絶対界 第九章 不滅母霊子と無言詞の関係 P142〜146
第九章
不滅母霊子と無言詞の関係
諸子の中には己が思ふことを彼に伝へんとして、その事柄を言葉にするあたはず。唯思ひのみはたらかせて、彼に通ぜしめんと計る時、彼は無言のうちに是を受け入れて、その思ひを満足せしむることの体験はあらざるか。眼と眼を見合せて、その思ひが彼に通ずる意味を知るや。是等を言葉なき言葉と云ふの他なからん。 我 思ひ彼に通
-142-
ず。其が膝と膝とを交へたる時ならば諸子は別段あやしまず。 其が遠く隔りたる時ならば、如何に考ふるや。 接近なし居る時と、隔り居る時との事に対してその何故なるかを知らざるならん。世人は是を無心の知らせと称し居れど、果して其が無心の知らせなりしか、或は己が空想より出でしかに迷ふならん。 膝と膝とを交へ居てならば直ちに、彼が我に思ひを移したりとして感ずれど、遠く隔りてはその感じは起らざるべし。 無電によって幾千里へだたる人と語ることを得るならば、距離を考ふるの要もなかるべき筈なり。其が機械を設けて、其機械によって語ることを得るとのみにて、原理を考へざるが故に、機械なくしては通ぜずと思ふならん。 所謂機械とは法なるべし。 その法によって通ずるものならば、機械に代るべき法を、人力にて行はれずと云ふことなからん。機械は人の造りたるものにてはあらざるか。その機械に相当する法を、人力にて用ゆべき力備らば、機械の必要はあらざるなり。諸子は知慧を働かせて機械を作る。然してその機械より己が劣り居ると思ふは、余りに枝葉に信頼する結果にてはあらざるか。 機械なくして、慈音と我等は語る。是を諸子は冷笑して嘲るならば、余りに知慧なしとは考へざるや。機械には限度あり。人智には限度なしとは考へざるや。我等と慈音の語り居るを見ば、諸子は慈音を狂人として取り扱ふならん。彼は狂人にあらず。 されど学者にも、智者にもあらざるなり。 彼は唯己が心を解放して、然して不滅母霊子を受け入れ居るが故に、その霊子と云ふ一種の機械が彼に通じ居て、其によつて我等の言葉は、彼に感通なし居るに他ならず。 すべてを捨てて不滅母にかへらば、かくの如き機械に相当する法と化せられて、無言詞が有言詞となりて彼に、否人に通ずる具備は、誰にも有し居るものにて別段慈音のみに限らざるなり。諸子はあまりに種々様々の事柄を記録し居りて、その記録なし居ることが妨げとなりて、共鳴感応なすことあたはざるに他ならず。斯く語らば諸子は云ふならん。 すべて物事を蒐集して心に記録し置かざれば、何等の要もなさざるべし。然り然あるなり。されど諸子は凡てのものを其ままに記録し居るがために妨害となるなり。 多くの事を取り入れて、養分のみ吸収し、他の殻を排出せしめずば
-143-
食滞して胃腸をこはすのみ。却て身の災禍となるに他ならず。所謂諸子は食滞なし居るなり。 排出物を貯へ居るが故に、他のものを摂取するあたはず。満腹なし居るに等し。早く消化せしめて余分のものを排出することに努力せよ。然することによって完全なる組織は得られて、機械のはたらきが旺盛となること疑ひなからん。
例へば一巻の書物を読む時、 その書物の中には種々様々の事柄あれど、その中に含まるるものはきはめて少なし。他は参考となるべき資料に他ならず。 故にその眼目となるべきもののみとり入れて、他のものは棄てなば其にて足る。然るにその全巻を悉く心に記録し居りては、妨害となるもののみ多くして却て、眼目とすべきものを摂取することあたざるべし。すべては此理なり。学問はなすべし。されど辞引にはなる勿れと教へ居るにてはあらざるか。 幾千言を聞くとも帰するところは、主題に帰するにてはあらざるか。その主題なるものを道理によって明らかならしめんとするに他ならず。故に主題と道理とのみ知らば、他は棄つるに不如とは考へざるや。修養修行とはかくの如き底のものにて、その真髄をのみ取り入れて養分となし居らば其にて可なり。理に合はざるものならばいさぎよく棄つべし。物知りとなる勿れ。覚者となることに努力せば可ならん。話は横道に入りたる感あり。もとに復すべし。
我等が常に語り居る如く文章とか辞句とかに囚はれず、唯その中に含まれある真髄を把握せよと、語り居るは是なり。辞句に囚はれ文章に囚はれて、彼是論議なし居りては、その真髄を把握すること難きのみか、却て迷ひのみ深くして修養修行の妨害となり、徒に光陰を空しくするにすぎざるべし。 よつて常にかく語り居るなり。されば無言詞を有言詞に化せしめて、是を理解する力に化せしむれば、其にて行は全きを得るなり。 如何なる事柄が身に振りかかるとも動ぜずさわがず、 唯一心にその方向に向ひ居らば、自づとその道を開らく具備は諸子の魂に宿されあるが故に、何日かは目的を達する事を得るなり。されば多くのことを聞きても、その中より参考資料となるべきものを取り入れて他は捨つべし。然らずば無言詞の意味を確実に把握すること難からん。
-144-
諸子には言葉を発する具備ありて其によって用を弁ずることを得れど、他の動物には斯る具備あらざるが故に、 他の方法を用いて用を弁じ居れど、帰するところは己が思ひを言葉なき言葉によって、伝へ居るに他ならざるなり。諸子の中に唖者と云ふあらん。 是等の人は他の種々様々の法によって、己が意中を語りて用を弁ず。 所謂他の動物と異なるところなからん。 語らんとするに言葉なく、言葉なければ己が意中を伝ふること難し。然るに其が霊界の人ともならば、何によって用を弁ずるかを、諸子は仮に考へ見よ。姿あらば何か形によって伝ふることも得るならん。 されど形なくしては何によってか伝ふることを得るや。諸子には到底その真を究むること難からん。斯く語らば諸子は思ふならん。姿形あればこそ、種々様々の思ひが湧き出づるなり。もし姿形なければ、何等の感想も湧き出づるものにあらず。何等の感想も湧き出でずば、言葉も更に必要はなかるべしと。斯く考ふるは諸子の思ひなるべし。形なき霊界の人とならば、何等の感じも湧き出でず、又何等の任務をもなすの用もなからんと。 然しながら仮に諸子は肉体を失ひて、霊のみ残り、其が種々様々の悩みを有するならば、如何にしてその苦みよりまぬがるることを得るやに、思ひを致し見よ。形あらば言葉にて他に訴へ、又他にたのみて苦みより救はるることもあらん。されど姿なく形なくし苦みのみ残り居らば、如何にしてその苦悩よりまぬがるる事を得るや。諸子は夢にうなされて他に対して救ひの声を求めて通ぜず。醒めて肉体より汗を出してその夢の恐怖を物語ることすらありしならん。 その夢は形のあるによつて醒むれば消滅すれど、もし其が姿なくして醒めずば、永久苦みより悶え迷ふの他なかるべし。 我、斯く語れば諸子は他事の如く思ひて、何等意中には止めざるならん。 智者も学者も常人もみな、然あるならんと我等は思ふなり。 肉体の変調によって夢にうなさるることは是非なし。されど肉体なければかかることのあるべき要なしと思ふが故に、我等の言葉にはあまり重要視せざるならん。 事の実否は兎に角として、もしあるとして修養修行の道を求めんことを望む。所謂ころばぬ先の突張りとか云ふ比喩の如く、予めその事柄に対して肉体を有する間に備へをなしおかば、
-145-
たとひ肉体滅後に於て斯ることの襲ひ来るとも、防禦策は構じらるるならん。仏教者の多くは無常観より来世を語り後生を得よと教へ居れど、諸子には其を一種の方便として聞きのがし居るところ少なからざるべし。
我等は現在の諸子に対して、善悪の行ひを語るものにあらず。善を行ひたるものは極楽へ、悪を行ふものは地獄へとか云ふが如き事を語るにあらず。事の善悪如何に不拘、天界には天界の姿あり、下界には下界の姿あることの事実をそのまま諸子に語るに他ならざるなり。 五大鏡の説明に於て示したる如く、天界へ流れ来る魂は、川の如く続き居るものにて、もしその魂が水ならば汲めども汲めども尽きざるべし。 光の海とも見られ、或は混濁したる光の泥海とも見らるる、かの多くの魂が、選魂所を通過し居るを学びたるならん。下界より上界に上り来る魂は、泉の如くとして湧き出で居るを見るならん。姿なき姿とは、是等を云ふなり。多くの魂には声あり。 言葉あり。されど鏡に映じ居る間は、行くに任せ、なるに任せ居れど、是が選魂せられて各方面へ運ばるれば、又もや一種の姿なき姿に変じて、或は喜びの声を放ち、或は悲しみの声を出して、その騒々しさは筆舌の及ぶべきにあらず。無言詞の声とは是等に属す。 かく語るとも諸子には到底通ぜざるべし。 言葉なき言葉を聞き得る耳に、或は眼に、化せざれば見聞
すること難からん。高き処より一滴の水を落さば、地に落る迄其音を聞くことすらなし得ざる諸子の肉耳は、不自由なりとは思はざるや。汝その居に安んじ居て、天界に或は下界に多くの声ありと語るとも、諸子の耳には聞くこと難からん。実に諸子の耳は不自由なり。 肉体に委せ居らば、如何に労苦すとも如何に研究すとも、言葉なき言葉、声なき声を聞くこと難し。些か理窟のみならべて、 諸子を籠絡するが如く思ふならんも事実は然らず。諸子の耳を、或は諸子の眼を無に帰せしめんとして斯くは語り居るなり。今少し忍びて我説を聞かれよ。是は至って重大なるが故なり。
元来物事を組織し建設せんとするは生かさんがための方法にして、亡ぼさんがためのものにあらず。諸子の世界に
-146-