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絶対界 第十章 霊気と霊気の交はりに就いて P185〜189

在は認ること難し。此理は諸子もよく知るならん。一本の鉛筆にて白紙に文字を認むるとき悪き鉛筆ならば、文字は描かれずして明らかに見ること難からん。 是等は分解性に属するが、故なりと知るべし。 一本の線に於ても融和性と、分解性によって相違あるなり。諸子はこの事柄に対しても、紙と線との融和と誤解する勿れ。 紙に線の現れざるは、紙と線との融和するとせぬとにありと思はば、我等の意味とは異なるなり。我の語るは紙と線とにあらず。 線の明瞭不明瞭を指すなり。 線の不明瞭は持続を有せざるが故なり。是を分解性と云ふ。 線の明瞭なるを融和性と云ふと知られたし。 是を縁と云ふなり。紙と線との縁にあらず。 線の明瞭不明瞭を有縁無縁の区別と云ふなり。兎に角紙と線との縁は実は縁にあらず。 唯紙の上に線が乗せられたるに過ぎざるなり。縁と云ふはつながりなるが故に縁と云ふなり。故に線の明瞭不明瞭によつて縁も相違あることに心を止めよ。 もとより紙の上に線を乗せたるも縁の部類に属することは云ふ迄もなし。されどその縁は融和性にあらず。謂わば他人との交はりに過ぎざるなり。 線のつながりは即ち血族性関係の縁と見なさばうなづくところあらん。是等の事柄も信仰の上には重大なる意味を有す。故に参考として語りをくべし。

諸子の肉体に備はりある筋肉の筋に、相当するものは引力性によって同種のものが結合して筋をつくる。 是縁の濃き故なり。肉是に伴ふは縁のうすきが故に稍もすれば分解する作用を有す。同じ肉体の中にありても分解性、融和性の相違あることに心附くならん。是等の道理は後に教主の語り給ふところによって明らかに覚ることを得ん。 親子兄弟の関係は即ち筋肉の筋に相当すと思はばうなづくところあるならん。是等はすべて教主の教へをまつべし。信仰とは唯引力を強くすることによって得らると知らば、拝みするに対しても従来の拝みと、今後の拝みとには必らずや相違あらん。 諸子の拝みは来れよと云ふにあらずして、去れよと云ふに等し。故に通せざるなり。朝には門戸を開らき、夕には閉すにてはあらざるか。 戸を開らくは来れよの意味にて、閉づるは去れよの意味ならん。この事柄より拝


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みの法を研究せば、引力圧力の関係も推して考案する道は開らかるる筈なり。されば拝みする時は来れよの拝みならざるべからず。拝みに対しては「末知日記」前書に示めしあることを参照せば可ならん。

此事柄より広く考察せば信仰とは神のみに限らず。すべての有益なるものならば引き入れて差支なからん。神ばかりが入り来りたりとて他のものを引き入るる知慧なければその信仰は空し。此理も合点することを得るや。我等先に語りし如く悪人の言葉と云へども善言なれば信ずべしと。又小児と雖も善言ならば取り入れよと語りしはこの意味に属す。故に信とは即ち引力に帰すとの意味も従つてうなづくところあるならん。信仰と云へば神にのみ、或は仏にのみ囚はれ居りては、其は真の信仰とは云はれざるなり。神を信じたりとて、その力を己に受けずば何の益にもならざるなり。 神を己にひき入れて、然してその徳に浴するにあらざれば真の信とは云はれざるなり。諸子はこの点に深く思ひを致されよ。然して天界を信じよ。天界を我ものに引き入れよ。言葉によってのみ悟らんとせばむづかしく思はるれど、是を行ひの上に移せばさまで至難なることにあらず、至極簡単なることにて目的は達せらるるなり。彼是迷ふこと勿れ。

引力には圧力あり、圧力には引力を伴ふことの理を考究せば従って法は得らる。拾も階段をつくるに等しと思はば可なり。或は線を長く々々延ばすと、同様の関係より考察するも可ならん。線を延ばすと云ふは即ち道をつくるに等し。さりながら諸子は新らしく道を造らんより既に神によって作られたる道を、或は線を追ふて進み居らば、其にて望みの地点に達することは得らると承知して、他に新らしき道を作るの必要もなかるべし。諸子は生れし時わづかに母の手に握られたるものが成長して、現在の姿迄のびたるにてはあらざるか。是等は引力と圧力によって同種のものが、 つみ重ねられてかくも完成したる点より未来を考ふれば、そこに何か一種の何物かのある事に心づかば、其にて悟りは得らるる筈なり。諸子の肉体を一枚の木の葉として考へを大きくせよ。肉体を幹として考ふるが故に、諸子の


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考へはあやまつ。肉体を一枚の葉として考ふるならば、幹の如何に大なるかに考へを廻らす時、未来の如何に大なるかを観る事を得ん。 一枚の木の葉は幹の如何なる所に置れあるやを知ること難からん。 諸子は天界を想像することの

得られざるも、みなこの比喩に過ぎざる故なり。

全宇宙の成立を枝葉に渡って考察せんとならば、如何に知慧ありとも如何に学問ありとも、到底計り知ることあたはず。されど是等と雖も人体の構造より考ふれば大同小異なるが故に、その大体の事柄の理を究め得ること難きにあらず。 全宇宙の組織も人体の組織も帰するところは同一の関係に置れたるが故なり。兎に角霊気と霊気の化合によつて種々様々のものが現出なし居ることは、智者も学者もいなみ難き事実なるによつてなり。 人体が種々様々の細胞組織によって現出したりとせば、その一個々々の細胞が霊気と霊気の化合により、作られたる事の理も推して知ることを得るならん。故にすべてを分解して始めの霊気に立ちかへらしむるならば、絶対界とは如何なる処かは是又察せられるならん。されど諸子の考ふる絶対界と事実に於ける絶対とは是又大なる相違あるなり。今も語りし如く白紙の上に一線を引く時、諸子はその線と紙とのつながりに対しての関係には眼をむくれど、其線の縁と云ふに対しては心止むる人は稀なり。唯線は点の運動なりとのみ考ふるにすぎざるならん。 点の運動とは即ち縁にしてつながり、其つながりこそ即ち縁なりとの考へを有せざるならん。点と点とのつながりが縁あるによって交はりを長くなし居るに他ならず。されば白紙と線の関係は唯紙の上に置あるにすぎずとの考へをなさずして、縁とは紙と線との交はりを有すとのみにて、帰するところは諸子の考への緑と云ふは、紙と線との関係にのみ重きを置き居るならん。 是を我等に云はしむれば紙と線の関係は自然の縁にあらず。余義なく結ばれたる緑にして其縁は一時的のものにすぎざる故な

り。所謂不自然の緑にして自然のものにあらず。 線の緑こそ即ち自然の縁として結ばれたるものとして、自然と不自然の関係は先づ斯る処にも見らるる道理あるなり。されどこの事柄に対しても線の縁は末だ、大自然の縁にはあらざ


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る関係もあるなり。自然を究めんとせばかくの如き複雑微妙なる関係あるが故に、諸子は唯一言に自然々々と口にし居れど、大自然の本体を正しく認識なすことは、容易の知慧にては計り知ること難からん。 諸子は空気は縁によって一体化なし居ることを考へしことありや。 縁あればこそ空気は一体化なし居るなり。是線にも点にも面にもあらざるべし。 体として考ふるも面として考ふも線として考ふるも、その区別を肉眼によって定むる事難からん。されど心眼霊眼にて見るならば、線ともなり面ともなり体ともなり居る事は是を知ること易からん。 大自然の縁とはかくの如き程度迄考へを廻らすにあらざれば認識すること難し。空気が大自然の姿なるによって、その自然より地球より草木に至る迄すべてはその縁によって作り出されたりとせば、縁のつながりは草木に迄及ぶと云ふ事の理は明らめらるる筈なり。

霊気と霊気の化合は先づ諸子の世界にて譬喩をひくならば、空気の其として教ゆるの他なし。諸子はこれによって霊気の交はりが縁によってつながれあることに気づくならん。然して縁とは如何なるものかの理も朧気ながら解することを得るならんと思ふが如何?決してこじつけの理論にはあらざるなり。理を非に曲ぐると云ひ、非を理に曲ぐると云ふはこじつけなれど、理を理によって語るは決してこじつけにはあらざるなり。よって我等はこじつけにあらずと断言す。 諸子は己が知慧を以て是等をこじつけなりとして考ふるならば、先づ如何にとも考へを廻らすべし。其は諸子の心なり。如何に考へ進むとも帰するところは此処に帰るの他なきが故なり。 空気が縁によって組織せられ居るとせば、霊気と霊気の縁の理は推して知ることを得ん。神を仏を霊気とし、人間を霊気として考ふる時は、すべては縁によってつながると云ふ事柄に対しても、其理は明らかに知らるる道理あらん。

神仏に姿あらば人間にも姿あり。姿を霊気にかへせば如何なる結果となるや。諸子は我に姿あり。されど神仏には姿なしと思ふが故に一体化すること難しと思ふならん。されば姿ある己を霊気にかへよ。然することによって神仏の


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霊気と一体化することはむづかしき事にはあらざるならん。されど是等の説は理に似て理にあらずと思ふならん。あるものをなしと思へとは是不自然の教へなるが故なり。ここに理論と実際との喰ひ違ひがありて、所謂云ふべくして行ひ難しの言葉となるなり。其は一方に実間あらば、一方に空間あるによってなり。即ち神と人との関係は斯くの如くなる隔りあるによって、神を見ることを得ざるなり。神は空間にして、人間は実間におかれある故なり。故に空実一体化せしめずば目的は達し難し。空を実になすべきか、或は実を空に運ぶかの方法を用いざるべからず。さればなしやすき方向にむくる事によって目的は達せられる道理あらん。実を捨てて空となすべきか。空を取り入れて実になすべきかの法を先づ考究せよ。 法は何れを択ぶも可なり。 諸子はなし易き法を択ぶべし。 所謂仏教に云ふ自力他力の法によって考究せば可ならん。

信仰と云ふことのあらはれはかくの如きものに対して、大なる力あらはるるによつてなり。信の種子を霊地に蒔けば、一方には信と又一方には不信との二葉に芽を出す故なり。 信と云ひ不信と云ふも、根に返せば種子は信なり。 霊地の力にて是等は二分せられ行くに他ならず。 諸子は唯信と云ふものの本体を知らざるが故に、信不信を彼是論議なしおれど、霊地にかへれば帰するところは信の姿に他ならざるなり。

是を要約すれば信とは、即ち魂の本質に他ならず。 故に信とは自己に有する魂のはたらきの現はれに帰すと云ふの他なからん。されば魂に知らせてその魂が厭ふならば、其は不善にして、己の本質に反する為厭ふなり。されど反対に好むと云ふは、魂に同化する喜びなるによつて、ここに好むと好まざるとの相違あるなり。此理より察すれば己に有する個性を発見せんとならば、魂の本質に立ち返へらしめてその好むものに対して、歩みを進めなば個性はのびて発育することは云ふ迄もなし。是即ち信によって得らると知らば、信仰とは他を求むるにあらずして自らを求むるに他ならず。されど外に対して何ものか目標を定めずば、個性を見ること難きが故に、仮に神を信ぜよと教へ居るな


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絶対界 第十章 霊気と霊気の交はりに就いて P178〜184

自をはなるる如きは是信にあらず。信ぜざるが故に、斯る姿となるなり。此意味を諸子は知るや。諸子には到底理解すること難からん。 諸子の信仰は信にあらずして唯知ると云ふに他ならず。 知りたりとて信ずる力なくんば、其は空行く雲の如し。神を知りて神を信ぜずば、自他一如の関係とはならざるなり。然して霊気は和せざるに至らん。無智の人には斯る言葉もて語るとも、到底さとる事は難し。諸子は知らんとして学ぶが故に、学びて其徳を発揮することを得ざるなり。知らずとも信ずる力を強くするにあらざれば、霊気は通ずるものにあらず。斯く語らば諸子は 霊気は、何ものにも通じ居ると云ふに対して又も不審するならん。霊気はすべてに伝はり居れど、信ずる力の程度によって強弱はあるなり。知らざれば信ずるあたはずとの考へならば、諸子は、生涯信仰することは難からん。知ると知らずに不拘、信ずる力を養はずば、さとりは得難し。 かく語らば知らざるものを、信ずることは得ざるにてはあらざるかとの疑問をなすならん。 斯る疑問を抱く間は、到底信ずる力はそなはらざるべし。知る知らずに不拘、すべてを信に化せよ。 諸子は他を信ずれば彼は我に対して善とならんとか、或は又我に力を与へんとか云ふが如きことを信ぜよと誤解する勿れ。我等先に語りし欺かるるとも信ずべしと云ふ言葉に対して、誤解し居ること多き故なり。 諸子の思いは誤てる考への信なり。 我等の語る欺かるるとも信ぜよの意味を曲解なし居るが故なり。所謂信の意味を誤解なし居るによって、斯る誤ちたる方向に信をむけ居ること多し。

今慈音は隣家の未亡人と語り居るを聞くに、その未亡人の曰く、「人を呪ひて死に至らしむる如きことのなし得るや」と。慈音是に答へて 「其は念力と称して念の力強ければ、なし得らるるなり。されど斯ることは一般人のなし得らるるものにあらず。故にかかる人は或一種の精神障碍者なり」と話し居るを聞きたり。念力によって他を虐ぐることを得るならば、是を反対に用ゆれば人を救ふことも得らるる道理あらん。 人を倒すのみが念力にはあらざるべし。用ひかたの如何によっては、その余力が種々様々に通ずることが察せられるならん。されど果してそれが真なりや偽


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なりやは、常識判断にては到底考への及ばざるならん。されど信ずる力の備はりあるものならば、考へずして行ひ得るなり。即ち学ばずして、知ると云ふは是なり。信ずる力は誰にもそのそなはりを有す。然るに是を引き出す力と、気力のうすき為涌き出で来らざるのみなり。信と云ふは霊の地なり。此地に、相当するところにすべての種子を蒔けば、その分に従つて成長す。 所謂信とは霊の地なるが故に、すべてを発育せしむる力の具備あるを指すなり。是を絶対の地と名づくるも可ならん。大地は一見すれば唯土の如く見ゆれど、蒔く種子に応じて其々の養分を送りて、その個性を活かし育て居るにてはあらざるか。もし大地に種子ならざる他の器物を埋るとも其は育たざるべし。然るに器物を長く土中に埋むれば時間によって、その埋めたるものが形を変ずる場合もあらん。是等も信の力に帰するなり。例へば一個の木の箱を土中に埋むれば、腐蝕して影を止めず。その土に化せられるならん。是即ち信の力なり。汝の肉体を土中に埋むれば、骨格のみ残り他は消滅す。 然してその骨格も軈ては消滅するならん。 是大地の力なり。信の力は同様の関係ありと知るべし。汝の肉体に備はりある霊地も斯くの如き働きをなすなり。故に霊地のはたらきを粗略にせずして、霊地に肥料を施して霊地を肥す方法を信仰と云ふなり。然して信仰の力をのばすとは、霊地を肥して如何なるものをも育つる働きを増大せよと教へ居るなり。欺かるるとも信ぜよとは欺かれし種子をも育てよと云ふことなり。霊地は如何なるものをも嫌はず育つるにあらざれば、霊地の徳は発揮することあたはざるなり。欺くとは悪き種子なり。欺かるるはその種子を蒔かれたるを意味す。その種子を育つれば悪き実を結ぶは当然なるべし。されど其は霊地の罪にあらず。 蒔きたるものの罪なることは推して知ることを得るならん。善不善、正不正に不拘、蒔きたる種子、蒔かれたる種子を育つるは信仰なり。即ち霊地なり。悪き種子は育ち易し。良き種子は育ちがたきことは、諸子も体験したることならん。取れども取れども尽きざるは雑草なるべし。此雑草をも刈りとりて程よく按排し、肥料として地をこやすならば却てよき種子の養ひとなるは、是又諸子も体験したるならん。信仰の法はかくの如し。諸


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子の信仰とは確定したるもののみを、信ずる力を養はんとするが故に、却て雑草ははびこるなり。

此理を悟らんとなれば、先づ信仰に相当する霊地を発見するにあらざれば、正しき信仰は得られざるなり。果してその霊地は那辺にあるかに思ひを廻らさざるべからず。諸子は美しき花園を見て、大地の徳を見ず。 花にのみ心惹かれて唯美しき花よと称讃するのみ。是を育て開らかせたる大地には無関心なるべし。末知日記前書にも語りたる如く、泥中の蓮を見て、蓮にのみ思ひを致し、泥中を称讃する人は、あらざるならん。是等は信仰の力うすきが故なり。否信仰と云ふ霊地を知らざるが故なり。 もし花園に心奪はれてある時、 その花が毒気を発するものならば、 諸子は眠りにおちて生命すら失ふこともあらん。其が大地の信仰に迄達し居らば、かかる花には心止めずしてのがれ去ることを得るなり。信仰の力とはかくの如し。一度あやまてば生命をも失ふ。迷信とは是なり。 是等の類を迷信と云ふ。 正しき霊地は雑草を繁茂せしめず、是を肥料として正しきものを育つるによって、かかる誤ちを犯すものにあらず。

我、諸子に問ふべし。諸子は日々他人より恵を受けて有難しとの言葉を発するならん。是等は諸子の全世界に通じたる言葉なり。然しその有難しと云ふ言葉の意味を、我等の心に感ぜしむる答へをなせよ。何が有難きか。 この言葉は一般に用いられてありながら、一種の挨拶にすぎざるなり。 今一層是を深くして忝と称する言葉、更に一層深くして、勿体なしと云ふ言葉に到らしめて、 其等の意味を我等に納得せしむる底の説明をなし得るや。

有難し添勿体なしとの意味は那辺にありや。是を徹底せる言葉に迄変へて、衆人の心に感銘するところ迄至らしむるにあらざれば、霊地を知ること難し。諸子の世界には一般の挨拶語として用いられ居るにすぎず。その言葉は一片の雲にすぎざるなり。斯ることにて信仰は得らるるものにあらず。 末知日記前巻に語りたる、「何事のおはしますかは知らねども、勿体なさに涙こぼるる」と云ふを語りおけり。日本人の用い居る勿体なしと云ふ言葉を、他国人に通


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ぜしむることを得るや。 然らざるべし。信仰を深くする霊地とは是なり。霊地は勿体なしの程度迄進まずば、霊地を発見すること難し。 諸子は神を信ぜんと努力しありながら、神を知らざるは、即ち霊地を知らざるが故なり。故に何ものを見ても有難しの真をすら、究むることを得ざるなり。

太陽を眺め其が形あるに不拘有難しとも思はざるが故に、眼に見えぬ空気にすら有難しとの念はおこらざるなり。かかる程度の信仰にて、神を信ずることの得られざるは当然なるべし。有難しより辱、更に勿体なし迄の真の念に迄到達せずば、神を拝することは難し。勿体なさに涙こぼるると云ふ極致に迄到らしめずば、汝に宿り居る神の姿は、恰も空気のそれと同様なるが故に、見ること難きも推して知ることを得るならん。無智者の人にして、日々勿体なしとて暮し居る人は多し。是等は学ばずして霊地を発見したる人なり。諸子はなまじ知慧の備はりありて、其が却て信仰のさまたげをなし居ることに意を用いよ。今も語りし隣家の未亡人の言葉の如く、念力にて人を陥るる底の人は常識の備はりうすき人にて、唯怨み妬みの念のみ学ばずして働き居るが故に、かかることをもなし得らるるなり。是等も或一種の霊地を見つけたる人なり。 されどかかる人は反対に、人を救ふ方向に念をはたらかす力なければ、所謂悪魔に冒されたる人と云ふの他なからん。 もし其が悔ひ改めてその力を転ぜしむるに至らば、人を救ふことも学ばずしてなし得らるる事は云ふ迄もなし。屢々語りし如く大悪は、 大善の基なりと、説きしはこの類なりと知らば可ならん。

念力によって種々様々の事柄をなし得ると云ふは、帰するところ霊気と霊気の交はりを結ぶ力に他ならず。 念によって気と気を接続せしむる事によって、すべてに通ずと知らば可ならん。念と云ひ、縁と云ふも気と気のつながりなり。縁とは一種の波長にして、念は其をはたらかする動力と見て差支なからん。 念ずると云ふは波長を送る方法にして、縁とは相手かたの波長に合せしむる検波器の如し。是等はすべて霊気と霊気を交はらしむる方法の源と知らば可


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ならん。末知日記前巻に於て掲げたる或僧は、道に乞食の寒気に堪えかねてふるへ居るを見て哀を催し、己が衣を脱ぎて彼に与へしに彼は一言の礼もなさざるに対して、何故感謝せざると問へば、乞食答へて、汝、施物をなして何故感謝せざると、反問せられて僧は赤面して合掌せりと云ふ例話を、説きたるを諸子は記憶せるならん。 諸子はこの意味を如何に考ふるや。是等は即ち検波器のむけかたが方向を誤ち居ることを教へたるなり。僧は乞食に物を施して、彼に答へを促すは、波長の方向を乞食にのみむけ居りて、大切なる方向に霊気をむけ居らざるが故なり。故に乞食より教へられて神仏の方向に、波長をむくることを覚りたるが故に、赤面する他なかりしなり。

我ものにあらざるものを他に施し、他より感謝を受けんとは僧としてなすべき事にあらず。 仏の命によりて僧は乞食に施こしをなしたるなれば、仏に対して僧は感謝せざるべからず。僧は僧としての任務をなし遂げたるは、是仏の力によりて衆生を救ひたる結果なれば、仏に対して感謝せざるべからず。故に乞食より教へられたるなれば乞食の言葉は、僧に対して直に感謝の言葉を発したるなれば、すべては感謝に帰せしめられてその全きを得たるなり。

諸子の修養修行と我等の修行とにはかくの如き相違あるなり。気と気を合すると云ふことに対しての一大事はここにあるなり。諸子は自己中心として、他に恵をなして其を善根なりとの考へにて、他より感謝の言葉をきかずば腹たち罵るならん。斯る恵は真の恵にあらず。 斯る信仰にて如何に善行をつむとも其は空し。諸子は、神仏のものを奪ひて、そのものに依て自己の栄達を計らんとするが如きは、神仏を粗略になしたる行いなるが故に、如何に功徳をつむとも望は達せざるのみか、真の神仏を知ること難かるべし。 是等は信と云ふを誤ち居るが故なり。神仏と離れざる信仰ならでは、無言詞界に入ること難からん。即ち無言詞界の方向に波長をむけずして、徒らに有言詞の方向にむけ居りては通ずるものにあらず。憐みの心をおこして乞食に衣を与へしは、有言詞の方向にむけ居るに等し。然し施し終りて感謝を捧ぐるは、是霊地に波長をむけたる結果となるなり。諸子は日々他人のために尽し居るならば、尽したる


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後感謝の思ひを、神仏に捧げ居らば、めぐみし者より一言の挨拶なしとて、怒り罵る如き愚はなさざるべし。

諸子は神仏の下僕にして、神仏の命に従ひて凡てに務めをなし居ると云ふ考へにて、行じ居らば其にて可なり。一つの命を受けてつとめ終らば、神仏より賞せられん。その賞せらるる言葉は、即ち有し難しと云ふ言葉となりて現はるるなり。然して再三再四つとめを粗略にせず、賞せらるる度加はるに従ひて辱なし、勿体なしの賞が深くせらるると知らば、「何事のおはしますかは知らねども、勿体なさに涙こぼるる」底に迄賞せられて、ここに初めて神仏と諸子が接近して、その姿をも拝することを得るに到るなり。むづかしき事にはあらざるべし。又理に外れたる教へにもあらざるならん。

ここに注意することあり。其は他ならず。我等の導きと宗教者の指導とには相似て相違あり。 宗教者は一方的の説なるが故に、ややもすれば瞑道に陥り易し。 仏教者の如く無常観のみ語り居るが故に、人心は陰欝となり、然して活気を失ふこと多からん。 余りに神仏を恐れしむる結果、陰鬱となり行く傾向あるは、我等よく知るところなり。 仏教信者の涙もろくしてよく嘆く人は多し。されど日本古代の神道の教へには、かかる人の少なくして、活気にみなぎりたる人多かりし昔を我等は知る。 全世界の宗教者悉くが是等に類するたぐひ多し。是みな誤ちたる導きをなし居るが故なり。 我等の導きは唯諸子をして、 天界の姿を知らしめんがために語り居るに他ならねば、宗教者と同一の思ひにて此書を見る勿れと注意しおくべし。余事は兎に角神によりて作られたる諸子なるが故に、諸子には己と云ふものあらざるなり。故に神の命に従ひて行動せずば、使命は果されざることは云ふ迄もなからん。然るに諸子はすべて自己中心に物事を考ふるは所謂我儘気儘と云ふなり。されば早く我儘気儘を捨てて天の使命に順ずる道を考究せよ。 然らずば霊気を知ること難からん。神に順ずと云ふは霊地の徳を知ると云ふことなりと思はば可なり。霊気と霊気が一体化することを信と云ふなり。信は真なり。信は親なり。親しむの意味に通ず。親しむとは結合を意味す。故に和する


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なり。さればすべては信なるべし。神と云ふも亦信なるべし。神を仰ぐことも信仰なれば、是又和する方法を示したるに他ならず。故にミキョウは神を知らずとも、神を作りては如何と教へたるなり。是等はこじつけかは知らねど言葉至らぬが故に、かく語るの他なきなり。文字の意味にこだはらず、唯その大体の意味をのみこむことを得ば、其にて我等の望は徹したるなり。

諸子の信仰とは我等より見る時は圧力性にして、神仏を迎へ入るるにあらずして押し出し居る如き方法を用い居る姿なり。信仰の本質は圧力性にあらず。 引力性ならでは信仰とは云ひ難し。信ずるとは引力を意味す。 諸子は神と己と対照として、己を神に至らしめんとの考へより見えざるものを探り求め居るが故に、信は得られざるなり。 対象物を作らず、又対象物を考へざる引力性を働かさずば信とはならざるなり。不滅母霊子は先にも語りし如く、活動霊子補助霊子にわかるると語りたるは是なり。活動霊子は諸子の考へにては圧力と思ふならん。もとより圧力に相違なし。されどこの圧力を反対に用ゆれば引力となる関係あるなり。 活動霊子を引力に用ゆれば、補助霊子は圧力となり、補助霊子を引力に用ゆれば、活動霊子は圧力となる。故に引力と圧力は相互に用いかたによりて、何れにも化せられる力を有す。此事柄を予め認識なし居らずば、我等の語る説を知ることは至難なるべし。 活動霊子 補助霊子は、相互融和性と分離性の素質を有するによつて、一方に融和性のはたらきとなれば、一方は分離性のはたらきをなすと承知せられたし。融和性と分解性の素質の原理は、即ち霊子の摩擦に依るが故なり。是が次第に発育延長する事によって種々様々の無形有形のものに、組織せらるることの理は推して知ることを得るならん。 是等の詳細は後に教

主の語らるる教へによって確かに覚ることを得るならん。今は唯是を参考に供しおくに止むべし。

諸子の語り居る言葉に有縁無縁と云ふことあらん。有縁とは融和性にして、無縁とは分解性なりと知らば可なり。

例へば紙上に一線を引く。 是が融和性なるによって線となりて現はるれど、その線がもし分解性ならば線としての存


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絶対界 第十章 霊気と霊気の交はりに就いて P174〜177

自得する道は開らかるる事を知るによって、参考に迄語りおくべし。霊気を知るは魂にあり。 魂の力優れずば霊気に順ずることは難し。是は複雑微妙なる意味を有す。霊気とは先にも語りし如く、すべてに通ずることは諸子も知るところならん。霊気には特殊の作用あるによって、無言詞を有言詞に化せしむる力もあり、又法を作る自然の備はりもすべて霊気によってなされ居ることは、従来より語り来りたる如くなり。たとえば肉体をはなれたる人の魂を見る力は、霊より他にあらざるなり。霊の力備はらずば、すべて無なるものを見ること難し。諸子の中によく語り居る霊魂と云ふは実は霊魂にあらず、錯覚幻影に他ならざるなり。是等は心魂の気によって見るが故に正しき見かたにはあらず。所謂俗に云ふ「幽霊見たり枯尾花」の譬喩に他ならざるなり。真の魂は霊ならでは見ること難し。肉眼を通じて心眼、心眼を通じて魂眼のみにては正しき魂は見ることを得ざるなり。其が今一層深くなりて魂眼を通じて霊眼を開らかしむるにあらざれば、完全なるものは見ることを得ず。この理は既に諸子も解することを得るならん。 されど事実に於て是を見ることを得ずば、机上の空論にすぎざるなり。己・霊界の人となりて、然してすべてを見るにあらざれば、正しきものを見ること難し。 我等が口角泡を飛ばして語り居るはここなり。諸子を天界に導くと云ふは肉眼より心眼、心眼より魂眼、魂眼より霊眼と次第に行をすすむる事によって、初めて霊界の位置に置るる事なりと思はば天界は遠からず、汝生きながらにして天界に到ることを得るなりとの理を語り居るに他ならざるなり。故に肉体失はるれば修養修行は困難なりと、語り居るはこの理なるが故なり。我と慈音が語り居るも、即ち霊と霊の交はりあるが故なり。霊眼の度加はるに従ひて、神の世界に通ずることは、既に末知日記にて語り居る如くなれば、朧気ながらにても諸子はこの理を知ることを得たるならん。故にこの方向に向つて歩みを進めよと教ゆるものなり。汝の魂は汝の肉体に宿る。汝の肉体を汝の魂に委せ、更にその魂を霊に委することによって初めて、天界に往生することを得るなり。往生と云へば忌はしき言葉の如く感ぜられるならん。今も慈音と隣家の母と語るを聞けば、生れし赤子は最早百


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ヶ日経ちしと云ひしとて是を忌み嫌らひ、又お七夜に命名するを一七日と云ひたりとて、忌み嫌ふと話し居るを我は聞きて、ここに何か無言詞のはたらきのあらざるかと慈音に語りたり。百ヶ日と云へば死を思ひ、百日と云へば別段気にも止めざるならん。 又お七夜と云ふも、一七日と云ふも、同様の関係にて死と生の相違となるが故に、かかる言葉の相違によつて間違ひを生ずること多からん。言葉にはかかる不自由なる区別あり。されど無言詞は然らず。無言詞は複雑なるものの中より、一個の確定したるものを取り出して語るが故に、かかる迷ひはあらざるなり。霊気は汝にも備り又他のすべてのものに備はる。霊気の力すぐれ行かば草木とも語ることを得るなり。されど草木には魂と云ふ具備あらざるが故に、人間の霊気を送るとも彼等には通じても、何事の応答はあらざるなり。是と反対に草木の声は、人の霊気に伝はり来れば、忽ち是を知ることを得るなり。

諸子には知慧うすきが故に「云ふべくして行はれず」とか、或は「云ふは易く行ふは難し」など云ふ言葉あらん。是を我等にはしむれば云ひ得らるるものならば、行はれずと云ふことなしと公言して憚らざるなり。 既に言葉に組織されて語ることを得るならば、行ひてならずと云ふことなきなり。ならざると云ふ事は言葉にては到底、現すことを得ずと云ふ底のものに多し。されど事実に於て行ふことを得るとも言葉に表現すことの至難なること多からん。是諸子の知慧の程度が低き故なり。又言葉の不自由なるにも基因すること多し。慈音の如く無学無智の者にしてありながら、霊気に順ずることを得たるが故に、我等の説を聞きて修養の度をたかめ居るなり。諸子はすべての備はり完全なるが故に、却て種々様々のさまたげに囚はれて、霊気に和することを得ず。和することを得ざるが故に、順ずるこ界も得ざるのみなり。今や諸子の世界には霊に順ぜしめて是に何事をも任せ居る人はあまりに少なし。故に諸子の世とは混乱より混乱へとれて、正しき世界を現出せしむる事を得ざるなり。

兎に角心意魂魄一体化せしめて、是に霊のはたらき加はらば地球に住居ゐて、居ながら天界の姿に化せらるること


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疑ひなかるべし。心のみの世界を作り居りては、肉体に囚はれて動物性に変化するの他なきが故なり。 永久不変なる愛の力によって世を建設するにあらざれば、世は保たれ難きこと云ふ迄もなし。諸子は個人愛にのみ囚はれ居りて、他に及ぼす愛の力はうすし。是等は心のみの気をはたらかせ居りて、他に合する力うすきが故なり。

夫婦の愛は自他の愛にして、心の愛にあらずと云ふならん。されど現今称へ居る諸子の世界の夫婦愛は、我等の眼より見る時真の夫婦愛にあらず。即ち個人愛に属すること多し。 真の夫婦愛は現今の如き、動物性愛にあらず。さればこそややもすれば離婚をなして、平然たる如きを見ても明らかならん。 一度婚して又離れ、然して又他と婚する如きは、是動物性にはあらざるや。所謂一時的の気まぐれ結婚にすぎざるが故なり。かかる人達が真の夫婦愛など知ることを得ざるは当然なり。夫婦となりて世間態を憚かり、余義なく一生をすぐし居る人あるも、 我等はよく見る。かかる夫婦は真の心気一体化なし居るにあらず。其はまだしも親子関係に於ても同様の事柄多し。 親は子を育てて或程度迄是を育つれば、是を追ひやりて顧ず、子も亦同様の事柄をなし居りてあるに不拘、世間は其をすら敢て不審ともせざる如きは何故か。其が所謂現今の人類が定めたる憲法とか云ふに至っては、実に滑稽至極とや云はん。己のみよければ他は如何になるとも差支なしとの考への如き、自由主義は是正しき自由にあらず。是等は神の法則に反する故なり。諸子は不便なる人なりとか称して財宝を与へ居るにてはあらざるか。 其にも不拘、親が老衰して働く力失せたる者に対して、是養老院などに入れよとて、顧みざる如きことをなし居るに不拘、一方には何々会へ夥しき財宝を運び居る者すらあるを見る。然して其が憲法上何等差なしとか称し居るは、実に面白きことにてはあらざるか。一国の平和も、一家の平和も、同様にてはあらざるか。一家れて一国安かるべき道理あらんや。一国治まらば、一

家治まり、一家治まらば、一国治るは是理なるべし。余事は兎に角霊気和すれば、人類悉くに通ずるが故に、世は安し。愛の力は鬼をも泣かしむ。 愛とは何か。愛とは霊気の合したるを云ふなり。霊気合して愛となる。 人の性は善


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なり。性とは霊気の合して現れたるを云ふにて、霊気合して性を産む。故に人も根に帰ればきよし。されば心意魂魄すべて霊に返へれば、清き姿に化せらるるは是又当然なるべし。 樹木は冬になりて枯れたる如く見ゆれど、春にならば又花を開かせ、 実を結ぶにてはあらざるか。 冬になりて枯れたる如く見ゆるは、すべてを根にかくしたる姿なり。其が春になりて花を開かす。 是又根に相当する霊気の力なるが故なり。すべてに眼を注ぎ凡てのものに心を致さば、自づと理解する道は開らかれある事に留意せられよ。

天地相和してすべてをつくる。天と地と合するを諸子は会ふと云ふならん。会ふとは愛の意味なるべし。 我等、諸子の世界の言葉を知らねば、その意味の如何あらんかは知らねど、天地和合することを会ふと云ふならば、会ふは愛に通ずと云ふもこじつけにてはあらざるならん。よしその言葉がこじつけとして語りたりと思ふも、其は諸子の心任せなり。兎に角我等はその意味ならんかと語りしのみなり。地も霊なり。天も霊なり。 天と地合するは、即ち霊と霊との相通ずるが故なり。不可分の関係にてはあらざるが故なり。諸子の肉体に於ても同様の関係あるなり。諸子は他人と会ひたる時手と手をにぎりて挨拶をなすならん。 又相互に頭を下げて挨拶になすもあるならん。是霊気と霊気を合せしむる一つの方法なるべし。相互に霊気の合通を計る方法なるべし。礼義とは和する方法ならん。又もこじつけの言葉かは知らねど我等に云はしむれば、礼義の礼は、即ち霊気の霊に通ずと見ても差支なからん。 相互に礼を交はすは、即ち霊を通ぜしむるに他ならず。故に礼を霊に通ずと云ふもこじつけにはあらざるべし。

拝みすると云ふは即ち霊を霊に、同化せんとの一つの法なり。 礼義を重んぜよと云ふは霊気を重んぜよと云ふ事に変へては如何。然せば拝みの意味は察せらるべし。信ずるが故になきものをもありとして悟る事を得るならん。無きものをなしと考ふるも亦信なるべし。 異なるところは不確定と確定の相違あるのみ。 信と云ふ言葉には相違なからん。不確定も信なり。確定も信なり。諸子は信なきが故に親は子を捨て、子は親をかへり見ず。自は他を欺き、他は


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