hiro-yuのブログ

ユーさんとやり取りするためだけのブログ

絶対界 第七章 無始終霊子の人間精神に及ぼす関係 p113〜116

ヒロ

や。分時憩はば其だけおくる。 諸子の世界は矢の如き光陰なるが故に、いささかの油断も禁物なり。 無始終霊子によつて造り出だされし不滅母は、多くの線を生みて、その線に従ひて其々のものを作り出して、其が種々様々の有形無形のものを現はし居ることは、諸子も既に認知したるならん。

即ち光明とは線の流れを云ふなり。その線に従ひて上らば、軈ては不滅母に達するは当然なるべし。不滅母より放射し居る光明の線を、名づけて光明と云ふことに対して、諸子は誤解なすならん。 諸子は光明と云はば唯光とのみ考へて、太陽より放射する光線の如きものを聯想するが故に、光明の意味を誤解するなり。 諸子の肉体の中に、無数の筋あるも其は即ち光明なりとの考へより、すべてに対して光明とは、唯光にあらざる一種の線を指すと考ふるも可ならん。八大門に於て見聞したるあまたの線或は網の目の如くなりたる線、是等みなすべて光明にして、その形状が異なると雖もすべては光明に帰すと思はば可なり。光明の中にも暗線黒線のあることに留意せざるべからず。 例へば熱も光明とせば寒も即ち光明の部に属す。例へば火傷すると云ふも、又液体にて火傷同様のこともなさるるにてはあらざるか。火に焼かれ水に焼かるるも、熱寒の結果は同様の姿となるによってなり。是等もみな光明の力なり。故に不滅母は光明の母なりと見るも差支なからん。 諸子の世界にて見るならば、太陽は光明を生む母と見るも可なり。 引力圧力と云ふもみな光明の力なり。その光明が種々様々の変化を与ふるが故に、或は破壊の方向に、或は組織の方向に向ふと雖も、組織も破壊となり、破壊も亦組織となる関係も、従って生ずるならん。故に宇宙は相対となりて複雑化なし居れど、全宇宙の大自然に立ちかへらば、その悉くが同一の結果となる事は、異論の余地なからん。 水は火となり、火は水となることも、敢て不思議するには足らざるべし。諸子は悪魔と云へば何か一種の不思議なる姿あるものの如く感ずるならんも実は然らず。悪魔とは破壊を云ふにて決して形あるものにあらず。悪き行ひをなさば其は悪魔に類すとの意味にして、組織の方向に向ふものを仏として区分したる迄にて、仏と云ふも形なく、悪魔と云ふも形な


-113-


し。唯善き行ひ悪き行ひの区別あるのみなり。決して形を聯想すること勿れ。諸子の世界に於て不善者は悪魔の行ひに属し、善道者は仏の行ひに属すと見ば、其は正しき考へにして特殊のあるものにてはあらざるなり。汝不善を行はば汝は悪魔なり。善を行へば汝は仏なり。現在汝等の世界にはあまりに不善者はびこりて世を害す。 故に汝等の世界は悪魔の世界なり。早く覚醒(めざめ)て善行に立ちかへりなば、軈ては仏の世界とならん。 この説明にて悪魔とは何か。 仏

とは何かの理は察したるならん。善事は行ひ難く、悪には組し易しとは即ち此意味なり。

暗線を追ふて進まば魔道に陥り、明線を追ふて進まば天界に上る。是等は引力圧力の相違にて、結果に於て反対の立場に化せられる故なり。仮に不滅母を光明と見なすならば、活動霊子は光線に属し、補助霊子は暗線に属すと見なさば可ならん。 諸子の世界にて云ふならば、高気圧は活動線に属し、低気圧は補助線に属すと見なして、すべてにあたって処理せば大差なからん。 兎に角光明の線は明線暗線の二つに別れ、更に其が倍加して八線十六線と次第に別れ居れど、帰するところはすべてが光明にして、暗線と雖も用法の如何によっては、明線と同様の作用をなすなり。 その線が一体化して、はじめて正しき光明となる故に、神は悪魔をも根絶し給はざるならん。一個の種子を蒔きて、その種子が二分せらるるによつて芽は出づるなり。即ち二分するは破壊にして是魔に属す。故にこの理より考ふれば組織せんが為の破壊に、魔法を用いて其によって大切なるものを引き上げんとなすによって、破壊も必要なり。この理より考察すればうなずかるる如く完全に組織するは、その姿が変化なしつつ進歩するなり。故に一方には破壊の連続となり、一方には組織の連続となりて、こもごも順序正しく好結果をもたらしあるなり。故に魔と仏と互に歩調を一にして、好結果の方向に向はば悪魔も退くるに足らず。却て是が組織のための方便として用ゆるならば、即ち魔も仏と見なして可ならん。 されど其が反対とならば仏も悪魔となるによって、方向を誤たば転落の憂目を見る。かかる微妙なる所に悟の秘密は、蔵せられることに留意せざるべからず。諸子の世界に高気圧のみにては、凡てのものを生


-114-


存せしむること難し。故に低気圧の必要ありて、斯くは組織せられ居るなり。凡ての色は皆線の流れなるが故に、五色七色九色十二色、更に其がこもごも交はり、或は離れて流れ居れど、その流れには一々特徴ありて、一方にのみ流

るるにあらず。一方が前面的ならば、一方は後方的となるによって、線と線との間に摩擦を生じ、然して其が一種の

波長となりて伝はる。色は光明なり。その光明がはてしなく分解せられ居れど、次第に線を追ふて進まば、活動霊子

線補助霊子線のところに達し、其が全く結合して始めて不滅母霊子線に到達すと思はば可なり。 斯くの如くの法則によって宇宙は組織せられたりとせば、電気の根底は活動霊子補助霊子の作用によって、発生すると見ることを得るな

らん。

電子とは即ち不滅母なりと云ふも差支なからん。是等は学理によって、軈ては発見する時節もあらん。 又是等に関する詳細は教主によって詳しき教へを受けよ。兎に角絶対性原理の源は、即ち不滅母霊子を基本として考ふれば、大自然の道理は従つて判明するならん。絶対性より見たる神と、相対性より見たる神とには、是又相違あるなり。 我等が語る大自然に順ぜよと云ふことは、即ち絶対性の神に従へよと云ふことなり。 相対性の神ならば、其には甲論で駁する如き過誤を生ず。故に絶対性より考へて然してのち相対性の神を見るならば、正しき信仰は得らるるなり。大自然とは絶対の神を指すならば、是に順ずると云ふは即ち絶対性信仰なりとの結論となる。 諸子はこの点に深く思ひを致して、考慮して信仰を厚うせよ。信仰とは神の命を奉じて是に順ぜよと云ふ言葉に、帰せしむることを得るなり。

我もなく彼もなき信仰、即ち神もなき我もなき、所謂対象物のあらざる神我一体の信仰ならざるべからず。諸子は思ひ出して神を拝す。それは相対自然なり。常に神我一体となり居らば拝みの要なし。諸子はこの理を知るや。ものを知ると云ふは心のはたらきのみにして其が魂に迄、徹するにあらざればさとりとは云ひ難し。 思ひ出すと云ふは心の働きのみにて、魂の働きにあらず。心にて神を拝み、心にて神に接しあるによつて、一時的の交はりにすぎ


-115-


ず。 されど其が魂に徹すれば思ひ出したり、又忘れたりするものにあらず。 常住坐臥神と共にあるなり。故に忘るることなければ又思ひ出すの要もなからん。 是を神我一体の境と云ふ。 然して其が表面に通ずる時は同じ相対性にてありながら、神の力は心にもはたらき、又我の力は心にもはたらく。 神我一体となりて心を動ぜしむるによって、同じ相対となりても、絶対の心と相対の心とには、はたらきの程度によって相違あるなり。 自然の道理はすべてかくの如し。是を広く万般にわたって考究せば、同じ自然の如く思はるる事柄にも、従つて趣きを異にする点少なからざるべし。 相対なるが故に、自然を克服したりとか、自然を征服すると云ふが如き言葉を口にするなり。其が絶対性より見るならば、克服したるにもあらず、征服したるにもあらず、即ち自然に順じたる結果となるなり。 諸子の信仰はすべて心の信仰にて行じ居るが故に、さとることを得ざるなり。其が魂の信仰とならば、彼にも通じ神にも徹す。心の信仰は迷ひを深くするのみにて、彼是と思ひ煩ひの生ずるによつて唯動揺するのみ。徹することは難し。 故に魂に通ぜしめての信仰にあらざれば、正しきさとりは得られざるなり。前書にも語りたる如く 「今聞きてすぐに忘るる身なれども、南無阿弥陀仏残る嬉しさ」とか云へる信仰者の例話を掲げたるは即ち是なり。 何事を聞きても心にのみ聞かせ居らば忘るるは当然なり。 されどその中心となるべき阿弥陀と云へるものを、己が魂に迄通ぜしめあるによつて、其は残存してはたらく。 他の事柄は心に任せあるが故に、飛散して影なし。 故に諸子は行ずるならば中心となるべきもの魂に及ばしめ、余事は心に任せおくべし。ここに注意すべきことあり。其は他ならず。悪きものを魂に迄徹せしめおかば、其が残りて悪魔となり、或は鬼ともなる。然る時はその信仰は、転落信仰となりて、悪魔の囚人となる他なかるべし。 悪魔が魂に徹すれば、従つて心は悪魔の働きをなすことは云ふ迄もなし。故に心せざるべからず。我等の語る迷信とは即ち退く信仰を云ふにて、正信とは前進に向ふ信仰を云ふなり。故に退歩するは迷信にして、進む

は正信なりと思ふも可ならん。信仰が魂に及ばば、即ち神我一体となるによって、神は汝をはなるるものにあらず。


-116-

×

非ログインユーザーとして返信する