議ならざるところにあるなり。空気は縁によって一体化なし居ると語りしことに対してよくよく考察して悟りを得よ。

異国の人と信を厚うするも縁なるべし。其は人種の異なるに不拘霊気と霊気の縁が結ぶ事によって、つながれたるに過ぎざるなり。此事柄に対して我語りし汝の肉体を一枚の木の葉として考へよと教へしはここにその意味のあることに気附きしならん。 異国人の肉体と汝の肉体との相違は、恰も異なりたる木の葉の如し。されどその木の葉が枝より出でたるものとして考ふる時は、霊気とは木の葉を生ぜしむる枝に他ならずとのさとりは得らるる筈なり。 一枚の木の葉を仔細に観察し見よ。必らず同種のものはあらざるべし。一見同じものに見ゆれど、其を仔細に検討すれば、同じものは一としてあらざるなり。枝より幹に幹より根にかヘせば、如何なる関係となるや。諸子は此点に着目して己が修養の資料とせられんことを。

空と実とは別個の如く取り扱はれ居れど帰するところすべては空なり。然して、空と実とをつなぐは即ち縁なるべし。縁を辿りて逆上れば空にかへり、其が反対の方向に向ふならば実となる事は是当然なり。縁を辿ればすべては一にして、不可分のものにあらずとのさとりは得らるる筈なり。故に縁は霊気と霊気を同化せしむる糊に等し。一個々々の細胞が区分され居る如く見ゆれど、それが縁によってつながる。されば縁とは引力圧力に相当するはたらきを有するものとして研究せば、離るるも縁なり密着するも縁となる関係もあるならん。 一個々々の細胞が、或はつながり、或は離るるも是皆摩擦のある故なり。全宇宙のものすべて同種のものならば其は絶対にかへるとき一つのものに結合されて、其以上のものを作り出す力を失ふに至るは是又理なるべし。されど始終なき全宇宙なるが故に、斯くも微妙なる素質を有し居るなり。 始め終りなき全宇宙の姿こそ即ち絶対と云ふなり。故に絶対の中に種々様々のものが


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作り出だされて、ここに相対関係のそなはりを有するに至りたり。是等の道理は教主の教へをうけよ。

全宇宙より更に宇宙と組織されて、その宇宙の中の一部に作り出されたる汝等が世界と雖も、根は一つにして、たとえ形状の異なりありと雖も、大体の骨組はすべて一つの原理よりその流れを有するによって、小動物に至る迄みな全宇宙の素質に依って現はされたるものなれば、是を根に返せば、悉くは同種のものに化せらるる道理あるなり。故に根より枝葉に至る迄考察せば、全宇宙すべてのものは一つとして、不可分のものはあらじと云ふ理も察せられるならん。例へば霊気を一個の細胞と見なして考へ見よ。我の霊と彼の霊と同じからずと雖も、縁と云ふ法によって是をつながば密接する事は至難にはあらざるならん。例へば汝の思ひを彼に通ぜしめんとならば、先づ彼の霊気の分度を計り、然 してその程度を己が程度と同じ迄に至らしめて、然してその思ひを彼に通ぜしめなば彼は認知することを得るならん。恰も彼の電波と我の電波とを同一にして言葉を送ると同様の関係となるによってなり。通ぜざるは波長の合はざるが故なり。 波長を合はすと云ふは、即ち縁なりとして研究せば汝の声は天に通ず。汝の思ひは天に感ぜしむる事難きにはあらざるならん。行者は朝に夕に此法を研究して機械なくして常に無電を交はし居るなり。霊気の通ずると云ふは此理にして別段不思議なるものにあらず。されどその法が未だ人にさとり居らざるが故に、機械なくしては通ずることあたはざる如く思ひ居れど、衆人悉くが、この法を学び知るならば、無電機械の必要もあらざるならん。 是等の理より種々様々の事柄が古来より伝説となりて、迷信とか妄信とか云ふことを語り居れど、深く根にかへして観察するならば、その迷信妄信はすべて明らかとなることは云ふ迄もなし。諸子は己が知慧にて計ることあたはずば、其は迷信として取り上げず徒らに放棄する傾向あるは、研究力の乏しきが故なり。狐狸に誑かされるとか云へる言葉すら、現在の諸子の世界には研究する人はあらざるならん。もし、是等に関して霊気の研究なし居るものならば、又一種の発見は得らるる筈なり。狐狸の人を誑かすなどはもとより取るに足らざる愚説なれど、霊気の研究より


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考察するならばここに一種の感想と、新らしき発見は得らるる道のあることには心附かざるならん。 狐狸は人を誑かすとも人は人を誑かすにてはあらざるか。 更に面白きは執念の蛇とか妖怪の猫とか云ふ如き伝説もあるならん。 是等に関しても研究せば面白き事の意味のあるものなり。蛇の術とか、蝦蟇の術とか云へる事柄は、霊気の研究には面白き意味を有するものにて、是を唯迷信妄信として、放棄するは至らざるが故なり。敢て愚説として顧ざる人の方が、却て愚人なるべし。猫は鼠をとる。その態度より霊気の研究は得らるる筈なり。 又蛇が鼠を或は蛙を狙ふ態度など、又蝦蟇が空とぶ虫を吸ひ入るる様などより、引力圧力の研究の材料は得らるる筈なり。余事は兎に角霊気と霊気の交はりが、愛の交はりとなる場合と憎悪の交はりとなる場合の事柄に対して考へ見よ。 愛の交はりは即ち和合にして、憎みの交はりは分離の交はりに相当す。故に愛は引力に合ひ、憎悪は圧力に合ふ。この事柄より霊の研究を更に深く深く進めば、大自然の妙味はしんしんとして尽るところなからん。実に面白き事ならずや。又この研究を重ねる人にあらざれば、天界の如何なるかは認識すること難し。諸子は肉体滅後の如何なるかを知らんとならば、この研究を深くせざれば望は達し難し。故に肉体ある間にこの研究をなして後輩者の為に、導きをなすことに努力せられては如何!

(昭和二十五年三月十日-五月二十五日)


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