絶対界 巻之二 第六章 活動霊子(仮称)と補助霊子(仮称)について P92〜96
霊子を一方に吸収せしむれば、他は薄弱となりてそのはたらきをにぶくするが故に、斯る障碍を引き起す結果となるなり。是等は肉体障碍より現はるる現象に他ならず。活動霊子補助霊子は吸収力の程度によって、働きも自然に異なる事は云ふ迄もなし。 是等の霊子あるが故に、すべての有形なるものに化せられ行きて相対性となり、 是が又結合されて、その相対より次第に絶対へ導く。この理は前巻にも語りし如く、破壊分解融和組織の法則に基きて、変化なしつつあるによつて、全宇宙は終始変ることなく安全に保たれ居るなり。されどその中に含まれたる物のすべては、相対複相対複々相対と変化するによって、ここに時間空間数などの必要を生ずるに至りたるのみにて、別段不審するには足らざるなり。
是等の事柄に対して、教へとなるべき材料は諸子の世界に充満しあるに不拘、諸子は唯すべてを見のがしつつありて是等によって大自然の法則を悟らんとはなさざるのみ。すべてに眼注ぎて、魂の眼より観察する時は、教へとならざるもの一としてあらざるなり。 一本の草、一疋の虫、すべては肉眼に委せず、心の眼より見る時、 みな汝を導く教へとならん。留意せよ。 唯肉眼にて醜美を感ずるのみにては、何等修養修行の道は開かれざるべし。
人間同志が約束によって作られたる金銀財宝に囚はれて、他をおろそかにするはあさましきことならずや。 朝夕汝が口にするすべてのものによって、生命ながらへ居りながら、その一々を宝とせず、空しく喰ひ居りては、自然に対して余りに無頓着にてはあらざるか。 一椀の飯、一腕の汁、是金銀にまさる宝にてはあらざるか。 一疋の小さき雑魚と雖も、大なる宝にてはあらざるか。汝飢えし時人間同志の約束によつて作られたる、金銀財宝は汝の命をながからしむる役にはたたざるべし。大自然の恵は斯くも大なるところに留意せざれば、理解すること難し。汝は我家に坐して安全なりと思ふや。汝の坐せるところは危ふし。 一度地震へば瞬間に倒れて、肉体を亡ぼさん。かかる危きに坐して汝は自若たるを、我等に云はしむれば滑稽と見るの他なし。人間の智識は斯くも低し。 その智慧にて大自然の如何
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なるかを知らんとは、余りに分度を超えたる望なるべし。 大自然の法則を正しく認識したる人ならば、是等の事に関してすでに、何等かの明らめをなして大なるさとりを得る筈なり。其にも不拘諸子は進むべき道を進まず。徒らに危き大地にあこがれて、日々の生活を空しくなし居りては、何日かは天界の安きに至ることを得んや。 我等諸子の世界を見るに、不自然より不自然への生活を営み居りて、其を自然なりと曲解なし居るは遺憾に思ふなり。 永久ならんとして却て短縮したる生活をなし居りては、益々自然に遠ざかるのみ。心すべきことにてはあらざるか。例へば小さき例にとりて見るも明らかなる如く、木造建築の軒をならべて市街をつくり、然して火災を免れんとはかる如きは、自然より遠ざかり行く方法を用い居るが故なり。是に対して火災を免れんとして石造家屋とせば、日本の如き地震帯の地には是又不適当なるべし。是等も自然より遠かりつつあるによってなり。 正しき自然を認識したるならば、断る過誤を誘発するものにはあらざるなり。
絶対性自然と相対性自然とを比較して考ふる時、諸子は相対自然を用いて、絶対自然より遠ざかり居る為、神と云ふに対してもその見かたが異なり居るによって、すべては相対的となりて、宗教者と我等との教へを異にし居ること多し。相対的より見る神は限度を有す。されど絶対的より見る神は限度なし。神と諸子との対立はすべて、相対的なるにあらずや。神と諸子と対立せざれば、一如の姿となり神即我、我即神の関係となる故に、神と我とは一つにて二つにあらずとの結論となる。 是絶対の見かたなるによってなり。されど諸子は神を神とし、我を我とするによって、神と我と対立してここに錯誤を引きおこして、都合よき時は神に従ひ、都合悪ければ神より遠ざかる結果となるなり。斯ることにては信仰は得難し。さればこそ諸子は、人類同志に於ても和合することを得ざるなり。 諸子は常に四海兄弟とか云へる言葉を口にし居りながら、 唯其は言葉にのみ現はして、事実に於て争ひをなし居るにてはあらざるか。現在の世相は親を親とせず、子を子とせず、或程度迄子を育つるは親の義務にして、其以上は独立をなさしめん
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とてその責よりまぬがるる親心は、親としての親にあらず。是を一面より云ふならば愛するが故に、独立せしめんとはかり居るなりと云ふならん。もとより是等は相対性自然を応用したる法則に合へど、是を絶対より見る時は何かそこに割り切れぬものを感ずるにてはあらざるか。 所謂相対より複相対へと次第に分たれ行きて、果は一体化より遠ざかりつつあるによって、個人主義と化せられるなり。さればこそ子は親より遠ざかり、親は子を忘るるに至る。甚だしきは親子反目して、法廷に争ひなどおこし、勝利者は得々として世に憚らざる如き誤ちをなし居るに不拘、第三者に於ても是を余りに重要視せず、当然の如く考へ居るが如きは、複々相対の自然ながる故なり。 相対性より神と人との関係を考ふるが故に、斯くも誤ちをなし居るなり。苦しき時神に助けられおきながら、我儘をなさんとする時は、神より遠ざかる如きは、これ相対自然なるによってなりとの理由もうなずかるるならん。 神を親とし、我を子として、親子の関係を考へ見よ。然る時は明らかに汝等の誤ちたる信仰を解することを得るならん。 其と同時に汝等の世相の過誤を発見することも得らるる筈なり。 絶対自然より観察すれば、神と我等とは一体なるが故に、離るること能はずとの思ひを厚うするならば、神より離るることあらんや。是を汝等にとりて考ふれば、親と子は一体なるによって、離るることを得ずとの理もうなずかるる筈なり。然りとせば全宇宙は一体なるによつてすべては一つなり。不可分にあらずとの道理より考ふれば、反目して争ふ如き愚を敢てするものにあらざるべし。 四海兄弟はおろか、全宇宙はすべて親子兄弟の関係となる以上、過去現在未来、永久一体より一体として考ふれば、すべては一なり。 祖先も我なり。 未来も我なり。 所謂我より我への連続となる。又彼より彼への連続とも見られ、更に神より神への連続とも見なすならば、時間空間の必要も感ずるものにはあらざるべし。 是等の言葉を単に聞きのがし、唯五里霧中にて読むこと勿れ。是は斯くあらんか。この言葉はかかる意味かと、味ひつつ考へ考へながら読むべし。然して自得せよ。単に文章などにこだはらず、又辞句などに留意せず、読みて、兎に角巳が心のはたらかせかたを工夫しながら、味はひ読
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まれんことを望む。 我等わざと分りにくき言葉もて語り居るなれば、その心して読むべし。 然して自得せば、自づと諸子の心の中に喰ひ入りて、理解せしむる事を得るなり。 おろそかに見のがすこと勿れ。 兎に角相対性より見る神は、神にあらず。或時は神の力を、或時は神の下僕を、神として感ずることもあらん。キリスト教の聖書の中に見らるる如く、始めに神は人を造りたるに不拘、余りに人の我儘気儘なるによって、これを絶滅せんとなしたることさへありし如く、記されたるにてはあらざるか。又神は人を導きて、大なる力を与へしに不拘、神より遠ざかり行く様をも、記し居るにはあらざるか。神は人と人と戦はしめ居ることさへ、記るされたるにてはあらざるか。所謂万軍の神エホバとか云へる如きは何故ぞ。 諸子は唯聖書を見てこれを歴史的事実として見るならば、そは大なる誤解にし宗教としては、或は参考書の役をなすにすぎざらん。 かかる教へより神を信ぜんとするは、不可能なるべし。昔は知らず、今は人智も進みたるが故に、既にかかるものに対して、耳を藉す者もあらざるべし。されど是を我等に云はしむれば、すべては相対より見たる神を、現はし居るにて未だ絶対の神を知らしめあらざる事によって、かくも異なり居ると思ふなり。是等の説も相対性より見る時は、無理ならぬ教へなり。誤ちたる教へにはあらざるなり。諸子
の考へが誤ち居るが故に、誤解を招き居るにすぎず。
兎に角無始終霊子はものの善悪に不拘、引力圧力の二種を根本として、活動なしつつ現実化せしめあるによって、宇宙は現はされたる事は屢々語り来りたる如くなり。されば活動霊子補助霊子によって、宇宙全宇宙はなりたち居ると見なさば、そこに神の存在の有無は従つて察せられる筈なり。日本の宗教に見る如く、天の御中主の尊、国狭鎚の尊、豊国主の尊以上の三尊を、独化の神と云ふと記されあるにはあらざるか。天の御中主の尊とは、即ち不滅母を意味し、国狭槌豊国主は活動霊子補助霊子に匹敵すと見るならば、日本の宗教もあながち排斥するの必要もあらざるべし。否これ等は重く見て差支なからん。 兎に角我等は是を重視し居るなり。この間(三月十八日) こだま会に於て
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円海が神も知らざることあるならんと語りし意味は、是等に属す。我等常に神は知らざる事なしと語り居るに不拘、円海が何故かかる事を口にしたるやと思ふならん。 円海は誤言したるにあらず。又方便の言葉にてもあらざるなり。
是等に関しては追々語るべし。相対性信仰と絶対性信仰とには、相似て等しからざる点きはめて多し。 諸子はこの点に重きををきて修養修行せざれば、天界へのぼる道を誤つこと多からんと思ふが故に、かくもくだくだしく語りたる
なり。
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