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絶対界 第七章 無始終霊子の人間精神に及ぼす関係 p100〜103

ヒロ

を一体の如く見るならん。 又或場合には神の世界がありて、其処に多くの神々が集り居りて、特殊の世界を作り給ひあるが如く語り居る宗教者も、きめて多し。 例へば全宇宙の中に特別なる世界ありて、神はその処に集りて、神としての生活を営み居るならんとの想像より、神を考ふるが故に神を誤つこと多し。

汝等が住める地球と云ふを我等に云はしむれば一粒の米の如し。その米によって汝等は生存なし居ると仮定せば、汝等は米の養分を作り居る細菌と見なすの他なし。 米としてのはたらき尽くれば、糞尿となるの他なからん。 地球は恰も其の如し。さればこそ諸子の能力は余りに小さしと語り居るなり。今少し大なる眼を開らきて、広き高き天界を観望せよ。然して神とは何か。神の世界とは何処かを正しく認識する眼を開らき、然して能力の智識を高めよと奨むるものなり。せめては五大鏡の世界を地球上につくりては如何!。然して宇宙の広きを高きを観望せよ。斯く語らば諸子は我等を狂人の如く思ふならん。 我等は決して狂人にあらず。 又誇大に吹聴して諸子を愚弄し居るにてもあらざるなり。既に慈音は五大鏡の見聞をなして、唯呆然として語る言葉をすら知らざるなり。諸子は如何に空想をなして誇大妄想狂に陥りたりとして考ふるとも、諸子の能力の程度は我等よく知る。 諸子の誇大妄想狂と思ふことは小さし。同じ妄想狂に陥るならば、今少しく其を延長拡大しておこし見よ。其にても尚一個の菌にも及ばざるべし。 地球上より望遠鏡を以て僅小の星を観望して、巳が住める地球よりすぐれたる所あらじと思ふも、実に滑稽至極のきはみなり。

死しては生れ生れては死す。かかることをしばしば繰り返すことによってこそ、人類は向上しつつ行くなり。 現在のままにて生死を繰り返へし居らば、恰も地球の其の如く何等変化するものにあらず。されど地球と雖も何日かは亡びて、又も変化したる姿となる事もあらん。 宇宙の姿も亦同様にて何日かは、大なる変りたる姿に化せられる事もあらん。是等は物体変化にして、人類その他の動物の如くならずと雖も、変化し行く事は大同小異なる事も察するを


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得るならん。此変化あればこそ、人類は二流界或は一流界の如く進歩発達なし行くなり。 諸子の世界位の人種には猿の如く尻に尾を有したる事もありしに不拘、現在は斯る人類は僅小に算ふる程残存なし居るにすぎざるならん。 人体

の改造せられ行くは、人智の向上によってなされつつあることの理は、 斯る事にて察するを得ん。是等と雖も生れて死すればこそ、改造せらるれど、永久その姿にて死すことなければ、智識が如何に発達すとも姿は何等異なることなからん。進歩せしめんがために、神は人類に生死を与へ居るなり。不自由なる肉体をながく保ち居りては、真の自由は得られざるべし。 永久死せずして真の自由を得る程度迄、引き上げんとして斯くも生死の定めを与へ居るなり。即ち生死は順路にして、一度死すれば其だけ向上の階段を上ると思はば、生死はものの数にあらず。 悲しまんよりは寧ろ喜びなるべし。諸子はかかる不自由なる肉体と云ふ籠の中に、長く閉ぢこめられて不自由の生活を好むや。 一度肉体の篭よりはなたるれば自由の翼は、又も次の篭に飛翔して暫くその居に安んじ、又もぬけ出で、次の居に安んずる迄、翼の力は続き行くなり。然して翼の力強くならば、既に篭の必要もなく自由自在に居を変ゆる事も、欲するままになすことを得るなり。二流界にて職衣を脱ぐと語りしは、即ち最後の篭よりはなたれて一流界の如く、自由の翼となりたるを語りしなり。されど絶対なるものは誰ぞ。即ち汝は永久汝なり。唯種々様々と変化し行くは経路にすぎず。道をあやまちて進むが故に、同じ肉体のままにて幾回となく生死を繰り返へし居らば、即ち行くべき道を知らずして、同じ処を幾回となく廻り居るにすぎざるなり。甚だしきに至っては転落して、他の動物の篭に閉ぢこめらるるものすら多くあるなり。 諸子は果実を作りて体験した事あるならん。 樹木に肥料を施さずば、年々果実は小さくなりて、果は意の如く稔りすら得られざることもありしならん。恰も其と同様にて修養修行をおろそかにせば、結果は全きを得ること難し。樹木に於てすら自然の力は、人類と何等異なることなし。肥料をあたへずとも雑草は育ひ繁

る。この理より考察せばさとるべき材料は何処にもあるなり。


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諸子に語るも詮なけれど一流界は既に大地の定めなく、恰も空間の世界にして、他の動物植物等もなく一の虫すらあらざるなり。恰も雲霧の中に生存なし居ると想像するも可ならん。是等は八大門に於て示めしあるが故に略すべし。

八大門の中にては永住は許されざれど、是に類したる世界のある事を聯想せば可なり。慈音はこの処にながく住居いたしと語りし如く、斯る世界は他にあるによってなり。 (八大門参照) 諸子の如き肉体を有するものこの処に、至ることを許されざる理も推して知る事を得ん。其は人智進みて全きを得るにあらざれば、斯る処に永住すること難きが故なり。 所謂光明の世界とはこの界を云ふなり。されど是等と雖も神の世界にはあらざるなり。 何となれば斯る処は稔りたるものを納むる倉庫に等しければなり。諸子は赤子の時代より老いて死する迄、同じ衣を纏ひ居るや。 然らざるべし。赤子の衣は赤子にのみ纏はしむれど、老いてその衣を纏ふことは難かるべし。 所謂其と同様にて、魂の衣も従って変化するは、肉体の理と何等異なることなし。諸子の諺にも三才児の魂百才迄と云ふにてはあらざるや。百年経つとも三才児の魂変らぬは、即ち如何に肉体が変化すとも、己は永久己なりと云ふ意味にてはあらざるか。 変らぬものは己なるべし。己にして尤も尊きは己なり。他にはあらざるべし。己を尊はずば、己は転落す。 尊ぶが故に向上するにはあらざるか。 是等は敢てこじつけの理にはあらざるなり。 我を措いて他なしと思へば、大切なるものは我なり。然りとせば全宇宙の悉く我物なりとの思ひを貯へて、広く学するにあらざれば、己の行くべき道は暗からん。暗きところを歩まば危ふし。光明より光明へと明るき処を歩まば、前途を誤つものにあらず。 又転落するものにもあらざるべし。迷ふは暗きが故なり。 さとりと云ふはここにもあるならん。全土を明るくせば迷ふものにあらず。

然とせばさとりとは光明なるべし。 諸子は光明と云へば暗を直ちに聯想するならん。明暗は相対にして絶対にあらず。明暗を伴はざる光明に化せられずば絶対とは云ひ難し。暗を伴はざる明とは何かを考へ見よ。 一流界の人類の如く、男女の区別なきに化せらるる点より考ふれば、その意味は那辺にあるかはうなずかるるならん。即ち活動霊子補


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助霊子が一体化して、不滅母にかへらば、即ちその姿となることの理をさとらば可ならん。 不滅母に化せらるるも、無始終霊子の力あるによってなり。

諸子の肉眼は不自由にして、無限小のものを見るあたはず。 又無限大のものを見ることあたはざるによって、すべてを中間性に委せ、其中間性の中に於て同じ所をさまよひ居るによって、迷ひは聯続してはてしなく、上昇することも難く、又下降して最底の位置にかへることも難し。下降するならば最底限度迄下降せよ。 又上昇せんとならば最高の位置に迄昇るべし。 されど下降せば、下降して最底の位置に到達するは、苦より苦を伴ふ。是に反し上昇の方向に向ふなれば、安楽より安楽へと移されて、知らず知らずの裡に望みの地点に達する事を得るなり。されば苦を重ねて下降せんよりは、安楽の方向に歩を進むるに不如とは考へざるや。我等は諸子を導くに安きを以てせんと考ふるが故に、正しき道を示めし居るなり。諸子は今日の位置迄来りたるは、即ち安楽の経路を辿り来りたるなり。さればこそ動物界より人間界に移されたる喜悦を、感謝して尚も歩みを前途に向けなば如何!。逆行せば転落して又も憂目を見るは、火を見るより明白り。 空しき考へを起す勿れ。 迷はず我等が示めす方向に足をむけ従ひ来らば可ならん。是等に関して学理より語るは安けれども、 我等は学者の位置に置れたるものにあらず。唯諸子を導けよとの使命を旨として語り居るにすぎざるなり。 もし学者にして我等の説を疑ふならば、我等は躊躇する者にあらず。 学理を以て明白に示めさん。 我等は学者のみを導きて、無学者のものをおきざりにする如きことをなさば、我等の使命は全きを得ざるが故なり。

諸子は形を有する混合食を摂取し居るによって、肉体の組織も是等を消化せしめんがために種々様々の具備を有す。されど斯る食を摂取(とる)必要なければ、其具備も従って変化するは当然なるべし。人智進まば肉体の組織も従つて変

化し行くは、生理学上より見るも理論は成立するならん。 現今医学上に於て虫様突起を、不必要のものとして是を切


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