絶対界 第八章 天に昇れば雲の上人 p123〜127
第八章
天に昇れば雲の上人
絶対自然の法則は軽きものは上昇し、重きものは下降す。即ち引力圧力のあるは絶対自然の法則なるべし。さればこそ前記の講目の如き俗言はあるならん。 肉体を地上に置き魂を天界に送るの意味より、この言葉は出でたるならん。位高くならば人より尊ばる。諸子のものを尊ぶは高きを指すならん。位とは霊気にして肉体を指すにはあらざる
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べし。 肉体を有するが故に、修行して品位を高むることは是即ち、霊気を物語ることは云ふ迄もなし。されど我等は斯かることのために、この語を講目として掲げたるにあらず。 人間生れて永久死することなければ、身心共に地上に置
れて永久何れへも上ること難かるべし。 ここに於て大自然は或程度迄地上におき、然してその霊気を上昇せしめて、他界に移さんことを計りあるなり。 諸子は同じ肉体をながく有して、永久その肉体のために悩まされありては、真の安楽は得られざるべし。 よつて神はその苦患より免がれしめて安らかなるところに安住せしめんことを計り給ふは、これ大自然の法則あるが故なり。 物には順序ありて、その順序を正しくわたるにあらざれば最後の望みは達し難し。さればこそ神はすべての法則を曲げ給はざるなり。 肉体に宿せし霊を鑑別して、其々稔りの程度に従って、更に其を順序正しく運び行きて、然して後最後の位置に進むことを得るなり。 もし全宇宙にこの組織なければ、 諸子は永久同じ位置にをかれて、向上することはあらざるなり。低下するも自然にして所謂逆行の方向に向ふ法則なるが故なり。先にも語りし如く折り返へすならば、即ち低下するなり。 折り返へすは稔らざるが故なり。 稔らざるは不完全にして恰も機械に故障を生ずるか、或は線路の損傷によって余儀なくせしめらるるに他ならずと知らば可なり。誤ちたる方向に歩みを進むれば、折り返へすの止むなきに到るは当然なるべし。肉体に宿れる霊気は軽し。軽きが故に上昇するなり。されど稔りて軽きと、稔らずして軽きとの相違によって、 是又上昇の程度も異るなり。 執着心を貯ふれば、その執着の程度に応じて、霊気は重し、故に是等は上昇もせず、又下降もせず宙に迷ふなり。 所謂執着と云ふ一種の有形物が禍をなし居るなり。修養修行せずして唯死するがままに死しなば、是は分解されて飛散し、唯霊気のみが別れ別れとなりて他に宿されて、或は虫となり、或は畜生となりて又下界の苦みを招く結果となるなり。故に十分に稔らせて飛散分解せざるきはめて軽きものを上昇せしむれば、其にて目的は達せらるるなり。 修養修行の力に応じて、 九流界或は其以上の界に置るるは、みな程度の如何によるなり。天に昇れば雲の上人とは、即ちこの理を云ふなり。
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もし諸子が肉体亡びて魂が天上したる時の様を考へ見よ。肉体を有する間は、その肉体の刺戟によって種々様々のことを感じ居たれど、肉体の力消滅すれば、すべての感じは共に消滅して影を止めず、唯霊気のみが上昇するにすぎざるなり。霊気は肉体の刺戟あらざれば何等の感じもあらざる如く思ふならん。然りとならば修養修行などの心要も、従つて無意義のこととなるは当然なりとの考へを起すならん。 何事をも感ぜざる霊気がその後如何になりたりとて、其はその後に委すの他なからんとの考へは誰もが想像するところなるべし。さればこそ諸子は現在の姿に置れながら、己の過去が何なりしかを知らざるならん。
例へば優れたる聖者が汝にむかひて、汝の過去は何々なりしが、汝は神の心に合ひし行為をなしたるため、今は人間として此世に置れたりと聞かさるるとも、唯然あるかとのみにて何等其らしきものを心に感ぜざるべし。唯肉体を有する間のみにて過去未来のことなど考ふるとも、何等の術なしとして放棄なし居るにてはあらざるか。 もし諸子が絶対自然の法則を、正しくさとり得たらんには、断る過誤を犯すものにあらず。未来を知る者は過去をも知る。 過去を知らざるが故に、未来も知らざるなり。過去未来を知らざれば現在をも知ること難し。諸子は一寸先は暗の夜と称へ居るにはあらざるか。 明日をも知れぬ生命にて明日を考ふるとも、何等せん術はなかるべし。然るに諸子は明日のことを考へるにてはあらざるか。 昨日なしたることを知るならば明日をも知る道理あるなり。 過ぎたる昨日は今日になりて知ることを得るならば、汝は遠き過去の何なりしかをも知る筈なり。明日何せんと思ふならば、遠き未来も何せんとの考へを何故におこさざる。 昨日を知りて明日を考ふる力あるならば、是を拡大して過去をも知り末来をも考へざるべからず。過去未来を知らざるもの、何とて現在をも知ることを得んや。諸子は現在を知ると思ふは誤解なり。所謂現在を空しく空に歩み居るに他ならず。恰も浮浪病者の其の如し。徒らに光陰を空費し居るのみなりと云ふも、敢て過言にはあらざるなり。
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我等の語る知ると云ふことと、諸子の知ると云ふことには相違あるなり。例へば今汝の処に来れる人を、汝は早くより感じ居るならば、其は知るなり。然して来りて知るは其は唯感じたるに他ならず。 斯くすればかくなると思ひて成
るは知るにて、唯訳もなく成りしは感じたるに他ならず。
我斯る不確定語を用い居るは、教主の意を体して語りたる迄なり。されど是にはきはめて深淵なる意味の存在しあるによつて、兎に角心だけにてもこの語に止めおくべし。諸子の智慧にて如何に論義すとも解することは難からん。後に至つて教主の教へを受くるに及びて、初じめて其語は解せられると承知せよ。 諸子は日々を知らず知らずの間に空しくすごし、暴ては肉体を終らしむるにすぎざるなり。故に過去未来現在を知らず。 又知らんともなさずして空しく光陰に委せ居りては、完全なる稔りは得がたし。修養修行の力によつて智慧の程度が発達するならば、三世は明らかに覚知すること難きにあらず。されど覚知したるのみにては何の甲斐もなし。 是を知り、その理を究めて、その事柄の是非を鑑別して、然して進むべき方向を定め達すべき処に到らずば、人としての任務は果されたりとは云ひ難し。人と生れて人を知らず。 知りても何になることぞとて放棄すれば、凡てはそれにて終りとなる。斯る事にては知らざるが、却て喜びとならん。知りて苦を招くより、知らずしてすごさば、却て楽しかるべしとの念は生ずる故なり。諸子はわづかなる智慧を以て、神を論ずるは愚も甚だし。恰も蟻が科学によって、人類を知らんとて討議なし居ると同様にて、 蟻の智慧にも足らざる人類が何とて、神を論ずるとも到底その智慧にては計り知ること難からん。故に我等は神の世界を知り、神をも知るによって、 諸子に語り伝へて、然して高き処に導かんとはかり居るなり。 もし諸子が我等の言葉を信ぜず、斯る事のあるべき道理あらんやなどとて、この書を捨つるならば、永久神の世界へは
到達すること難からん。 されど我等は強いて是を信ぜよと云ふにてはあらず。唯事実を語りて諸子に伝ふるものなれば、信ずると信ぜざるとは、諸子の心任せなり。強いて信ぜよと奨むるものにあらねど、信不信は兎に角、唯然ある
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かとの考へだけにても、脳裡に残しおかば、何日かは我等の意を悟る日もあるならん。信ずるものは信じてこの道を歩まば、決して誤つものにあらざる事は確言して憚らざるなり。そは我等事実を知るによってなり。 一疋の電気鰻が馬を倒したりとて、諸子は驚く。されど眼に見えざる黴菌にて、 諸子は生命を棄て居るにてはあらざるか。然るにその黴菌すら完全に駆遂して、人命を全からしむる方法すら、未だ完成なし居らざるにはあらざるか。斯る浅才薄智の脳力にて、神界の有無を究めんなどとは及ばざることはるかに遠し。 諸子は有機物にのみ囚はれて、無機物の重大なるもののあることに気附かず。唯有機物と有形との化合を計るのみにて、無機の研究をおろそかになし居る傾向あるを我等はよく知る。故に肉体上よりの関係にて、精神科学を成立せしめんと計り居れど、精神より霊的方面に向ひては研究の力にぶし。 無機物と有機物との化合によって、有形のものを作るは易し。顕微鏡を以て見ゆる範囲のものは、研究なし得れど、その力の及ばざる以上のものを究むること難からん。是等は絶対性原理を知らざるが故なり。神は人間の肉体を作りて、その肉体を役立しめんとなすにあらず。さればこそ二流界の如き人類を作りて、更に一流界或は其以上へ進ませるなり。人類のうち最も低き程度に作られあるは諸子の姿なり。その最下等の人類より
次第次第に、二流界一流界に到る迄の人類に引き上げて、更に進んで神界に迄移して、広く全宇宙を完全に組織せんとの思し召しなるべし。 是等は絶対より絶対への法則をつくりあることは、我等よく知るによって諸子に語りて伝へ居るなり。この理より考へ見よ。神の意とし給ふところは、有機物にあらずして、無機物を求め給ひ居るにてはあらざるか。其にも不拘諸子は動物性本能に囚はれて、人間性本分を知らず、その日その日を過し居りては向上は思ひもよらざるべし。
人間性本能と云ひ、或は動物性本能と云ふも、是みな智慧の別れなるべし。 所謂絶対の智慧が相対に別れて、二分或は四分せられたるに他ならず。是をもとに立ち返へらしむれば絶対智慧に帰するなり。所謂智慧より出でて知慧に
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