hiro-yuのブログ

ユーさんとやり取りするためだけのブログ

絶対界 第四講 神我一体によって真の自由は得らるるやP215〜220

第四講

神我一体によって真の自由は得らるるや


此講目の如く神我一体とならば不自由の束縛は解かれて解放せらるるやと云ふに対し、諸子は更に迷ひを深くするならん。神ありと思ふ心にすら不自由を感ずるに、神に交はらば尚更窮窟となりて、己が欲するがままの行動はなし難からんとの思ひを抱くならん。 諸子は神ありと思ふは唯思ひのみにて悟りたるにあらず。己が行為の正しからざる


-215-


場合、心には不善なりと思ひつつ、その不善を敢てするにてはあらざるか。 心に不善と考ふる時は、其は神ありと思ふのみにて、その不善を敢てするは神を知りながら否神を恐れつつ誤ちを犯すなり。 斯ることは屢々体験するところ

ならん。悪きと知りて不善を企つ。悪きと知るは神を知るなり。是を行為に移すは神を離るるなり。汝の魂は汝が心を知る。汝の心は汝の魂を知る。その故にこそ心魂互に争ひを交へ居るによつて是一体化にあらず。 故に魂の束縛に縛ばられて苦むなり。 魂心一如の生活をなし居るならば、親しみ睦みて行動を共になすによつて、善行は営れ悪行は捨てらるるが故に、反目する憂あらねばすべては自由自在の身となりて、ここに不自由の束縛は解放かれたるなり。

末知日記前巻に於て親に不孝をなしたるものの子が、不孝なせし親に対して孝行の取扱ひをなし、却て良心の苟責にせめられて苦みと云ふ例話あるならん。 不孝の子が孝行の子によって縛られたる苛責のなわは、その苦みの程度は諸子には察せらるるや。 常に語り居る如く人の性は善なり。 その善と云ふは即ち魂を指すなり。不善を犯すは心にして、その魂より心が縛ばられて苦み悶え居れど、是を魂に返して共に一体化して道を歩まば、其束縛は解かれたる事の理は察せられるならん。

わづか諸子の肉体に宿れる魂と心の一致によりてすら、自由は得らるる道理より、ここに一段思慮を深くして霊に及ぼすことに努力せば、その力の偉大さは想像にあまりあらん。 諸子は己に有する魂を余りに低く評価なし居るが故に、魂と神との関係をはるかに遠きものとして神と我とは到底一体化するなどとは考へず。故に諸子は神より遠ざかり居て、勝手気儘の行ひをなす為不自由の世渡りをなし居ることは察せられるならん。 心と魂の如き関係より、更に進んで魂と霊に移して是を更に延長して、霊と神に通ぜしむれば、心魂霊神一体化なすことは難きことにはあらざるならん。 故に順序として心魂一体の修行をなし、 終つて魂霊の修行にうつり、然して霊神の交はりを深くすることによつて、ここに初めてすべては完成す。されば基礎となるべき心魂一体の方法を知りて、其によって行じ居らば、


-216-


第二段の魂霊一体は学ばずともなし遂げらるることは云ふ迄もなし。 魂霊一体の法を知るをさとりと云ふなり。 さとれば最早霊神一体の法など自づと自得するによって、ここに初めて神を知るに至る。 故に大切なるものは心魂一体の法にして、又その行の困難なることは筆舌の及ばざる程苦き行をなさざるべからず。 是が完成すれば最早魂霊の一体化など至つて容易となりて、その後はさまでむづかしき苦みを味はずとも望は達せられると承知せよ。

心魂の一体化は至極簡単の如く感じらるれど事実は左にあらず。 仏書にもあるく煩悩の犬は追へ共去らず。 菩提の鹿は招けども来らずと云ふ言葉もあるなり。即ち雑念妄想は容易に失するものにあらず。 明らかなる光明はその雲にとざされて光は容易に輝きを増すことの困難なるを教へたるものならん。 肉体と魂の間にある心が、雲の如く常に魂の光をさへぎり居るが故に、心魂一体の修行は困難となるなり。 心を空にして、魂の光を肉体に輝かせることによつて、初めて心魂一体の望は達せられると承知せよ。この理は誰にも理解することを得るに不拘、事実に於てなし得られざるは、そこに何か一種の妨害となるべきものの存在なし居ることに意を用いざるべからず。 理解することを得れど法を知らざるが故に、苦しむなりと語り居るを我等は耳にす。理論と事実とに於て是が一致せずば理も理にあらず。されば是には何か一種の法なかるべからず。雲を払ふには風ある如く、心の迷ひを晴らすには風に相当するものもあるならん。迷ひを晴らすは明らめなるべし。この迷ひにはこの明らめあり。 彼の迷ひには彼の明らめなかるべからず。故に是等を明らめんとせば即ち修養修行の力なくんば得ること難からん。是には指導者を択ぶの要あらん。

其は兎に角神我一体によって真の自由の得らるることは理解したるならん。 小我をすてて大我を得よと云へる言葉は、即ち心をすてて魂を得よとの教へなるべし。是を更に延長して小魂をすてて大霊を求めよ。 更に進んで小霊をすてて、 大神を求めよと云ふに迄行ぜざるべからず。是を要約すれば、小自然を捨てて、大自然に順ぜよと云ふ言葉に尽きるならん。 諸子は是を机上の空論と思ふや。我等は然とは思はざるなり。 末来は遠し。諸子は未だ小さき心をす


-217-


てかねて、其にのみ囚はれ居るにてはあらざるか。日々の世渡りに於ても彼是わづかなることに囚はれて、其にのみ拘泥して或は嘆き或は喜悦ぶ。 或は怒り唯徒事に心を労し居りては、我等の説を聞きても机上の空論と思ふの他なかるべし。 早くめざめて広大無辺の霊界にまなこをむけよ。 然して机上の空論と思ふことを早く事実に於て、体得せられん事を我等は望むものなり。

諸子の信仰は余りに小さし。 彼の神を信じて福徳を得んとか、此神を信じて病苦を払はんとか云ふが如き些細なる信仰にては、我等の説を聞きても机上の空論と思ふの他なかるべし。我等の語るところはかかる微々たる事柄を彼是論ずるものにあらず。 諸子は霊の研究せんとか、霊を科学的に研究せんとか云ふが如き愚昧なる事柄を、誇大なる如く吹聴し居るは、実に滑稽至極の事にて、我等に云はしむれば、大海に一疋の小魚を探り居るに等しと云ふの他なからん。 今少しく智慧をはたらかせて、霊の本体を明らめよ。

近来の科学者が心霊とか称して、妖怪を彼是論じ居る如き愚昧なるいたづら事は、恰も小児が玩具を以て遊ぶに等し。斯るものは霊にあらず。故に斯る考へを以て研究なし居る間は、到底霊はおろか神を知る如きことは及びもつかざるなり。 既に二流界の人類ともならば斯るたはむれごとは小児と雖もなさざるなり。 諸子の世界に於ては迷信とか盲信とか、たはけたることを如何にも誇大に吹聴する如き愚者は余りに多し。 斯ることにて如何に霊を研究すとも、到底霊の端緒すら知ること難からん。呵々。

宗教者は諸子に向ひて活眼を開らきて天の高きを見よ。 又眼をおとして地の低きを見よなど語り居れど、宗教者にして真の天を眺め地を眺め居るものありやと、我等は疑はざるを得ざるなり。諸子の中には天の高きと云へば唯星をながめて彼是論じ居るのみにて、正しき天の高きを活眼によりて眺め得る人はあらざるなり。 天の威徳は魂霊一体となるにあらざれば到底計り知ること難し。諸子は心をのみはたらかせて肉体の神経に和して、身心一体の生活をなし


-218-


居るによって見る眼はせまし。さればこそ望遠鏡をかり、或は顕微鏡によつて肉眼より心に通ぜしめすば、見ることあたはず。よし見えたりとするも其は微々たるものにて取るに足らず。わづか機械の力のはたらきにすぎざれば、かかることはもとより論ずるに足らざるなり。見ることあたはざる天界の真相を、魂霊一体化して見るにあらざれば、全宇宙の如何なるかを語るも、其は机上の空論なりとのみ感ずるの他なからん。教主が無言詞界の様を語らるるに対して、この予備智識を有し居らざれば到底理解することあたはざるべし。 先にも語りし如く儲子は己の空想を是以上考ふるはずと云ふ程度迄拡大して、尚一層拡大力を増進せよと語りしも此事あるによつてなり。 諸子の心は恰も針の穴より天を覗くの譬喩よりも尚小さし。さればこそ狐狸むじな等に誑ささるる等の迷ひを、今尚有し居る人も多し。人間にして動物に劣る如き心にては、天理を究めんなどは思ひもよらず。 斯る迷ひを一掃して心を魂にうつして更に魂を霊に任せよ。 然らずば真の自由は得られざるなり。 我等の語る自由とはなしてならざる事なしと云ふ程度迄進まずば、真の自由とは云ひ難し。 なさんとしてならざる如き自由は、真の自由にあらず。 諸子は勝手気儘の行動をなして、其は真の自由なりと考へ居る如き微々たるものは自由にあらず。 神の法則に従ふが故に、真の自由は得らるるなり。是等の道理は教主によつて明らかに知ることを得るならん。 鳥は空を飛びまわる。果して其が自由と思ふや。鳥は空を飛べど翼の力衰ふれば地に落つ。斯る事を諸子は真の自由と考へ居るが故に、其は限度を有する自由

にて、正しき自然の自由にはあらざるなり。 神はすべてのものに自由を与へんが為に、不自由なる形をつくり給ひしなり。人に翼をつくり又水掻をつくりて空をかけさせ水を潜らす如き自由を与へんとならば、神は即ち是等をつくり給ふならん。然るに九流界に於て使役せられ居るクウワオなどは、天かけり水をくぐる事をなし得るに不拘、是は動物にて人間にあらざるを見ても、明らかに此理を知ることを得るならん。 汝等は、不自由なる肉体に何を宿され居るや。 肉体の自由を得て其にて満足なし得るものならば、クウワオにも及ばざるものにて、人間としての価値は那辺に


- 219


ありや。是等の理を深く考へ見ば自由とは如何なるものか又自然とは如何なるものかの想像は得らるる筈なり。 現今汝等が世界の自由主義と称し居る法則は、すべて天理に作る主義なるによつて、是は肉体本位の自由となりて、 人間性の自由に欠くるところ多し。 故に争闘の絶間なきなり。 天理に従ひ神に順じて人間性を引き延すならば、真の自由は自ら得らるる道理を早く研究せよ。 諸子の世界は法則をつくりて、その法則の縄に縛られて自由を失ふこと多からん。是等は肉体性自由にて、魂の自由にあらざるが故なり。 肉体の自由を好むが故に、武器を造る。 武器を造りて其によつて、己が肉体を失ふ如きは何と云ふ愚なることぞ。 是等は自然を曲解して、 小自然に順じ居るが故なり。大自然の法則に従ひて真の自由を求めずば、人間としての価値はあらざるなり。神は人間をつくり、其人間をして向上発達なさしめて、是を大自然の方向に向はしめんとして地上に生存せしめたり。其地上の生存はきはめて短かし。 諸子は永遠の望を抱きてその方向に向はずば、地上の苦みははてしなく続きて、何日かは度脱すること思ひもよらず、折角人間に生れし喜びを味ふことすら難からん。さればこそ諸子は人間などに生れしは何故かなど、愚痴をこぼす人多きは是天理をわきまへざるが故なり。 九流界のクウワオは早く任務を終へて動物界を度脱して、人間界に入り度しとの望を抱きつつ生活なし居るにてはあらざるか。然るに諸子はたまたま人間に置れし此喜悦をすら感じざるは、何と云ふあさはかなる知慧ぞと、我等は痛歎するものなり。 諸子の肉体は、人間と云ふ魂を入れある器に等し。その器に囚はれてながく苦みを味ふことの非を早く覚りたるものこそ即ち神の子なるべし。

諸子の世界にて現今幾十億人かの人類あるに不拘、真の人間は先づなしと云ふも敢て過言にはあらざるなり。よしありとするも指折り算ふる程度にて、その指折り算ふる人すら真の人間にはあらじと、我等は、断言して憚らざるなり。さればこそ諸子の世界にては人間を最高位のものとして、其以上のものなしと称へ居るにてはあらざるか。 指折り算ふる程の人類が、我等は真の人間にあらず。 よし人間たりとも我等は最高位のものにあらずと、さとり得たる底


-220-


の人ならでは、真の人間にてはあらざるなり。故に我等は斯くも断言して憚らざるなり。

絶対界 第三講 自然と自由の関係について P208〜215

第三講

自然と自由の関係について


諸子は神を知りて神と共に生活する事あたはざるは、即ち自然の道理を体得なし居らざるが故なり。 神の存在の有無を論ずることを暫く止めよ。 兎に角自然と云ふ事に対して、自然は神なりとの思ひを抱きて日々の生活をこの自然に任せてつとめする事に努力せば、その姿こそ即ち神と共に生活し居ると見なして可ならん。 又其が神の作られたる自然に従ふと思ふもよし。すべてを自然に任すと云ふは一切悉くを、神に委ねたりと思ひて己が心を兎や角と迷はすることなく、唯なるがままなさるるがままに任せて、己が任務のみ粗略にせず一路邁進することを、神と共に生活なし居ると考ふるも可なり。諸子は神は神、生活は生活として、日々を過し居るが故に、自由のなわめに縛ばられて苦み悶え居るなり。 従来より語り来りたる如く、すべてを神に委せよと教へしは是なり。 神を知らずとも神ありとして其に己の運命を任す底の心がけあらば、其にて神との生活はなし得らるるならんとの思ひを貯へよ。 泰岳が語りし如くすべてを捨てて神に従へよと語りしも是なり。 泰岳は一椀の食をとるに対しても己のみ喰ふにあらず、神と共に食するなりと聞かされしにてはあらざるか。諸子は唯訳もなく喰ふによつてその食は死したる食となるなり。 神と共


-208-


に食するが故に、その食は活力となるなり。故に真の自由は得らるるなり。自然に順ずるが故に初めて自由は得られ、何処に到るも心のままになりて不自由を感ずることあらざるなり。 諸子は自由を得んとして、却て自然より遠ざかり不自由の網にかかりて悶え苦む。心せざるべからず。

諸子は我儘気儘より意の如くならざれば、不自由なるものとして世を呪ふこと多からん。もし諸子にして神と一体化して生活し居るならば、斯る誤ちたる考へは起すものにあらず。 我等は諸子に神は自然なりと思へよと教へしは此事あるによつてなり。 例えば人と人と互に約を結びて作りたる法則に対してすら、神は其法則を曲げ給はずと語りしは、諸子の知るところならん。人間同志の定めたる法律と雖も、その法律は神としても曲げ給はざるを見ても、法則と云ふものの如何に大切なるかを覚らざるべからず。人と我との間に於て約を結び是を違ふ如きは、法律を守らざるが故なり。人には人の法律あり。 神には神の法律あり。人の法律と神の法律とには隔りありと雖も、法律の大切なるは此理に徹しても明らかならん。 諸子は他人と約束なしてをきながら其を守らず、違約して後に一言の言葉にて詫びる如きは是自然の道理を知らざるが故なり。 九流界の伝説に婦人が男装して男界を犯したる例話を、諸子は記憶し居るならん。神はその男装せる婦人の法律にそむきたるに対して、法律を守らせんがために、女子を男子に化せしめたりと云ふにてはあらざるか。是等は神にしてなし得る事なれど、法律の重きを覆すことをなさざる神の思し召しこそ尊しとは考へざるや。もしその婦人がいたづら事の為にかかる事をなしたならば、神は是を救ひ給はざりしならん。 彼の婦人は夫との約束を守りたる事を諒として、神は救ひ給ひしなり。 法律(起きて)と云ふはかくも尊し。然るに諸子は法律を破りて平然たる如きは、是神と一体化したる生活を営み居らざるが故なり。 神我一体の生活をなし居るものならば、自然の法律は彼是考へ居らずとも神はよく知る故に、 我如何なる行ひをなすとも神は咎むるものにあらず。 されど神とはなれて生活なし居らば、神は過誤を咎め給ふが故にここに至って不自由を感ずるなり。我儘気儘の行ひを


-209-


なす人は神を離れ居るが故に不自由を感ず。されど神と一体化して暮し居らば、かかるわづらはしき苦みは、 清除せられて真の自由は得らるるなり。自然は法律なり。法律なくして自然は成りたつものにあらず。神は自然なり。 自然なるが故に法律を法として作り給ひしなり。

諸子は恰も是等を具備する僧に等し。 名づけて是を仏法僧の三宝と見るも可ならん。仏は神なり。自然は法なり。是を用ゆるは僧に相当する諸子なるべし。故に空なる神を己にとり入れて我ものとなし、然してそのものと我と一体化して世渡りし居らば、 決して誤謬を犯すものにあらず。 所謂神我一体の生活する事によつて、ここにはじめて真の自由は得らるるなり。 諸子は神を念ずるは外を拝み、然して生活は我のためなりと考ふるが故に、一体化することを得ずして、常に二つの道を交々歩み居る為、如何に専心万苦すとも望は叶はずして、空しき世渡りをなし居ることに早く覚醒めよ。

諸子の諺に二兎を追ふものは一兎を得ずと云ふ教へのあるならん。是等の言葉は自然を教へ居るなり。 諸子は二兎を追ふが故に一兎をも得られず。 手を空しくして帰るの余義なきに至る。 是自然に順ぜざるが故なり。 泰岳が一腕の食を神と共に食するが故に、他人の半分喰ひて足ると教へ居るにはあらざるか。 泰岳は無学文盲の者にて、世間よりは愚物と嘲らるるに不拘、天界を明らめしも、神と一体化なしたる生活をなしたる結果に他ならず。もの云はぬ錯杖を招けば彼に来る。 諸子は斯る事のあるべき理なし。若しありとするならば何か其に相当する種子仕掛けのあるならんと思ふならん。然るに彼の師は徒弟に教へて、彼は法力を用い居るにあらず。又是には何等の種子仕掛けもあらざるなりと読めたりと云ふにてはあらざるか。 諸子にはかかる事のありと語るも到底信ずることあたはざるならん。たまたま信ずる人ありとせんか、其人は泰岳は神業を用いたるか、或は泰岳は、 神なるべしとのみ語るの他なかるべし。

されど円海は事実に於て泰岳の行ひを見て驚嘆する他なかりしなり。 我かく語るとも諸子は事実に於て見聞せ


-210-


ざる故に、到底この言葉をすら信ずること難かるべし。 ものの理をきはむればかかる事のなし得るは当然にして、決して不思議するに足らざるなり。其は理を知らざるが故なり。

諸子の世界に不思議なる手品師が、種子仕掛ある方法によって諸子の眼をくらますにすら、その法を知らざる間は不思議なりとして感嘆する患者は多し。法を教を教へられてはじめて合点する如きは、諸子の知慧のはたらきが斯くもにぶき故なり。泰岳が円をかきて線をひき其を枕にあてて眠ぬる時は、己が欲する知人に対面することを得との呪(じゅ)を教へたり。我等は面白き教へなりと思へど諸子には其理を知らざるが故に、唯不思議として聞きたるのみならん。

泰岳は自然を尊び自然を認知なし居るが故に、斯る事を伝ふるに対しても、決して偽はりとは思はざるなり。さればこそ彼は慈音の耳をふさぎたるなり。

即ち慈音は大自然と小自然の中間に立ちて行じ居るによって、初心者の行とは大に異なる事を知りて、慈音の行に妨害となることを知るによって、斯く取り計らひたるなり。 こだま会の会員は初心者にしてあるが故に、斯る法を伝へて其によって大自然を知らしめんとして、斯る簡単なる法を伝へて其によって霊の偉大なるを知らしめんと計りたる迄なり。智者には智者に対して、学者には学者に対して、其々の分度に応じて導きをなすにあらざれば通ぜず。 人類の程度に応じて、適宜の方法を以てするにあらざれば、案内することは難し。 宗教者の教へにも斯る底の方法が設けられありて、教化なし居るにてはあらざるか。 所謂人見て法を説けの譬喩あるによっても知らるるならん。 方便とは即ち其人々の程度に応ずる実なるべし。余事は兎に角神と我と共にありとして行ずることの大切なることは斯くの如き関係あることに留意せよ。神と共に一路を歩まば淋しくはあらざるならん。仏書の中に「無常忽ち到る時は国王大臣妻子珍宝助くるなし。 唯一人黄泉に赴くのみなり」と云ふ言葉あるを見る。唯一人黄泉に行く底の行をなして何の益かあらん。一人行くが故に迷ふなり。 我等に云はしむれば行じて、神と共に行けよと教わるものなり。 淋しく一


-211-


人歩み居りては迷ふは当然なり。神と共に行きて迷はぬ処に到るべき修行なしては如何?是は肉体滅後の事にて語るも詮なし。されば肉体を有する間も神仏と共に生活なし居るならば、肉体滅後の憂ひはなかるべし。 宗教くさき教へなれど敢て宗教を意とする勿れ。

今も慈音は隣家の婦女に対して語り居るを聞くに、若き頃は決して生死など考ふるものにあらず。年老ゆるに従ひて生死を感ずるに至るは、即ち稔りが得られてはじめて生死を知るなりと教へ居るを聞きたり。恰も米の苗は如何なる実を結ぶかは知らざるに等し。老ゆると云ふは稔りに近づきたるが故なり。 若き頃は、寺参詣などなすものにあらず。 老ゆるに及んではじめて寺門をくぐるにてはあらざるか。 斯る修行を小自然にまかせ居らば臨終に至って迷ふは当然なり。早く大自然に立ち返りて迷はざる自覚を求めては如何?

神我一体の生活を営む人は、即ち大自然をわきまへたる人にして、是を知らずなるがままなさるるがままに生活なし居る人は、小自然に順ずるが故に事にあたって狼狽するなり。 狼狽すれば苦みを伴ふ。是自然を曲解して世渡りなすが故に、ここに自由は得られずして不自由のなやみとなるなり。大自然と小自然の関係は斯る小さき処にも、発見することを得るなり。大自然に従ふとは即ち神我一体の歩みをなすにあらざれば理解すること難し。諸子は小自然にのみ囚はれて、彼是心をはたらかせて自然不自然を観察なし居るが故に、大自然に順ずることをなし得ざるなり。今も語りし慈音は大自然と小自然の間にありて行じ居ると語りしに対して諸子は不審するならん。慈音にして大自然を知り、神と共に生活なし居るならば、 小自然の理は既に明らめ居るにてはあらざるかとの疑問を起すならん。もとより慈音は大自然を知るが故に、神と一体化なしたる歩みをなし居ることは云ふ迄もなし。さればこそ教主は慈音に対して導きをなし居るにて我等も共に彼に至り居るなり。 唯我等が諸子に導きをなすに対して、その中介者たる役目を慈音が架せられあるによって、ここに小自然と大自然の中間にさしはさまれて彼は行じ居るなり。慈音のみならば最


-212-


早何等の教へをなすの要もあらざるなり。唯諸子を導かんがための役目を架せられたるが故に、彼は両道に立ちて行の苦みをなし居るにすぎざるなり。此書を読むもの慈音に対しても深く感謝せざるべからず。

其は兎に角神我一体となる事の理を解したるならば、 如何にせばなし得らるるかの法を修めざるべからず。神の存在の有無を先づ捨てて兎に角神ありとの念を貯へよ。然してその神は我に来り我を守り給ふとの念を深くせざるべからず。諸子は神を知らんとして神の形を追ひ求むるが故に、神を知ることを得ざるなり。 既に諸子の肉体には神の影宿り居るにはあらざるか。形など追ひ求めずとも既に諸子の肉体に神あるが故に、諸子は生存なし居るなり。もし神が諸子をはなるれば、 諸子の肉体は忽ち火中せらるるか、土中に埋めらるるの他なかるべし。此考へを早く思ひ浮べよ。是即ち神我一体の法なり。

是等は宗教者が諸子に、神仏の広大なることを知らしめんがために、種々様々の絵空事を以て教へ居るため、其が却て邪魔となり、幻影を追ひ求める結果となりたるが故に諸子は、神と云ひ仏と云へば或は幻影を、或は幻声を追ひ求めて、外を探り内を顧ざる結果となり居るなり。神は遠きにあらずとしばしば語り居るに不拘、諸子は遠き空を仰ぎて、神を求め居るは是みな宗教者の教へかたが誤り居る故なり。是等もみな大自然と小自然の理を知らざるが故に、斯る迷ひを誘発したることに思ひを変へよ。 然して諸子の心に否諸子の魂に、神の宿り居ることに覚醒(めざ)むれば、神と共に生活は営まるる筈なり。帰するところは諸子は神なり。 諸子は仏なり。諸子の肉体は諸子の心は人なり。 人と神と一体となりて世渡りをなし居らば、其にて大自然に順ずる道は開らかるる筈なり。

即ち諸子は霊と云ふ絶対性より、魂と云ふ相対に、更に心と云ふ複々相対に化せられ居るによって、心のみはたらかせ居りては、小自然の生活をなすにすぎざるなり。 末知日記前巻に於て、孝子が世の中に親ほど尊きものはなしと語りたる、 例話を記憶なし居るならん。 諸子は親のありしことを知るならば、その親を生みたる親、更にその親を生


-213-


みたる親のありし事も察せられるならん。孝子の話によれば我等神を見たることなし。 又君主も尊きかは知らねど、我等は何等の直接の恵をうけしを知らず。故に我にとりては親程尊きものはなし。 親去りし後は親は天界より我行動

を見守り給ふ故、親を離るることあらねば、親程尊きものはあらじと語りたりと云ふにてはあらざるか。 親を知るに諸子は己に宿されたる魂を知らじと云ふ事のあるべき。 諸子も親を知るならん。然るにその親の有難味を感ぜざるは親と共に生活なし居らざるか故なり。所謂親よりはなるるによつてなり。仮にその親を神として考へ見よ。神にして親の如き姿を有するならば、諸子はその神をも離るる事もあるならん。 子にして親を知りながら姿あればこそ親を離るるなり。親死してのち親の事を思ひ出して己が不孝なりしを悔ゆる如きは、親を離れし後、一体化せんとの心より出でる現はれならんとは考へざるや。姿を有する間は相争ひ、姿失せて悔ゆる如きは何故ぞと深く考慮し見よ。然る時は親子一体の生活の如何なるかをも知り、其によって更に神我一体の理をも覚る事を得るならん。 姿あらば相争ひ姿なければ是を慕ふ。神にして姿あらば諸子は神と争ひをなすならん。姿なきが故に、神を慕ふとは考へざるや。大自然と小自然の区別は斯る事に於てもさとる事を得るなり。

諸子は従来学び来りたる魂心一体の理は既に承知なし居るならん。 我に魂ありと云ふことは既に諸子も知り居る筈なり。されば我等が語り来りたる理論より推測する時は、帰するところ神我一体とは魂心一体の生活せよと語りしにすぎず。斯く語らば諸子は思ふならん。 魂心は一体化せずとも我にある以上、そのまま生活なし居らば其にて可ならんと。諸子の心は、諸子の知慧は斯る極端性を有するが故に、ここに迷ひを生じ誤ちを犯すなり。故に是を知る等我は一歩進めて神我一体の生活をなせよと教へ居るなり。末知日記前巻に於て或僧が、無条件に阿弥陀を念ぜよ。 彼是智慧をはたらかせて学理より、或は智慧より、念仏の理を明らめんとなす勿れと云へる如き意味の事を語りあるを思ひ浮べよ。 学問智識によりて覚りたる念仏は相対性にして小自然なり。 されど無条件に念仏するは即ち大自然の


-214-


法則に従へよとの意味ならんと我等は思ふが如何! 彼是思ひ惑ひて念仏せば、其は一体化にあらず。二道の関係あるによって小自然の法にすぎず。 すべての理論理窟を取り去りて、絶対服従の念仏とならば、即ち仏我一体の法則なるによって、同一経路を一体化して歩む姿と見なすも可ならん。 弥陀と共に歩み弥陀と共にすべての事にあたるならば、其によって真の自由は得らるるに反し、智慧学問によりてさとりたる念仏ならば、弥陀と我との対立となりて、或時は弥陀に順じ、或時は弥陀にはなる。故に是は一体化にあらざるが故に、或は縛ばられ或は離れたりなどなすによって、時には楽み時には苦む。是小自然の法則によるが故なり。不自由の束縛を早く離れよと教へしは、即ち神我一体の生活をなせよと云ふにすぎざるなり。 魂と肉体とは離れ難き関係に置れあるに不拘、諸子は時によりては魂を離れて心身の交はりに任すること多し。其は魂に対して感謝の思ひうすきが故なり。 よつてその魂なるものを仮に神として尊ぶならば、 何とて魂の眼をのがれんとするが如き過失は犯さざるべし。 神を知らずとも神は汝にあるなりと教へしに不拘、諸子は己が魂を価値なきものとして放棄なし居ることを知るによって、種々様々の方面よりかかる理論を力説して導きをなし居るなり。 神を知らずともよし神を作れよと云ふも、真の神を語るにあらず。汝の魂を神として敬へよとの意味にて、神を作れよとは即ち方便に用いたる言葉と知らば可ならん。 然らずば真の神を求むるとも得難し。 先づ汝の魂として日々の生活をなし居らば、其にて人間の一歩は得られたるなり。


-215-

絶対界 第二講 大自然と小自然の関係 P203〜208

第二講 大自然と小自然の関係


前講の法則より自然と云ふものの理を探り求めざるべからず。第二講目に掲げたる大自然と、小自然と名づけしは他ならず。 全宇宙を大自然として研究する時、太陽系宇宙は小自然とみなして考究するの要あるなり。別段大小の区別の必要なけれど、兎に角不変性絶対変化性絶対の区別あるによって、自然の道理にも亦従つて異なるところありて、斯くは大小の区別もて知らせんと計りたるにすぎざるなり。 諸子の住居なし居る地球は太陽系宇宙なるにより、相対関係に置れありて空間時間を有するが故に、自然と云ふ言葉に於ても全宇宙の自然とは、その意味大に異なる点少なからず。よって太陽系宇宙を仮に小自然と名づけ、全宇宙を大自然と名づけて説明せんとなし居るなり。其心して聴れんことを望む。

我、大自然小自然と云ふ言葉を用いて大小の区別をつけたれど、帰する処は根より枝葉にわたる自然を現はすのみにて、別段大小の区を定むるの要はあらざるなり。されどかくせざれば諸子には通じ難きを慮っての意味なれば、誤解せざるやう注意なしをく。即ち大自然とは根にして、小自然とは枝葉なるが故に、換言すれば大自然を絶対と見なさば、小自然は相対の関係となる。されば絶対のながれが、相対に及ぼすことは云ふ迄もなし。 諸子は相対自然にのみ囚はれて、絶対に帰ることを忘れ居るによつて、ややもすれば自然を曲ぐること多し。是等に関して新らしき言葉の数々を造りて説明すれば、却て複雑となりて絶対自然をさとること難し。故に我等はこの事を知るによって単に大小の区別を以て、説明せんとはかりたる迄なり。 よつて諒せよ。一個の微分子が他の微分子と交はりて、更に異なりたる微分子を造り、又其が他のものへ化合して、又新らしきものをつくる。 此理は諸子もよく知るところならん。されどその最初の一個の微分子が、 何によつて造られしかに対しては知ること難からん。神は始めに何憶否何兆の多き


-203-


微分子を作られたりと仮定して考へ見よ。その何億何兆の悉くの性質が異なり居る性質を具へあるによって、其等が互に交はりて育ち行く理は、諸子には解することを得るならんも、始めに作りたる何億何兆の微分子の根元は、はかり知ること難からん。是即ち絶対自然なるが故なり。是を知るものは神を措いて他にはなかるべし。即ち神は造主なるによつてなり。さればこの何億何兆の微分子が絶対と云ふならば、その絶対なる種子に相当する微分子は、何によつて作られしかの源もあるならん。故に全宇宙の成立は始めなく又終りもなき底の姿ならずば、神としても是を作ることのあたはざるならんとは考へざるや。もし神にして形ありと想像するならば、神の姿を作りたるものは、更に何ものかと云ふ点に迄、追究せざれば真の自然を知ること難し。是等の事柄に関しては教主の説き給ふ説をききて導きを受けよ。

兎に角自然の力、自然のはたらきを認識するには、先づ大自然に帰らずば測り知ること難きは、かくの如き理論あるによつてなり。諸子は中途自然の法則に従ひ居らば其にて可なり。されどその中途自然を曲解して歩むが故に横道にふみ迷ふ。今も欣情が語り居る如く、神を作りたる神、その神をつくりたる神と追究すればはてしなからんと語り居るをきく。諸子の知慧はかくの如し。故に我等は諸子を導くの任務を架せられたるなり。

空より空を追ひ求むればはてしなし。 はてしなき所を盲目的に歩み居らば、転落するは当然なるべし。諸子は盲人なり。我等は手引きの役目を命ぜられたるにすぎず。されば我等の手にすがりて歩みを続けよ。 我等は決して諸子を転落の方向にむくるものにあらず。是大自然の道そなはりあるが故なり。 生れて死すと云ふが如き小自然の中に含まれたる中途自然にふみ迷ひ居りては、何日か大自然のふところに抱かるる時節来るべき。 生れて死すも自然なり。されど其は小自然の中の小自然に他ならず。 所謂相対自然の中の複相対なるによつてなり。網の目の一角を追ひ求めて廻転なし居らば何日かは、その目を度脱することの難きは当然なるべし。


-204-


ここに又注意することあり。 諸子は自然と云へば人工を加へずして組織せられたるものを聯想し、人工を加へたるものならば是を自然とは考へざる傾きあらん。例へば路傍に落ちたる一個の石が何等人工を加へずして、仏の姿になり居るを見ば、是は自然石の像なりとして珍重なし居るを我等は見る。 諸子は是等を自然像或は自然石として、自然に形づくられたるものなれば、自然とは斯るものなりとの考へを有するならんが、是等を我等に云はしむれば其は自然にあらず。 偶然現出と見るの他なきなり。一個の石をとりて是に印刀を以て仏体を刻み上げれば、其こそ真の自然に合ふにて是等は不自然にあらず、又偶然にもあらざるなり。諸子の考へと我等の説とには斯る小さき例に於ても相違ある故に、我等の語る自然と云ふ言葉に対しても、諸子は曲解すること多きため、正しき自然を認識することを得ざるなり。 印刀を用いて彫刻するにあたつて自然に逆らふ方法を用いなば、像は刻み得るものにあらず。自然の法に従ふが故にかたちづくらるるなり。 是等を自然に順ずと云ふ。像を刻みてならざるは、自然の法に逆ふが故なり。 何等人工を加へずして像にかたちづくられたる石などは自然にあらず。是等は種々様々の化合がたまたま斯るものに現出したる迄にて、 決して自然のものにあらざるなり。されど是等は珍らしきものとして喜ばるるは不自然の現はれなるによつて唯珍らしきと云ふにすぎざるなり。斯るものを自然の姿と見なして尊び祀る如きは愚も甚だし。斯るものこそ不自然のものにて尊ぶには足らざるなり。大理石にて造られたる石塀に数多の仏像が手を加へずして、百体干体現はるる如き事あらば、斯るものこそ不自然のものなれば我等は是を卑しむ。されど諸子は斯る事のありとせば驚愕して其前に手を合はせ、拝する如き愚をなすならん。自然はかかる事のあらざるが故に、諸子は曲解せざるやう注意せられたし。石像をつくり、木像をつくる等々は相対自然の現はれにして、絶対自然にはあらざるなり。大岩石が地上に置るるも相対自然の現はれにて、是等は絶対自然にはあらざるなり。この理をよくよく認識するにあらざれ

ば、大自然の如何なるかはさとること難し。相対自然と云ふも絶対自然のながれあるが故なり。即ち絶対自然のなが


-205-


れが別れて、相対自然をつくり居る事に留意せば可ならん。人工を加へずして現出したる像と雖も、もとより自然のながれの備はりはあること云ふ迄もなし。形を見ることなかれ。形に囚はるること勿れ。 然らずば自然は解し難し。

諸子は斯るものを見て形に囚はれ居るが故に、珍らしきとか有難しとか云へる念の生ずるならん。されど斯る誤ちたる念は早く明らめよ。 然して正しき自然より是を見なほすならば唯訳もなきものにて、形状の異なりたるにすぎざるなり。何等意とするに足らずと知るべし。

兎に角大自然とは零の霊にして、他にはなしと語り居るはこの理なり。然るに是が次第に絶対相対とながれ現はるるに従って、実在に化せられ来る時、諸子はその実在のものを根本自然として考ふるが故に、ここに至って自然を誤つこと多し。 所謂諸子の世界は中途自然の法則を応用したるものにて、絶対自然或は絶絶対自然の程度迄考究して事を観察せざるが故に、正しきさとりは得られざるなり。

大凡絶々対の自然にはその範囲きはめて広きが如く感じらるれど、更に是を一体化せしめて考ふるならば、霊の原理はすべて一体にして唯異なるところは、作用の如何によって変化なし居るのみ。別段不審するに足らざるなり。この極致に考へを廻らさば、なしてならずと云ふ事一としてあらざるなり。大自然は斯くの如く不可思議なる意味を有す。 無量無辺とは大自然を措いて他にはなかるべし。

例へばこだま会に於て泰岳が諸子に力を与へんと称して、様々の物品に何か法力を用いたり。是等に関して諸子は如何に考ふるや。 こだま会の人達は唯不思議なるものよとのみ感じて更に考へを廻らさんとはなさざれども、もし他の人が是を聞くならば愚なる事よとて嘲り嗤ふ人もあらん。 又是を単に冷笑して眼を向くる人もあらざるべし。 知慧浅きものはすべてはこの種の類なり。 彼等は是等を迷信として嘲り嗤ふは大自然の道理を知らざるが故なり。 泰岳はミキョウの坐にありて重く用いられ居るものにて愚者にもあらず。 彼はなさんとせば何事をも行ひてならざる事なき


-206-


力を有す。故に彼の力は広大無辺にして通ぜずと云ふことなし。されば、彼は泰岳となりて慈音に至り、慈音を通じて、 諸子の物品に力を与へたるは何故ぞ。 是等は泰岳にして諸子の信仰の程度をよく知るによって斯る法を用いたるに他ならず。何となれば泰岳にして諸子に力を与へんとならば品物の有無に不拘、諸子をして一種の力を授け得ることいと易し。其にも不拘品物に力を与へしは霊気を移したるだけにて、 諸子はこの品物によりて、霊気を育つることを知り居るによって斯く取り計らひしなり。所謂諸子は実在のものにあらざれば、信ずることの難きを知るによってなり。 彼は又喚魂の呪(じゅ)を諸子に伝へたり。然るに慈音の耳をふさぎしは何故ぞ。慈音は斯る法を用いずとも自由になし得るをよく知るによつて、斯る法は教ゆるも詮なしと知りて耳をふさぎたり。されど諸子の信仰の程度は左にあらず。故に実在的方法を示して、其によって魂の程度をたかめしめんと計りしに他ならず。 是等は大自然の法則より生れたる一種の方法にすぎざるなり。故に諸子はその物品を常に忘れず用い使用し居らば、従つて芽を出し花と開らくこと疑ひなく、又呪を間断なく持続し居らば何日しかその法力によって招魂はもとより遊魂の法に至る迄、自得することを得るは大自然の法力がかくなさしたると知らば可ならん。

すべて呪とか呪文とか、或は行者の法力のうち印を結び九字を切る等々の方法に於ても、現今の学理にては迷信盲信として省顧(かえりみ)ざるは、即ち自然の道理を知らざるが故なり。空には空の自然あり。実には実の自然あり。 空の自然は大自然にして、実の自然は小なりとしてすべてを考察するならば、従つて迷信盲信の理由も明らかに知る事を得るは云ふ迄もなし。 大自然の姿は余りにその範囲広きが為、稍もすれば迷信を伴ふこと多し。 されどその迷信と思ふ事柄に対しても、根に返して仔細に検討すれば何かそこに一種の何物かを、探り得ることも得らるる道理あるなり。空の自然を知らざるが故に、何事に限らず一言に迷信として捨つること勿れ。或程度追究してその理を究めて後に至って

棄つるものならば始めて捨てよ。 実のものならば信不信は直ちに知る事を得るによつて、是なれば理として採用し、


-207-


非なれば直ちにする事を得るならん。 実の自然は限度を有するが故に、直ちに理非曲直を明らむる事を得れど、 空の自然は余りに深淵なるが故に、理非曲直は容易に明らむること難し。 兎に角自然と云ふは斯くの如き関係に置れあるが故に、我等の眼と諸子の眼にはその見かたに相違あることに留意せられよ。 六月十日 (昭和二十五年) こだま会に於て円海も泰岳も神と共に生活せよと教へしにはあらざるか。神と共に生活すると云ふは即ち自然に順ぜよと云ふ事に他ならず。諸子は常に神は神、生活は生活として区別なし居るがために、自然に順ずることあたはずして、却て不自由の営みをなし居るなり。 神と共に生活なし居らば真の自由は得らるる筈なり。