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絶対界 巻之二 第六章 活動霊子(仮称)と補助霊子(仮称)について P80〜83

ヒロ

ざれば今日改む。是さとりなり。今行ひ正しからざれば今是を改む。是さとりなり。 さとりには別段むづかしき法あるにあらず。行へば忽ちなし得るはさとりの法なり。聊か時間を要するさとりと、瞬間にさとり得るとの相違あるの

み。悪きことと知るはさとりにして、改めざるはさとりを得てなさざるが故なり。 なさざるは法を行はざる故なり。さとりとは自然の法則より出でたる感じにすぎず。その感じを与へしめたるはさとれよとの教へなるべし。 教へをき

きて是に従はずば法を行ひたるにあらず。 法を学びて法を行はずば知りたるにすぎず。 知りたるのみにてはさとりたとは云ひ難し。知りて行ふによってさとりは得らるるなり。是即ち法なり。不善と知りて改めざるは命に従はず、法に従はざるが故なり。故に両者が対立してここに悩みを生ぜしむ。故になやむは罪の報に他ならず。例へば酒を好む人酒の悪さを知りて是を改めんとする時、悪きと知りながら盃を手にするはさとらざるが故なり。是を忽ち思ひ切りて盃を棄つるは瞬間さとりなり。されどその瞬間さとりが永続せずして又も盃をとる。 是等は正しきさとりをなさざるが故なり。所謂法の用いかた誤りたるが故なり。悪きと知りながら盃を捨るあたはざるは、知りて行はざるが故に禁酒することを得ず。是等は一例にすぎず。斯る事に類したる行ひは多々あらん。今も語りし如く瞬間さとりと、時間を要するさとりとの二種ありと説きたるは是なり。瞬間さとりは容易に思ひ切ることは難く、時間を有するさとりはなし得らるるものなり。

諸子は親を失ひ子を失ひて歎くならん。 されど他人の死に対しては顔を曇らするのみにて悲しみの程度には相違あるならん。肉親に別れて悲しむ、その悲しみを忽ち明らむることを得るや。然らざるべし。 是が時間を経る毎に、漸く悲しみの度はうすらぎ行くにてはあらざるか。瞬間さとりと、時間さとりとには、斯くの如き区別あるなり。 知りながら明らむることを得ずと云ふは、知りて行ひ難きを云ふならん。 他の動物と人間との情愛には、 斯くの如き関係に於て相違あることにまなこを向けよ。 然らずば法は得られざるべし。 執着の法とは是を云ふなり。然るれば悲し


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み、死すれば喜ぶと云ふ宗教もあるなり。 生れし時死することは誰にも知らるるところ、生れし時死するを知りて悲しみをきなば、死すれば其は喜びとなるとの教へが、習慣性となりて斯る宗教もなりたち居るならん。 生れし時喜び

をくが故に、死する時悲しむは是又法なるべし。時間性の明らめ、瞬間性の明らめとは、是等の点より研究せば微妙なる法案出せらるるならん。 他の動物は死するも生きるも別段問題とはなさざるなり。 生るれば子を愛し、死すれば其にて終る。然るに人は斯る事をなすことを得ざるなり。是に対して原因は那辺より生じ来りしかを、先づ検討するにあらざれば明らめは得られざるべし。 悲しみても喜びても死するものは死す。是自然の法則なり。自然の法則の曲ぐることを得ざるは是なり。 あるが故に自然に順ずれば、明らめも得られ又さとりも得らるる道理あらん。その道理を知りて考ふれば法は得らるるなり。 生れて悲しみ死して悲む。 是一方的なるべし。生れて喜び死して喜ぶ。 是又一方的なるべし。生れて喜び死して悲しむ。 是又一方的なり。 生れて悲しみ死して喜ぶ。 是又一方的なり。ここにまなこをむけよ。諸子の世界には斯くの如き反対の宗教より、生れて悲しみ死して喜ぶ教へと、生れて喜び死して悲しむとの教へが、伝統的習慣的暗示となりて、依存しあることより考慮せば死しても悲しからず。 生れても悲しからざる法も行ひ得るにてはあらざるか。

今や日本人は古来よりの伝統的習慣性によって、築き上げられたる世の中をすてて俄に外国の命に服さんとなすとも、是を容易に改めて其に服従することの至難なるを見ても明らかなる如く、習慣性のさとりを得たるものに対して、俄に切那的のあきらめをなさしめんとする事の至難なるを、体験しつつあるにてはあらざるか。他国の様に従はんとなすとも、法は容易にうなずけるものにあらず。されば是等に関して聊か語らずば正しきさとりは得られず。 又棄執着のむづかしきことも従つてうなずかるるならん。さとるが故に、法は得らるるなり。法あるが故に世は治まる。 是は三宝界の法則なれば、何かそこに一つの補いなくんば、世は正しき治まりを持続することは至難なり。この


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理より察すれば三体四立の法則に従へば、三体の世界は危険を伴ふ。然るに四立の法則に従へば、世は全く治まることの理も、明らかにうなずかるるならん。 三宝界にては争ひは絶ゆることなく、是を四立の世界に化せずば、全き望

みは得られざることは明らかに知らるるならん。今我かく教へ居る時、教主曰く、四立の法則にても世は全きとは云ひ難し。故に正しきさとりを得させんとならば、三対四立を順序として理解し、更に進んで円満世界を現出せよと語

りをけよと、命ぜられたれば是に従ひて語りおくべし。

すべて物事をさとらんとせば、考へのみにては得らるるものにあらず。考へとは感じかたを変へるの意味なれば、即ち心の動揺なり。 心の動揺してはさとり得るものにあらず。 動揺せざる不動心となるにあらざれば、動揺は益々激しくなりて不変の境涯に入ること難し。 好める酒を止めんとして尚捨て難きは心の動揺なるが故なり。 死したるものに執着して涙を流し、その影を追ふも心の迷ひなり。迷ふは心の動揺する故なるべし。道理と知りながら其に順ずる事を得ざるは、心の動揺にして正しき明らめを得たりと思ふも、是又心の動揺なり。 動揺せざる地点に到達して、初めてその全きを得るなり。 さとらんとするも凡ては順序なり。順序に従って歩を進むるにあらざれば、目的の地点には達し難し。釈迦キリストと雖も小児の時代はありしなり。 順序に従ひて解脱することを得たるなり。世人の世界は理論のみにてはおさまるものにあらず。 唯理窟となるにすぎざらん。 諸子は娘を他家に嫁入らせて安心なし、且つ喜悦を感じ居るに不拘、其が死したる時嘆くは何故ぞ。 我子を神の許に或は仏の許に嫁入らせたりと思ふならば、喜悦安心するにてはあらざるか。 さりながら斯ることを我等が語るとも、唯脳裡をかすめて聞きのがすのみ。 嘆きは止まらざるべし。

他家に縁附けて喜ぶも、神の許におくりて安らかならしむるも事は一つなるべし。されば悲しむに足らず。喜びて可ならん。 物事は斯くの如し。考へかたは唯明らめをなさしむる方便にすぎず。然るに悲きものは悲しかるべし。其


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には何かわり切れぬもののあることに心せざるべからず。即ち考へとさとりとには斯くも相違あるによってなり。 悲しみを喜びに変へ、喜びを悲みに変へたりとて、其は変ぜしめたるのみにて相対関係の相違に他ならず。 故に正しきさとりと云ふは悲しみもなく喜びもなき底のところ迄、至らしめずばさとりは得られざるなり。 所謂不去不来の境地即ち縁附けたるにあらず。 死なしめたるにあらず。 すべてが我に止まりて、はなれざる不動の位置に迄達せしめずば絶対とはならざるなり。 好める酒をすすることあたはざるも是又相対の関係にて、心の動揺の迷ひに他ならず。 好むと好まざるとが相対よりはなれて、一つのものにまとまれば、是等の明らめは簡単に行はるるによってなり。即ち用いざりし昔に立ち返へれば、其にて好めるものを簡単にすすることを得るなり。悪きものならば斯くしてすつべし。悪からぬものならば捨つるにも及ばじ。悪と知りながら悪き行ひをなすは、悪を知らざるが故なり。政治家は善政を表面にして、 悪政を行ふもの多し。学者宗教家商人など等々すべてこの類が多からん。 是等は悪を行はんがための方便に、善を用い居るが故なり。故に諸子の世界は表裏の関係ありて、相対なるが故に、平和は得られざるなり。諸子はこの理を知るや。 「商人は損をしながら倉を建て」と云ふ狂句を我等は耳にす。断る行ひは政治家宗教者を問はず、この類の例はすくなからずあるなり。斯る事にて年月を如何に重ぬるとも、安楽の世界が現出すると思ひもよらず。嘆はしき事にてはあらずや。諸子は我等の説を聞きて修養修行せんと思ふならば、先づ是等の事柄に対して深く思ひを廻らしをきて、然してその原因をたしかめて後、更に教への意味を考ふべし。然らずば唯脳裡をかすむるのみにて、正しき不動のさとりは得られざるべし。修養修行するは我なりとの念をすてよ。 我修行するにあらず。彼修行するにあらず。 修養修行には彼我の区別はあらじとの思ひを貯へて、行ぜずば正しきさとりは得がたし。この理を知るや。 まぎらはしき言葉もて語り居れど是には、深き意味の含まれあることを諒とせよ。 空しく聞きのがすこと、又見のがすこと勿れと注意なしをくものなり。


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