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絶対界 第十章 霊気と霊気の交はりに就いてP166〜173

十章

霊気と霊気の交はりに就いて


肉眼には光を伴ふ。肉耳に於ても是に類する関係あるなり。故に物体に遮ぎらるれば見聞することあたはず。然るに霊気は実間空間を嫌はず通ずるが故に、あます所あらずして感応導交するなり。一如と云ふは即ち霊気ならでは、一如とはなり難し。赤子を知らんとならば、赤子の程度迄尺度を合はせて是にあたれば、その何なるかを知ることを得るなり。 幼児小児は壮者老者の心状を知ることを得ざるも、その尺度が及ばざる故なり。 其が次第に年長けて尺度の具備長くなるに及んで、すべてを知るに至る。 是を名づけて個性をのばすと云ふなり。されど霊子の力は単位より計算し行くならば、 如何に変化なすと雖も長短によって計る事は至難にあらず。

不滅母によって作られたる諸子の肉体の中に、更に魂と云ふ別個の種子が蒔かれて、其が次第に成長し行くも、皆


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不滅母霊子のはたらきに他ならず。 魂あるが故に知慧のはたらきが、出現して是を育つ。是又不滅母のはたらきなり。前にも語りし如く是等は無始終霊子の存在するによって、かくも微妙なる実体に化せられ来りたるなり。霊気とは知慧のみに限らず、空実共に有する或一種の化合せる、空の気体なりと見て差支なからん。 この事柄に対して説明するには、新らしき言葉の数々を設けずば判明し難からん。是等を詳細に研究せんとせば霊気学とも称すべき、一種の書物を以て講ずるにあらざれば理解することは至難なり。されどここには其等の必要なければ、唯霊気として語りおくに止むべし。実に対しては実の霊気あり。空に対しては空の霊気ありとのみ知りおかば可ならん。先にも語りし如く、諸子は円海の話を聞くにあたり肉眼にて慈音を眺め、心眼にて円海を見んとする如きは、是即ち空実の同時にはたらき居る姿なりと見ばうなずく所あるならん。されば空実一体化して、霊気交はるにあらざれば、通ぜざる事の理も察せられるならん。空のみ通じ実是に伴はずば、一方的となる故に通ぜず。実に於ても同様の関係あるなり。

日本には相撲取りと云ふ力比べするものあらん。是等を見るに行司と称するもの、相方の態度を見守りて気を計り、然して気合すれば、合図をなして相撲しむるならん。 肉体の技に於てすら空実の尺度あるにてはあらざるか。その行司と称するものの心が乱れて是を見る事あたはずば、力士は相撲こと難からん。是等は、遊戯の如く思はるれど、修養修行の材料として研する時、何か其処に大なる真理を発見する事を得らるるにてはあらざるか。両力士が互に眼と眼を見張りて、相互に相手方の技を看破せんとなし居る姿を、行司が程よき所にて一致点を見出して、是に相撲しむる、所謂三味一体の境地に至って、はじめて勝敗を決す。 勝敗を決する時間は僅小なれど、三味一体となる迄の時間は長し。 ここに至って霊気の力の、如何に大なるかを知らざるべからず。彼等は相撲に到る迄の間に、既に全身汗をなし居るにてはあらざるか。是気の力のはたらきが技術に於て、その影響は、彼等にとりて重大となり居るが故なるべし。 剣道に於ても然あるなり。 真剣勝負とならば、一人は必らず倒る。 生命を賭しての剣なれば、尚更気


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の力の如何によっては、生命に及ぼす重大なる戦ひとなる事は云ふ迄もなからん。 気によって気を計る。気によって気に和す。この事柄に対してはこだま会に於て円海が語りたる如く、或剣士は剣道の師を択ばずして、その極意は禅門の僧より学びたりと語り居るを聞きたり。すべてのためしは斯くの如き小なる所に迄、気のはたらきの大切なるを物語り居るにてはあらざるや。是等の理をすべてに対して広く耳目をむけよ。 然して気によって物事を観察せば、鳥の声は言葉にかはりて聞え、虫の声に至る迄言葉となりて、 諸子の耳にも伝はらん。 動物の声又然あるなり。然して其等のすべてが言葉となりて、 諸子の耳に伝はる時、更に其等に対して思ひやりの心に化せられて彼等に対しても、憐みの手は差し延べらるる道理あらん。 天眼通地眼通と云ふはこの理より推測すれば、明らかに覚る事を得ん。 是には法あり。法とは別段不思議なる術を用ゆるにあらず。 諸子の心の用いかたの如何によって自得することを得るなり。

我等常に語り居る如く全宇宙は善悪邪正を問はず、凡てが完備せられ居るが故に、皆其々に適合したる方法を用ゆればすべてに通ず。是を霊のはたらきと云ふ。霊とは絶対を云ふなり。故に霊は悪魔をも知り、神をも知る。善に用ゆれば善となり、悪に用ゆれば悪となる。善悪邪正を嫌はず、霊は是に従ふと云ふは、絶対の具備なるが故なり。諸子の言葉に「天網恢々疎而不失」と云ふことあらん。又「人盛なれば天に勝ち、天定まりて人に勝つ」と、云ふ言葉もあるならん。 全宇宙は斯くの如くすべて完備なし居るが故に理に合へば法によって凡ては成立するなり。 唯異なるところは結果に於てあるのみ。是を仏教者が善因善果 悪因悪果と称し居るなり。 みなすべて神の法なり。悪魔と雖も法を用ゆるが故に、通ずるなり。悪魔は悪法を用いて世を乱さんと企み居れど、結果に於て悪は亡ぶるが故に其は永久ならず。善法と雖も是に類することなからずあるなり。霊は善にもくみし悪にもくみす。されど絶対なるが故に用ゆれば通ずれど霊は直ちに絶対に帰るが故に、善悪邪正を間はず、是に染まることあらずして、唯行ひに対しては


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たらきをなすに他ならざるなり。 諸子は魂を霊に融合せしむる事に依て、法は自然に会得する事を得るなり。 学びてなし得る法は、一時的のものにて永久的にあらず。 学ばずして自得したる法ならでは、永久不変とは云ひ難し。 絶対なる霊に化せられて初じめて、魂は完全さとり得るなり。 さとりを得ば、法は自づと得らるるものにて、学ばんとしてなし得らるる法にあらず。 学ばずして自得する法を求めよと教わるものなり。行者の如く雲を喚びて天かけり空かけるとも、誤まてば転落す。 是法力の尽きたる故なり。 学ばずして霊化したる法は天かけり空かけるとも、決して転落するものにあらず。斯く語らば諸子は不審するならん。されどさとり見れば訳もなきことにて、むづかしき事にはあらざるなり。五月十三日(昭和二十五年) こだま会に於て円海が語りし如く、体温計を零度迄下ぐる底の修行せよと教へたり。常に心を平にして、心と魂と平均させ、更に進んで魂を霊にまかせる方法を、暗に教へたるなり。 心乱さずば魂の光は赫々と輝く。恰も雲晴れて太陽を見る如く、明朗となるなり。 ちぢに心を砕く故に、雲は起り日をさへぎり、果ては雨を喚び風を起すに至るなり。されど人には心と云ふ雲の備はりあるによつて、日々断間なく空を行くならん。されど其雲を濃くせざる修行を名づけて、平常心と云ふなり。 うすき雲は一時太陽をさへぎれど須臾にして遥に飛散す。一日のうち空に一点の雲も見ずと云ふ時間はすくなかるべし。諸子の心も其と同様なり。肉体の関係にて種々様々の思ひより気圧の現象が或は低気圧となり、或は高気圧となりて雨を降らす事もあらん。されど其等は自然にまかせて、心の雲を安らかならしめ居らば、暴風雨の起る事あらざるべし。 肉体のある以上肉体より受くる影響は、斯くの如き関係あるによって、心の雲を起すこと多けれど、其を成可く平になして、太陽の恵を受くる方向に

努力なし居らば其にて可なり。然してその太陽に相当する魂が、霊気に和すれば、低気圧などは霊気によって飛散す。故に明朗なる日々を送ることを得るなり。斯くして赫々たる光明に浴し居らば、学ばずとも法は得らる。その法と云ふは、霊の力あるによつてなり。是は理に似て理にあらずと諸子は考ふるならん。されど事実は事実にして理窟


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にはあらざるなり。 魂の眼明らかとならば天眼地眼は得らる。先づこの眼を開く事に努力せよ。 諸子の如く動物性本能に囚はれ居りては到底この居に達することを得ざるなり。早く動物性をすてて人間性本能に生れかはらんことに努力せよ。

徒らに彼是と理窟をならべて批判し居らば、動物性より度脱すること思いもよらず。理窟をぬきにして兎に角心の眼を、魂に迄進めしめよと奨むるものなり。然せば学ばずとも法は得らる。是我等の体験によって得たるままを諸子に伝ふるにすぎざるなり。肉眼肉耳の失はれたる人は触覚によってすべてを見る。 是を見て正眼正耳の人は不審するならん。一方に欠陥あれば一方に、又是を鑑別する備はりがはたらくによつてなり。是自然の法なり。彼等は学ばずして法を会得したる故に、鑑別する事を得るなり。敢て不審するには足らざるなり。 是等と雖も皆魂の具はりあるによって行はるると知るならば、ここに何か大なる考へをめぐらして早く己が有する魂を発見する道を構ぜよ。然る時は必らずや、霊の力是に和して、法を自然に教ゆるが故に、自づとさとる事を得るなり。

学びて得たる法と、学ばずして自得する法の二種あるは、魂の作用と心の作用との区別あるによって、ここに相違あることも推して知るならん。 学びて知るは心にして、学ばずしてさとるは魂なり。故に魂ならざるべからず。霊は心にも通じ魂にも通ず。この事柄は「末知日記」前書にくはしく語りたれば、諸子はすでに認知なし居るならん。されば魂を霊にかへす方法を構ぜずば、無言詞の如何なるかを知ること難し。霊界とは無言詞界なり。魂は是を受けて言葉に組織してすべてに通ぜしめ居るが故に、実在的となりて現はる。魂を霊によって育つるにあらざれば、完全なる結果は得られざることの理も、推して察するならん。霊界は終始なきが故に、この所に魂をおかば、永久生死の苦はあらざるなり。是を安楽界と云ふなり。 又自由の世界とも見て可ならん。 故に魂は霊に返すことによって、不滅となるなり。霊に返すことをせざれば、生死の苦を伴ふ。故に迷ふなり。 魂の本体は霊に通ずることは、すでに説き


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たり。されど未熟の魂ならば、不完全なるが故に、霊に帰せしむるともそのはたらきはにぶし。 故に迷ふなり。此理を知らずして諸子は一生を空しくなし居るが故に、浮住界の悩みを受けて、苦より苦と苦みに移され生死の間をさまよひ行くが故に、滅不滅の関係は繰り返されて果なく持続するは憐むべきことにてはあらざるか。もとより霊の余力を受けて育ちたる魂なるが故に、かかる悩みは持続するなり。すべてを霊に任せて魂を完全ならしむれば、斯る憂ひはあらざるなり。 我等は諸子をしてこの苦患よりまぬがれしめんが為に、肉体を有する諸子に対してこの事を伝へ教へて、然して不滅の地に到らしめん事を命ぜられて、 諸子を導き居るなり。現に円海のミキョウは多くの魂をあづかりて、或は天界に或は下界に、其々運び居る任務をなし居りて分時も彼は怠らず。 忙がしく働き居るなり。 是等はミキョウのみにあらず。 セイキヨウも同様の任務をなし居るなり。されどセイキョウとミキョウとの役目は又別個の関係あるによって、その趣きを異になし居ること云ふ迄もなし。 我、テッシン又同様の任務をなし居るなり。 天界は複雑なれど皆それぞれの事柄に対して、其に相当する任務者の働きありて、一糸れず整理なし居るが故に、一見何事もなきが如く見ゆれども、霊界の忙しさは筆舌の及ぶべきところにあらず。 諸子は眠りたければいねもし、遊びたくば遊びもなせど、我等には斯る余裕はあらざるなり。諸子は日々忙がしく働き居るが如く見ゆれど、遊ぶ時間は働く時間に比べて非常に多し。 二十四時間のうち働く時間は僅かに二三時間に過ぎざるなり。或者は一時間乃至三十分の働きにて終り居るものすらあるなり。 我等の眼より見る時は一日全部諸子は、遊び居るなり。 我等は食するにあらず、いぬるにあらず、遊ぶにあらず。是を諸子の世界にて云ふならば、一日二十四時間全部働きをなし居るなり。 斯くして疲労を感ずることなく嬉々として任務に服し居るなり。 諸子はかかる事をなし得るやを考へ見よ。 諸子ならば天界などに赴きて斯くも忙がしければ安楽などとは、夢にも考へられずと思ふならん。 諸子の日々はたらき居るは働きにあらずして、遊び居るが故なり。 誰かがあらはしたる天国地獄と云ふ作文の中に、極楽に赴きて始めは楽しかり


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しが、日を経るに従ひて倦怠を感じ、軈て其が嵩じて悪事をなして地獄に堕ち行く小説を我等は見たり。斯る極楽は空想的の極楽にて、真の極楽を知らざるが故なり。 永久不滅なるが故に働きは楽し。 働かざるが故に倦怠を感ずるなり。是等の事柄の詳細は教主によって、更に諸子が思いもよらざる教へを受くるならん。話はいささか横道に入りたる感あり。

心の気、魂の気、霊の気、すべては気なり。心気と霊気と交はらしめ、或は魂気と心気と交はらしめ、或は魂気と霊気と交はらしめ、或は心魂霊の三つの気を交はらしむる事の相違ある事に考へを移して、研究せざるべからず。心気は霊気を受けて働らく。されどその交はりの厚きとうすきの相違によって、時には心気のみはたらき居る為、霊気はうすくして力を少なくする事は、諸子は日々体験するところなるべし。心気と霊気と密接に交はらしめて働き居る人を、名づけて賢者と云ふ。言葉を俗化すれば利巧なる人とか、或は小利口なる人とか云へる類のものは、即ち心気と霊気の交はりの厚きを云ふにて、患者と云ひ或は痴者と云へる類は、霊気の交はりにぶきを云ふならん。 もとより霊気は交はり厚ければ是に従ひ、うすければ又是に従ふ。魂を忘れがちなる諸子なるが故に、心のみ忙がしく働かせ居るによって或は悲しみ、 或は怒り、或は倦怠を感じ、或は、眠りを催す等々の事多し。 其が一度魂の働き現はるる時、ここに又一段変りたる姿となるなり。 例へば諸子は一つの心配事ありて思案に及ばず、沈思黙考して深く悩みを重ねる時、ここに又新らしき道は開かれて、その悩みが解除せらるる如き体験はあるならん。 所謂窮すれば通ずの比喩に洩れず、斯ることはたま々々あるなり。其時こそ魂は働きをなしたるにて、その魂が霊によって方法を知り、然して魂より更に心に及ぼして、その悩みを解決する事を得たるなり。

此体験に基きて日々の修養修行に心して思ひを致すならば、魂の在処を知ること易からん。然して常に魂と霊との交はりを厚くすることによって、心の働きなど如何に変化すとも、是をゆるす明らめをなしたる人こそ、確かなるさ


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とりを得たるにて、心の用法に対して彼是と迷ひを深くする間は、 末だ魂を知らざる故なりと思ひて、深く行ぜんことに努力せられよ。

とりわけ心の気と、魂の気とのみ交はり居る人には神懸りとか、或は悪事を企む人の多きは霊気がにぶき故なり。末知日記前書に語りし如く心にも二種あり。 又魂にも二種ある事は既に諸子も知るところならん。即ち心意魂魄を云ふなり。其が心気と魂気とのみ交はらば、従つて霊気も亦一方的となるによって悪人ともなり、又狂人の如く神懸りとか称する如き姿となるなり。 是等を応用したる法には合気の術とか、或は気合術とか、又は催眠術等の如き事をあらはす術となるなり。即ち気に依て気を制すと云ふは、一方的なるが故なり。 名づけて是を抑圧法と云ふ。小児を叱りて屈服せしむる親の姿は是なり。命令的に人を屈服せしむるは心魂の気をはたらかすることによって、かかる一方的の姿となるなり。 心意魂魄の気和すれば、自然にそなはる威徳にて、命令せずとも従はしめんとならば従はしめ、開放せんとならば開放すること自在となるなり。心意魂魄和して霊気加はらば、其にてすべての法は、自づと覚り知ることを得るなり。 心魂の気或は意魄の気のみ和するならば、学ばずば法は得られじ。 諸子は未知日記全巻を熟読して、更に一工夫せられん事を。

子に対する親心は善良なる人間に育てんとして、心魂の気をはたらかするのみならば、或は叱り或は鞭打つ等の法を以てせざるべからず。是と反対に意魄の気のみ和して育つるならば、其は俗に云ふ動物愛となりて是又完全に育つる事を得ざるなり。俗に云ふあまやかすと云ふに他ならざるが故なり。意魄は愛を意味するが故なり。是等はすべて霊気の和しかたの相違にて、その範囲もきめて広し。詳細に語り居らば枚挙に暇なし。依って是等は省略す。されど我等の云はんとする霊気と霊気の交はりと云ふは、更に別個の関係あるなり。即ち心魂をはなれて、霊気に順ずる和しかたを云ふと知るべし。 是は非常にむづかしき論説にして、諸子には解しがたからんと思へど研究せば、自づと


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絶対界 第九章 不滅母霊子と無言詞の関係 P162〜P166

時物と物との化合することなく、唯思案なし居りては機能は得難し。其と同様にて諸子の拝みは思案に等し。故に通ぜざるなり。此心と此心と化合せしめて、その望みに役立しめんとの考へにて拝みするならば、其は調合したる薬を服用したると同様の結果となる故に、病苦は治癒する如く望みを成就するなり。 一心と云ふは即ち薬剤と薬剤と化合する如く、一服に調合して用ゆるに等し。故に一心となりて拝みせよと教へ居るならん。 念ずると云ふも即ち化合を云ふなり。 心と心の化合是即ち念なり。此法を用いてすべてに行ひをなさばすべてに通ず。故に念力は通ずることの理も推して知るならん。 無言詞は念ぜられて、初めて有言詞となる。 是化合するが故なり。 問へば答ふ。 是又念の力なり。問ふとは薬を与ふるに等しく、答ふとは即ちききめに等し。問ひても答へざるはききめうすき故なり。此理を知るならば自問自答の方法も従って判明するならん。 諸子の自問は調合の不完全なるが故に、自答も不完全となるなり。 心と心を正しく調合して与ふれば、ききめは顕著なるが故に、答への結果も極めて顕著となることは是又理なるべし。

罪人を縛る一本の縄は細き繊維を捻じたるものなるべし。細き繊維が集りて捻ぜられたるいましめの縄によつて、罪人を縛る如く心の繊維を集めて何を縛らんとするや。悪の報は悪の縄に依て縛らるるや。或は善の縄によって縛らるるや。善因善果 悪因悪果と云へる教へはあれど、仔細にこれを検討すれば、又新らしき考へを起すならん。念の力は心の繊維の集めかたに依て、種々様々異りたる法の現はるるものなり。悪人のみ縛ばられて、善人は縛ばらるることあらじと考ふるは誤ちなるべし。善人は善に縛ばられて悪をなさざるのみ。悪には悪の縄あり。善には善の縄なかるべからず。即ち善に縛られ、悪に縛らるる故に、人間の生活は不自由となるなり。是理窟にあらず。一つの法を設けてその法に従はしむると云ふも即ち束縛(なわめ)なるべし。斯く考へ来る時、法とはものを縛る縄なりと云ふもこじつけの理窟にはあらざるべし。人と人との約束は、即ち自他の二者が念となりて初めて、法は現はれたるならん。法とは


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一種の力なり。 自他の約束が守られざるは念の力うすくして、法の力のよはき故なり。この理を考ふれば念ずる力の程度は、即ち念の強弱によるとの理も知ることを得るならん。 気の力は集れば実に広大なるはたらきとなる。 空中に起る雷が地上の物体を粉砕する力を有し居るを見ても、気の力の如何に大なるかを知ることを得るならん。 人体小なりと雖も是に宿り居る気体のはたらきが如何にすぐれたるかに思ひを致さば、修養修行の念力は粗略にはなしがたからん。 或人曰く、知慧のかたまりは即ち魂なりと語り居るを我らは聞きたり。 彼の説によれば大なる魂は、大なる智者なり。 知慧なきものは魂も小さし。 故に魂をみがくと云ふは知慧を大にして光を強くするにあらざれば、 魂の実は結ばれず、又光もにぶし。 故に知慧を増すことによって、魂の実をみががずば光は遠くを照らす力なし。 始めに魂と云ふ小さき種子を蒔きて、 知慧の肥料によって是を育て、然して完全なる稔りを得さすことに依て、 はじめて魂の威徳は現はるるなり。 他の動物と人間との異なる処は、即ちここにあるなりと教へ居るを我等は聞きたり。この説は諸子の世界の人にあらず。即ち九流界下部の教へなり。人より教へを受けて学びたる事柄は誰も知る。 是等は動物性智覚にして知慧にあらず。唯養分を吸収したるに他ならざるなり。 クウワオと云ふ動物が九流界にありて、その人類より授けられたる事柄を知るによって、すべての事柄に対してはたらきをなすことを得るも、彼等は知慧の具備あらざるが故に、自覚する力あらざるなり。故に彼等には魂と云ふものの存在せずと語り居れり。是等はすべて九流界人類の説にして珍らしければ、諸子の参考として語りおくに止むべし。是等の説に対して我等は彼是と批判することは避くべし。後に教主の語らるる教へを受けて、諸子の自覚を促す材料とせば可ならん。話は横道に入りたり。もとに復すべし。

一流界二流界の如く語らずして通ずる程度迄、進まずば無言詞界とは云はれざるなり。されば無言詞界のすべてを知らんとなれば、その居に達せずば得られざるやと云ふに然らず。理を知りて法を案出すれば、無言詞界は諸子の世


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界にありても、覚ることを得るなり。覚りて法を行へば、凡てに通ず。語らずとも思ひを起せば、言葉なくともその思ひは全土に通ず。是なれば是として叶へられ、非なれば非として退けらるるに終る。思ひを起して言葉に組織せらるる迄に、その思ひは一二流界のものには直ちに通ず。されど思はざる以前の事柄は、神より他に知るものはあらざるなり。是等の理は有形無形を問はずすべては然あるなり。不滅母霊子は全宇宙にみなぎりありて通ぜざるところなし。故に諸子の世界にありても是等の具備はあるなり。是を大自然の具備と云ふ。

諸子は全宇宙の何処かに特別に備へられたる、神の世界がありと考ふるならん。我等も修行時代はかかる考へを有し居たるなり。全宇宙の中に特別なる場所を備へて、その所に神の居ますと考へなば、其は大なる誤ちにて、 神の居は何処如何なる処にも全土にまたがりて、その居を有しあるが故に、別段ここぞと云ふ特殊の地点を設けあるにあらずと知りおくの必要あるなり。その心にて日々の修行を怠らざるやう注意なしおくものなり。然らば神とは如何なるものかと云ふ疑問を起すならん。もし神は己のみ安らかなるところに住居して、 諸子を危きところにおきて安んじ居るものならば、神としての価値はあらざるなり。危き処に諸子をおきて、神のみ安き所に在りて、諸子を顧みざる如きものならば、神の価値は尊ぶに足らず。却て卑めらるる他なかるべし。何となれば諸子を造りしはすべて、神の力なり。故に諸子は神に造られたる、神の子なり。 苦むものを作りて、苦ませて是を喜ぶ如き神ならば、其は神にあらず。親は我児を愛す。神は諸子を愛するは当然なるべし。

故に神は全宇宙の一角に己が住居を造るの必要もなく、住まはんとすれば何処に在りても住居することの自由なるによって、別段ここぞと云ふ定めのあらざるは、 是又察するにあまりあらん。 神は常に諸子を見守りあるが故に、分時も諸子より眼を放すことあらざることに思ひをいたし居らば、軈ては神を見る眼は開かれて、神なる親を知るに至らん。其はとにかく諸子の心否諸子の魂が、無始終霊子に迄立ちかへることを得ば、すべての謎は解けて迷夢より


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醒めることの時節到らん。不滅母霊子に迄立ちかへらせんが為に、種々様々の教へをなし居れど、要は不滅母霊子に迄立ちかへらするための手段に他ならずと知るべし。

無言詞と云ふもすべては気のはたらきに他ならず。気をはたらかすは不滅母霊子なるによって、動じ居ることに留意せば可なり。 諸子の言葉に、「言はず語らずして思ひ通ず」と云ふあらん。 是無言詞のはたらきを指したるにて、通ずると云ふは不滅母霊子の力なり。不滅母霊子は電気の根源にして、電子はこの霊子より生じたるものなりと見るも可ならん。 原子電子のすべては、無始終霊子より作らるるものと見なすも可ならん。 是等を学理的に説明することは易けれど、専門的になるによつてここには省略す。諸子の中には剣道に秀でたるものもあらん。剣の極意に到らば合気の術とか、或は気合とか称する法を修めて用い居るもの多し。 剣道も此位置に迄進みなば、既にわざを超越したるものにて、気によって他を制する力に化せらるるなり。是を会得するには心の修養すぐれずば、理解することあたはず。されど会得すれば至極簡単なるものなり。 催眠術とか感応術とか云へるものも、すべては気の用いかたを指すにて、山中に行ずるものなど皆是等の方法の教へを受けて学び居るなり。この原理を究むる事によって大自然に立ちかへらば、天界の如何なるかは見ること難きにあらず。心平にせよと云ふことは、是諸子に分り易く説明するならば、寒暖計を先づ零度迄下げて、然してすべての温度を計れよと云ふことに帰す。先づ己が心をおちつけて零度、即ち本心迄気を下げ居らば、他よりはたらき来る気の程度は直ちに、幾度あるかを知ることを得ると同様なりと考ふればよし。諸子は常に己が心を頭の中に上昇せしめ居るによって、すべてを計ること難し。故に何事をも感受することを得ざるなり。剣の極意に無念無想と教へ居るも、即ち心を平にして彼是の迷ひをおこす勿れとの教へならん。是等の話はこだま会に於て円海がくはしく語るならん。 彼の説を聞きて参考とすべし。

不滅母霊子に立ちかへるには拝みする法を用ゆるに不如。拝みすれば心は平静となるによつてなり。 諸子は沈黙状


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態を心の平静と考ふるは誤ちなり。たとひ種々様々の言葉を用いて人と語り居るとも、心の沈黙を守り居らば其にて可なり。諸子の沈黙は口に言葉を発せずして心中に種々様々の雑話を語り居るに他ならず。心中の雑話を止めて口より出づる雑話にかへよ。人と種々様々の雑話を交はし居りても、心の動揺を止め居らば其にて可なり。拝みとは是なり。この方法を習慣的になし居らば、自然に理解することを得るなり。嬰児が常に肉体をはたらかせ筋肉を動かし居れど、其は唯肉体筋肉の発達する程度に応じ居るに過ぎず。或は笑ひ或は泣く等々も、筋肉の動作に委せ居るにすぎざるなり。されど笑ふ時は何か一種の霊気あるによって笑ひもし旦つ泣きもするなり。是を汝等の意識にて鑑別することを得るや。生理学よりは斯々なりと説明し居れど、其は肉体のみの観察にて、霊的よりの観察にはあらざるなり。もし諸子が修養修行の力によって、魂霊の力を備えるに到らば、是等の鑑別は明瞭となるなり。 何となれば嬰児にも霊気あり。諸子にも同様なるによって、霊気と霊気の交はりを用ゆれば、直ちに知ることを得るによってなり。


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絶対界 第九章 不滅母霊子と無言詞の関係 P156〜161

所謂声なき声、音なき音、即ち無声音無音声と云ふは是なり。諸子は常に種々様々の事柄を感じ居るは、すべて心のはたらきにして空間にのびたる枝葉が、風によつて動揺なしつつあるに他ならず。 是を心のはたらきと云ふ。枝葉は心に合ひ、幹は魂に合ひ、根は霊に通ず。然して修養修行は此理に基きて工夫せば可なり。 枝葉は風のまにまに動じ居れど、幹は強風にあらざれば動ずるものにあらず。然して根は、幹、倒るるにあらざれば、変化せざるは諸子もよく知るところならん。人の心魂霊はかくの如き関係あるによって、その心して修養の法を自得せばうなずくところ多からん。柳は風のまにまに従ひて逆らはず。風なければ平然たり。幹是に従ふ。根も然あるなり。諸子の心は柳の如く風にまかせて逆はずば、幹を倒すことなかるべし。 名づけて是を柳の修行と云ふなり。是等の法は行者が常に守り居るところ又行ひ居るところなり。

諸子の語るを聞けば宝とは外部より内部に通ずるを云ひ、力とは内部より外部に通ずるを云ふと称し居れり。故に宝は天の恵みにして、力は地の恵なりとの意味を語り居るならん。然りとせば宝は空にして、力は実在の関係の意味に通ずるならん。この言葉より考察する時諸子に与へられたる魂は、宝にして、肉体は力なりとして工夫するも可ならん。 力と宝、何れが尊きや。云ふ迄もなく魂の宝は尊とかるべし。 肉体に宿りて初じめて宝の力が現はる。故に魂は無言詞に、或は不滅母に帰すると云ふことに対しても、この言葉より推測せば自づと自覚することを得ん。魂は天に属し、肉体は地に帰す。 魂と肉体の両々相まって初じめて、人間としての任務ははたさるるなり。 天の宝、地の肉体、是をつなぐものは心のはたらきなるべし。 心正しければ人道は全し。 宝と力の二者によって心を清むれば、身心魂の発育は得られる理も推して察することを得るならん。 身心魂三味一体となりて、不滅母の働き加はるによつて、はじめて身心魂霊の四つは完全に一体となる。身と心は力なるによって軈ては亡ぶることもあらん。 されど魂霊は宝なるによって天に帰れば、亡ぶることのあらざるは是又当然の理なるべし。即ち空を空にかへせば、空となりて尽き


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るところなく持続し行くは、大自然の法則なるが故なり。 諸子は深く追究して或ひは疑ひ、或は信ずる等のことをなさずとも可なり。亡びざるものは亡びざる姿に、神は作りあるが故に、なさんとしてもならず、ならざるやうになさんとするも亦不可なり。自然の法則は曲げんとして曲げらるるものにあらず。又倒さんとして倒さるるものにもあらざる故なり。空しき方向に思ひをはせて、徒らに光陰を空しくするの要もなからん。唯空にかへれば永久不滅なりと思ふだけにて止め置かば其にて可なり。死せんとして死ぬことあたはず、生きんとして生くることあたはずば其は空し。死するにあらずして、 生きるなりとの思ひを貯へよ。然して生きる方向に足をむけなば、その道こそ正しきなり。諸子は此理を知るや。

諸子の考ふるところの生死は肉体の不滅、滅を聯想するならん。 肉体は限度ありて時至らば捨てざるべからず。是は諸子のよく知るところにして当然なるに不拘、生死と云へば肉体にのみ心を置くは、是末だ正しき生死の方向に思ひをむけざるが故なり。我等が語る生死とは又別個のものにて、所謂空の生死を語り居るなり。末熟の魂をそのままになしおきなば、魂としてのはたらきをなすことあたはず。魂としてのはたらきをなす事を得ざれば、其は死なり。故に魂としてのはたらきを完全ならしむる方向に努力するを、生にむくると云ふことにて、即ち魂を完全に稔らせよと云ふに他ならず。 名づけて是を生の方向に向ふと云ふなり。

魂に生を与ふれば、無言詞は従つて有言詞に化せられて働く。 無言詞を理解する魂にあらざれば、神の教へを知ること難し。既に一流界に入らば最早言葉の必要はあらざるなり。言葉なくして凡てを知る。故に全宇宙の総ては解せざることとしてあらざるなり。語らずしてすべてを知るにあらざれば、神を知りても何等の価値もあらざるなり。語らんとして語ることを得ず。されど神はその語らんとするところをよく知る。一流界に居を占むれば、すべては斯くの如き有様なるによつてなさんとせばすべては成立す。 全宇宙にまたがりて己が心のままにすべてに通じて行ふこ


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とを得ば、何等の不自由を感ずるものにあらず。 是真の自由と云ふなり。 自然とは無言詞の世界に入るにあらざれば、正しき自然を知ること難し。大自然の妙味はここにあるなり。

諸子は肉体と云ふ機械ありて、其機械をはたらかせずば、何事をなすにも不便を感ず。一流界に上れば、すでに肉体などの機械を用ゆる要もなく、すべては意のままになすことを得るなり。 斯る事のなし得らるるも是皆、神の力によってなりと知らば、神の力の如何にすぐれたるかを知るならん。然してその力を有する神とは、何なるかも知ることを得るにあらざれば、神に接することの難きも推して知る事を得ん。 ひるがへって諸子は己に与へられたる肉体を、此理より更に新らしく考へ見よ。神ありて力、力ありて無言詞、無言詞より有言詞と成長し来る時、有言詞をは働かせんとするには、何か具備あるものを造らざるべからず。 無言詞を有言詞に化せしめて、其を以て世に知らしめんがために、諸子の肉体と云ふ機械を造るの必要に迫られたるにてはあらざるか。 有言詞に化せしめて、其によって種々様々の事にあたらしめんがために、肉体と云ふ機械を用い居ると知るならば、有言詞をはたらかす機械は所謂諸子の肉体なるべし。 所謂全宇宙の神秘を、すべて有形のものより無形の方向にむかはしめんがための用具として、 諸子の肉体は地上に現はされたるなりと知るならば、すべてのものをその方向に導くためのはたらきをなさずば、機械としての任務は、果されざることの理は、推して知ることを得ん。其機械を運転せしむるものは、即ち魂なり。その魂を完全無欠のものになさざれば、正しき機械は運転すること難からん。 魂の働き優るるに至らば、肉体の機械は如何なるものに変化すとも、自由自在に運転せしめて、更に其より其へと事にあたって、適宜に任務をはたす事も容易なるべし。 十流界には諸子の如き肉体にても任務ははたさるれど、すでに九流界以上とならば諸子の如き肉体にては、任務をはたすこと難きが故に、其々機械の構造を変ゆるの必要に迫られて、次第に変化なしつつあるなり。最後に至つて一流界ともならば、最早斯る機械を有せずとも、すべては、自由に任務に服することを得るによっ


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て、ここに至ってはじめて、真の神務に順ずることを得るなり。是を生より生に進むと云ふなり。故に諸子には諸子の任務あり。此任務を粗略にして機械の故障ある時は、更に又新らしき機械を造りて、其を運転するにあらざれば、任務は果されざる事の理も推して知ることを得るならん。是を天の使命と云ふなり。天の使命をはたされずば、幾度となく新らしき肉体の機械を備ふるの要らん。この事をよくよく覚られんことを!、此理を知らんとならば「未知日記」全巻を参照せよ。

諸子の肉体は形の上に於てさのみ異なるところなけれど、仔細に検討すれば体質に於て異なるところあるならん。体質の異なるは機械の構造が異なり居るによって、其はたらきの点に於ても異なることは云ふ迄もなし。 是を個性と云ふなり。 一般諸子の魂は、機械の運転主なるによって、魂と云ふは皆同一なれど、 任務の如何はすべて機械による。故に機械の構造が任務を支配すと思はば可ならん。労働するものの肉体は、力量なくしてはつとまるものにあらず。知慧の労働者は知慧の力量すぐれずば、肉体のみにては、要を弁ずることあたはざるならん。 肉体の力量そなはり、知慧の力量そなはるものならば、両道に通じてのはたらき全きを得るは当然なり。されど、諸子の世界の人類には、斯る両道備りたるもの少なからん。智能すぐるれば肉体の力うすく、肉体の力すぐるれば、智能はうすし。 是等は一般の法則となり居るならん。是を我等に云はしむれば両道全きもの一人としてあらざるなり。何となれば諸子の世界の自然は斯るところに欠陥のあるによつてなり。諸子の世界の人類の中に於て片手に千貫の重きを持ち、片手に百万の人を手なづくる人材ありや。我未だ斯る人のあるを聞かず。知慧によつて一界を治め、力によって一界を支ふの人にあらざれば、両道全しとは言ひ難し。既に、二流界の人類ともならば、 小児と雖も斯る事は容易のわざにて敢て不思議とも感ぜざるなり。 我、斯る事を語るとも諸子には唯苦笑するの他なからん。 然して我等の説を嘲笑する他なかるべし。 我等は大言壮語するにあらず。 至つて微々たる事を語り居るにすぎざるなり。 全宇宙は広大な


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り。諸子の心は余りに小さし。今少し活眼を開らきて全宇宙の方向にむけよ。井中の蛙となり居りては、人類の向上望はまれざるべし。

一個の投石は軽くとも水底に没す。万人支へ難き船は、水上をはしるにてはあらざるか。宇宙の隕石は落下し来りて地上に墜つ。然るに天空に散在する数多の星は、空間に浮び居るにてはあらざるか。是みな法なり。汝等の考へはすべて水面に投石するに等し。古代の人に対して汝等の世界より、月の世界に旅行すると語るとも解する人あらざりしならん。されど現在の人類は最早是等に対して不審するものもなかるべし。 地球より月界迄わづかに九万六千里と計算なし居るにはあらざるや。法を以てすれば百万里遠からず。されど汝等の肉体にて、機械なくしては一里すら飛行すること難からん。すべては法なり。すべては知慧なり。知慧によって法を知るにあらざれば、人類の向上発達は望まれざるべし。先にも語りし如く九流界上流の人類は、隣国の小児と小児同志が朝夕交はりて遊び居ると聞かされなば諸子の世界の人類は疑ふ者多かるべし。されど事実に於て彼等は法を知り、其を応用して交はりをなすことを敢て奇とせずたはむれ居るなり。まして二流界一流界ともならば、全宇宙を我物として、自由自在にかけめぐるも、敢て意とするには足らざるならん。 是等は諸子の科学の法則より順次考究すれば、その理は知ること難きにはあらざるべし。知すぐれて大自然を悟り、その大自然に有する法に合ふ道を択ばば、すべてはなしてならずと云ふこ

となし。ならざるは知慧なきが故なり。 全宇宙にはすべてに関して材料は、完全にそなはりあるなり。 法によってその用法をあやまたずば、何事も成就する事疑ひなしと、我等は断言して憚らざるなり。病苦を治癒せしむるに対しても薬石のそなはりが存し居るに不拘、知慧なきが故に諸子は是を知らず、平癒すべき、病気をも死に至らしめ居るは、実に遺憾なることなり。如何なる病苦に対しても、苦みをまぬがれしむる法もそなはりあるなり。されど諸子は是を知らざるのみ。 みがきて知慧を求むれば、その材料は悉くそなはりあることに留意せよ。是等はすべて不滅母の


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そなはりより、次第に拡張して研究すればすべては明らかとならん。

形あるものには形を以てし、形なきものには形なきものを以てすれば、法は得らる。不滅母霊子の研究に迄、科学の力をのばしなば、すべての道は開らかれ、すべての法を案出すること難きにあらざるが故なり。 言葉なき言葉を聞くものは誰ぞ。例へばこだま会に集り来る人達の肉眼(め)は、慈音に注がれ居れど、彼等の心眼は、慈音に来る円海を、見んとなし居るにはあらざるか。耳に於ても然り。声は慈音の口より出で、彼等の肉耳に通じ居れど、その言葉は円海の声として、心耳に、聞き居るにはあらざるか。肉耳と心耳の相違はここにあるなり。 肉眼心眼は又同様なり。 心眼を開けよと語り居るに対して、諸子は何か他に肉眼以外のものを発見せんとして、却て心眼を閉ぢ居るなり。法とはむづかしきものにあらず。今も語りし慈音の譬喩の如く、こだま会の人々は心眼肉眼を同時にはたらかせ居るによって、その区別は脳裡に映りて、円海の講義を聞きとり居ることに心づかば、心眼心耳とは別段変りたるものにあらざることを悟るならん。

諸子はよく如何にすれば、心眼は開らかるるやとの質問をなして、新らしき法を他によって求めんとなし居る如きは、心眼を開くにあらずして、却て心眼を閉ぢ居る結果となるなり。無言詞を聞く耳の理も、従つてこの理より考察すれば自づと悟ることを得るならん。 徒らに心を労して他によって法を求めんとすることの考へを捨てよ。 諸子には神より授けられたるすべての材料が整備ひ居るなり。故にその組みかたを正しく用ゆれば、はたらきも従つて是に伴ふ。然して法も自づと案出せらるるは是すべて、神の恵みに帰す。無言詞を聴かんとして、神を拝むは法の極意なり。むづかしきものにあらず。諸子は薬を調合するに何々と何々を化合して服用せば、何々の病苦は治癒すとの法を知るならん。 其と同様にて拝みとは物と物との化合せしむる法にて、所謂病を知って薬を説くに等し。

諸子は何か他に求むる力の存在するとの思ひにて拝みをなす故に、その拝みは通ぜざるなり。 何となれば拝みする


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