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絶対界 第七章 無始終霊子の人間精神に及ぼす関係 p108〜112

ヒロ

くは語りしなり。其は兎に角、かの修行者が悔悟したる事柄に対していささか語らん。此例話を諸子は唯お伽噺の如く聞きのがして、斯る事はつくりばなしの空想より出でたるものとして放棄なすならん。 我の語らんとする処はその法力が果して、なす事を得るやに関して語らんとす。 世したる真の行者はあまり魔法を用ゆるものにあらず。行すぐるれば自づとそなはる徳を有するに至つて、その眼識が非常にすぐれ行くことは、即ち行の徳なり。 習慣性の現はれにてその技の巧みに、化せられ行くことは諸子もうなずくところあるならん。 何事にもあれ一つの事を熱心に行へば、技は巧みになるによってなり。 先にも語りし高慢になりたる行者は、技にのみ囚はれて技の使用法を知らず、 技によって徳を得ると云ふことには無関心にして、唯技にのみ誇り居たるが故に、一方的となり、大切なる霊の修行をおろそかになしたるが故に、如何に技は巧みなりとてその用法を広く用いる術を知らざるに反し、山上にある仙者は霊の徳によって受けたる行力なるが故に、彼とは格段の相違あるなり。 はじめ行者が山上に至つて仙者と技比べなさんと語りたるを、山頂の仙者は霊通によって是を聞きて、そのそなへをなし居たるとは行者は知るよしも無りしなり。故に彼麓に至りし時は既に仙者の囚人となりて、仙者より発する暗示作用は、悉く彼を犯すに至りたる迄なり。もし何も知らざる第三者が、 彼の挙動を眺め居りしならば、定めて滑稽に思ひたるならん。 何となれば行者はある地点迄、上りては下り、上りては又下り、周囲には何事もあらざるに斯る事をしばしば繰り返へし居たらば、第三者は定めて滑稽に感ずるならん。 然して幾度か斯る事を繰りかへしてのち、上るを止めて里の方に馳せ返へりたる迄なり。所謂催眠術にかかりて、はじめて我家に帰りたる迄にて、何等不審することはあらざるなり。 所謂行者は仙者より催眠術にかけられたる迄にて、他より見る時は滑稽なる行ひをなし居たるにすぎざるなり。前書にも語りし如く暗示の力は、斯くも被術者に対して微妙なるはたらきを感ぜしむることは、既に語りたれば 諸子は承知なし居るならん。行者の行ふ術とはすべて是等の類にて、別段不思議するに足らざるなり。諸子は狐狸に誑らかさるるとの思ひ


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は、伝統的暗示を受けて其が潜在なし居る為に、肉体上に変化あらば、その意識がはたらきて己が己に誑らかされ居ることは、前書にも語りし如くなり。故に修養修行は精神に及ぼす時、一種の暗示となりて残存し、其が何かの場合に大なるはたらきとなること多し。 故に誤りたる悪戯事を心中に貯へ居らば、其が却て身を亡ぼす結果となるやも計られざるなり。されば正しき道を歩まずば危ふしと云ふことの理も、この事によって理解することを得るならん。

小児を育つるにも、かばかりの事をと思ひて悪戯事を教ゆる勿れ。小さきことと雖もその蒔きたる種子が成長すれば、後に至つて如何なる結果を見るやも計られざるが故なり。 母の胎教と云ふは即ちこの理あるが故なり。故に妊娠中の婦人は心せざれば、子孫に及ぼすことに留意して、身を慎まざるべからず。絶対性原理が斯くの如き程度迄、枝葉は延び来るが故に、その現はれは複雑に見ゆれど、根よりただし来らば明らかにその理を知ることを得るなり。

我と慈音の間に於て相互一種の波長が通じ居るによって我言葉は彼に感じ、 其が慈音の口より欣情に及び居る迄にて、是等の理も諸子には神懸りとか、霊感とか、一種の何か潜在したる不可思識なる感じを以て見るならんも、事実は発電受電の関係にて、神の声にも仏の声にもあらざるなり。 現在の学理に於ても既に是等は証明せられつつあるにてはあらざるか。諸子は機械によつてならば信ずることを得れど、機械なくしてはなるものにあらずと考ふる如きは、過誤なり。機械も諸子が智識によって作りたる迄にて、是に電波を与へずば、機械は何等はたらきをなさざるべし。其と同様にて我と慈音が一種の電波によって共鳴なし居るにすぎず。もし欣情がこの波長をとり入る、機械となり居るならば、我声は慈音と欣情に同時に感受せしむることを得るなり。 我かく語らば何故欣情にも通ぜしめざるやとの疑ひをおこすならん。されど欣情には未だその機械が感受する迄のところまで、組織せられざるが故なり。所謂組みたてかたの相違あるのみにて、波長が完全に整ひあらざるが故なり。 さりながら何日かは完成する日も遠きにはあらざるべし。余事は兎に角人間の肉体にはすべて、発電作用受電作用のそなはりあれど、其が正しく組みたてられ


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ると然らざるとの相違にて一様ならざるなり。個性と云ふは即ち波長の相違を云ふにて、学者には学者の波長あり。商人には商人の波長ある如く、貧富貴賤もみなこの波長によって定まると云ふも、敢て過言にはあらざるなり。

一本の木を伐りて余りにふし多ければ、其は表面に現はさずして、隠れたる所に用ゆるならん。又優れたる木目のものならば、表面に現はして人の眼を喜ばす処に用ゆるならん。是等は個性にして、即ち分によって定めらるる如く、人も亦是と同様の関係あるによって、相違あれど任務と云ふに変りたることなし。 ふし多き木は隠れたる所に於て、任務をなしつつあるなり。 人と雖も同様なるべし。敢て悔むには足らざるなり。木は木としての任務あり。人には人としての任務ありて、其分に従ひてはたらき居らば、其にて使命を全うしたるなり。 銘木も邪木も、火に焼かるれば悉く灰となる。人体も然り。ここに大自然の何ものか大切なるものの、含まれあることに心附くならば、求めて得られざると云ふことなしとの考へは、涌き出づる筈なり。我斯る言葉を曖昧に用い居るため、諸子はこれを聞きて、何かひき入れられて聞き居るにてはあらざるか。何となればこの言葉を聞きて意味を解することあたはざるが故なり。 我、故意とこもりたる言葉もて、諸子に語り居るが故に、慈音すら何故にかかるまぎらはしき言葉を発するやと、我に詰問なしつつあるなり。されど我は是に答へじ。この言葉に対して正しき批判をなすことを得るや。もし文学に秀でたる人ならば知らず、普通の文学者ならば苦笑して見聞することをなさざるべし。右すると云へば諸子は左するとの理窟をならぶるならん。されど今語り居る如き曖昧なる言葉に対しては其意味を解せざるが故に、是に理窟をつくることもなし難かるべし。地中の中心深く埋没せる鉱石は、磁電によって外部より是を感受することを得る

ならん。汝の心を否魂を機械なくして見ることを得るや。機械によって見るならば、或は一部分を発見することも難きにはあらざるべし。されど機械なくして汝心より、他の人の魂を完全に見ることを得るや。 我等に言はしむれば機械は不完全にして見ることは難し。されど人の心は機械より優れたる働きをなすによつて、他の人の魂と雖も完全に


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見る力はありと断言して憚らざるなり。絶対性原理とはここにあるによってなり。諸子はその完全なる具備を有し居るに不拘、修養修行の道を等閑にして空しくその具備を棄し居るによって、心の機械が完全に組織せられざるなり。 心の機械を完全に組織せんがための修養修行なりと考へて、その方向に向はずば野育となりて八方に拡がりて枝葉のみ繁りて、幹は伸びざるが故に、軈ては其迄にて枯死するの他なかるべし。 相対性にのみ囚はれて、蛇の歩むが如く、曲行なし居りては、通ずるものにあらず。 矢弾丸の如く直く正しき方向に、一直線に的をねらひて、進まんことに努力せられよ。

我かく語らば諸子は云ふならん。光は地上を照すと云へども、空間を通過するには一直線ならずして、屈曲しつつあるにはあらざるか。然りとせば自然の力は一直線にては通ずるものとは限らざるべしと。然り我の語らんとする処はここにあるなり。光が地上を明らかに照する一直線なるが故に、全体が照らされつつあるにて、 諸子の眼に見ゆる光が屈曲せらるる如く感ずるによって、すべてのものを明らかに見ることを得るなり。 もし其が一直線の如く諸子の眼に映ずるならば、諸子の眼は失明するの他なかるべし。 空のはたらきが光の直光を受けてその間に波動を起してゆらめきつつあるによって、地上の光は分解されて全きを得るなり。もしこの空間なくんば一部分のみ強く輝きて、凡ての生存は保たれざるべし。 是等の事柄は学者によって学ばば可ならん。 学理にて凡ては研究せられ居るによつてなり。兎に角光は直光なれど空間の波動によって、ゆらめきつつあるにすぎずとのみ語りおくべし。

是等は絶対自然より生じたる、相対自然の法則なるが故なり。絶対自然の中には引力圧力共に同化したる作用を有すれども、其が相対に化せらるれば分解して、引圧両道に区分せられ行くによって、すべては保存せらるる事は語る迄もなからん。 引力のみが相互に偏れば衝突して破壊となる。圧力に於ても同様の関係となるは、諸子もよく知るところならん。わづかなる諸子の住めるところにすら、磁石の要をなさざる地点もあるを見ても、この理はうなずか


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るる筈なり。 水が高きより低きに落るもこれ引力と圧力の両道の現はれに他ならず。もし一方のみに化せらるれば流れとはならずして、一時に溢れ行くの他なかるべし。例へば一個の石を高き所より転ばす時の速度と、空間より地上に抛げ落す時の速度とには、相違あることを諸子も知るならん。 是等は引力の相違なるが故に、数学にて計算することを得るなり。されど引力のみが一方的ならば、決して計算せらるるものにあらず。即ち引力の裏面に圧力の程度が伴ひ居るによって、通算することを得るなり。もし其が圧力のみ或は引力のみの一方的とならば、その計算は非常に困難なるべし。諸子の世界は相対なるが故に、引力の裏面には圧力が加はり、圧力の裏面には引力の加はりあるによつて、時間空間数によって、すべてを計算し得るなり。故にこの計算が成立する間は、諸子の世界は亡びざるなり。

諸子の世界も軈て時到らば、計算することの不可能となりて、果は亡び行くなり。故に諸子の世界の亡び行く程度を、数によって計算するならば、地球は今後幾年かに於て亡ぶると云ふことの理は、明らかに知ることを得るなり。

又太陽と雖も同様にて、是等も数によって計算することも不可能にはあらざるなり。然しながら全宇宙の亡ぶる計算はなすこと難し。 何となれば始めなく終りなければ、数学にては如何に計算すとも成立せざるは当然なり。いささか学者めきたることを語りたり。 かかることは我等の分野にあらず。 唯相対と絶対の区別あるによって、その意味を知らしめんがために語りたる迄なり。 よって話をもとにかへすべし。

さて二流界の人類ともなれば、既に人間としての最高位に達したるに不拘、尚も進んで一流界或は神界に迄、向上せんことに努力しあるが故に、いささかの間も油断なく努め励みて怠らず、修養修行に邁進しつつあるなり。諸子の世界の如く一分一秒たりとも安らかならんとして、空しき方向に眼をむくる如き、怠惰者は一人としてあらず。 故に向上の速度もきめて速し。諸子は人に生れて人の道を知らざるが故に、その日その日を空しく送り居るなり。 天界へ上らんとするは、人の道を早く発見して進む者こそ、優れたる者として、大なる神の恩恵を受くるとは考へざる


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