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絶対界 第九章 不滅母霊子と無言詞の関係 P156〜161

所謂声なき声、音なき音、即ち無声音無音声と云ふは是なり。諸子は常に種々様々の事柄を感じ居るは、すべて心のはたらきにして空間にのびたる枝葉が、風によつて動揺なしつつあるに他ならず。 是を心のはたらきと云ふ。枝葉は心に合ひ、幹は魂に合ひ、根は霊に通ず。然して修養修行は此理に基きて工夫せば可なり。 枝葉は風のまにまに動じ居れど、幹は強風にあらざれば動ずるものにあらず。然して根は、幹、倒るるにあらざれば、変化せざるは諸子もよく知るところならん。人の心魂霊はかくの如き関係あるによって、その心して修養の法を自得せばうなずくところ多からん。柳は風のまにまに従ひて逆らはず。風なければ平然たり。幹是に従ふ。根も然あるなり。諸子の心は柳の如く風にまかせて逆はずば、幹を倒すことなかるべし。 名づけて是を柳の修行と云ふなり。是等の法は行者が常に守り居るところ又行ひ居るところなり。

諸子の語るを聞けば宝とは外部より内部に通ずるを云ひ、力とは内部より外部に通ずるを云ふと称し居れり。故に宝は天の恵みにして、力は地の恵なりとの意味を語り居るならん。然りとせば宝は空にして、力は実在の関係の意味に通ずるならん。この言葉より考察する時諸子に与へられたる魂は、宝にして、肉体は力なりとして工夫するも可ならん。 力と宝、何れが尊きや。云ふ迄もなく魂の宝は尊とかるべし。 肉体に宿りて初じめて宝の力が現はる。故に魂は無言詞に、或は不滅母に帰すると云ふことに対しても、この言葉より推測せば自づと自覚することを得ん。魂は天に属し、肉体は地に帰す。 魂と肉体の両々相まって初じめて、人間としての任務ははたさるるなり。 天の宝、地の肉体、是をつなぐものは心のはたらきなるべし。 心正しければ人道は全し。 宝と力の二者によって心を清むれば、身心魂の発育は得られる理も推して察することを得るならん。 身心魂三味一体となりて、不滅母の働き加はるによつて、はじめて身心魂霊の四つは完全に一体となる。身と心は力なるによって軈ては亡ぶることもあらん。 されど魂霊は宝なるによって天に帰れば、亡ぶることのあらざるは是又当然の理なるべし。即ち空を空にかへせば、空となりて尽き


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るところなく持続し行くは、大自然の法則なるが故なり。 諸子は深く追究して或ひは疑ひ、或は信ずる等のことをなさずとも可なり。亡びざるものは亡びざる姿に、神は作りあるが故に、なさんとしてもならず、ならざるやうになさんとするも亦不可なり。自然の法則は曲げんとして曲げらるるものにあらず。又倒さんとして倒さるるものにもあらざる故なり。空しき方向に思ひをはせて、徒らに光陰を空しくするの要もなからん。唯空にかへれば永久不滅なりと思ふだけにて止め置かば其にて可なり。死せんとして死ぬことあたはず、生きんとして生くることあたはずば其は空し。死するにあらずして、 生きるなりとの思ひを貯へよ。然して生きる方向に足をむけなば、その道こそ正しきなり。諸子は此理を知るや。

諸子の考ふるところの生死は肉体の不滅、滅を聯想するならん。 肉体は限度ありて時至らば捨てざるべからず。是は諸子のよく知るところにして当然なるに不拘、生死と云へば肉体にのみ心を置くは、是末だ正しき生死の方向に思ひをむけざるが故なり。我等が語る生死とは又別個のものにて、所謂空の生死を語り居るなり。末熟の魂をそのままになしおきなば、魂としてのはたらきをなすことあたはず。魂としてのはたらきをなす事を得ざれば、其は死なり。故に魂としてのはたらきを完全ならしむる方向に努力するを、生にむくると云ふことにて、即ち魂を完全に稔らせよと云ふに他ならず。 名づけて是を生の方向に向ふと云ふなり。

魂に生を与ふれば、無言詞は従つて有言詞に化せられて働く。 無言詞を理解する魂にあらざれば、神の教へを知ること難し。既に一流界に入らば最早言葉の必要はあらざるなり。言葉なくして凡てを知る。故に全宇宙の総ては解せざることとしてあらざるなり。語らずしてすべてを知るにあらざれば、神を知りても何等の価値もあらざるなり。語らんとして語ることを得ず。されど神はその語らんとするところをよく知る。一流界に居を占むれば、すべては斯くの如き有様なるによつてなさんとせばすべては成立す。 全宇宙にまたがりて己が心のままにすべてに通じて行ふこ


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とを得ば、何等の不自由を感ずるものにあらず。 是真の自由と云ふなり。 自然とは無言詞の世界に入るにあらざれば、正しき自然を知ること難し。大自然の妙味はここにあるなり。

諸子は肉体と云ふ機械ありて、其機械をはたらかせずば、何事をなすにも不便を感ず。一流界に上れば、すでに肉体などの機械を用ゆる要もなく、すべては意のままになすことを得るなり。 斯る事のなし得らるるも是皆、神の力によってなりと知らば、神の力の如何にすぐれたるかを知るならん。然してその力を有する神とは、何なるかも知ることを得るにあらざれば、神に接することの難きも推して知る事を得ん。 ひるがへって諸子は己に与へられたる肉体を、此理より更に新らしく考へ見よ。神ありて力、力ありて無言詞、無言詞より有言詞と成長し来る時、有言詞をは働かせんとするには、何か具備あるものを造らざるべからず。 無言詞を有言詞に化せしめて、其を以て世に知らしめんがために、諸子の肉体と云ふ機械を造るの必要に迫られたるにてはあらざるか。 有言詞に化せしめて、其によって種々様々の事にあたらしめんがために、肉体と云ふ機械を用い居ると知るならば、有言詞をはたらかす機械は所謂諸子の肉体なるべし。 所謂全宇宙の神秘を、すべて有形のものより無形の方向にむかはしめんがための用具として、 諸子の肉体は地上に現はされたるなりと知るならば、すべてのものをその方向に導くためのはたらきをなさずば、機械としての任務は、果されざることの理は、推して知ることを得ん。其機械を運転せしむるものは、即ち魂なり。その魂を完全無欠のものになさざれば、正しき機械は運転すること難からん。 魂の働き優るるに至らば、肉体の機械は如何なるものに変化すとも、自由自在に運転せしめて、更に其より其へと事にあたって、適宜に任務をはたす事も容易なるべし。 十流界には諸子の如き肉体にても任務ははたさるれど、すでに九流界以上とならば諸子の如き肉体にては、任務をはたすこと難きが故に、其々機械の構造を変ゆるの必要に迫られて、次第に変化なしつつあるなり。最後に至つて一流界ともならば、最早斯る機械を有せずとも、すべては、自由に任務に服することを得るによっ


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て、ここに至ってはじめて、真の神務に順ずることを得るなり。是を生より生に進むと云ふなり。故に諸子には諸子の任務あり。此任務を粗略にして機械の故障ある時は、更に又新らしき機械を造りて、其を運転するにあらざれば、任務は果されざる事の理も推して知ることを得るならん。是を天の使命と云ふなり。天の使命をはたされずば、幾度となく新らしき肉体の機械を備ふるの要らん。この事をよくよく覚られんことを!、此理を知らんとならば「未知日記」全巻を参照せよ。

諸子の肉体は形の上に於てさのみ異なるところなけれど、仔細に検討すれば体質に於て異なるところあるならん。体質の異なるは機械の構造が異なり居るによって、其はたらきの点に於ても異なることは云ふ迄もなし。 是を個性と云ふなり。 一般諸子の魂は、機械の運転主なるによって、魂と云ふは皆同一なれど、 任務の如何はすべて機械による。故に機械の構造が任務を支配すと思はば可ならん。労働するものの肉体は、力量なくしてはつとまるものにあらず。知慧の労働者は知慧の力量すぐれずば、肉体のみにては、要を弁ずることあたはざるならん。 肉体の力量そなはり、知慧の力量そなはるものならば、両道に通じてのはたらき全きを得るは当然なり。されど、諸子の世界の人類には、斯る両道備りたるもの少なからん。智能すぐるれば肉体の力うすく、肉体の力すぐるれば、智能はうすし。 是等は一般の法則となり居るならん。是を我等に云はしむれば両道全きもの一人としてあらざるなり。何となれば諸子の世界の自然は斯るところに欠陥のあるによつてなり。諸子の世界の人類の中に於て片手に千貫の重きを持ち、片手に百万の人を手なづくる人材ありや。我未だ斯る人のあるを聞かず。知慧によつて一界を治め、力によって一界を支ふの人にあらざれば、両道全しとは言ひ難し。既に、二流界の人類ともならば、 小児と雖も斯る事は容易のわざにて敢て不思議とも感ぜざるなり。 我、斯る事を語るとも諸子には唯苦笑するの他なからん。 然して我等の説を嘲笑する他なかるべし。 我等は大言壮語するにあらず。 至つて微々たる事を語り居るにすぎざるなり。 全宇宙は広大な


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り。諸子の心は余りに小さし。今少し活眼を開らきて全宇宙の方向にむけよ。井中の蛙となり居りては、人類の向上望はまれざるべし。

一個の投石は軽くとも水底に没す。万人支へ難き船は、水上をはしるにてはあらざるか。宇宙の隕石は落下し来りて地上に墜つ。然るに天空に散在する数多の星は、空間に浮び居るにてはあらざるか。是みな法なり。汝等の考へはすべて水面に投石するに等し。古代の人に対して汝等の世界より、月の世界に旅行すると語るとも解する人あらざりしならん。されど現在の人類は最早是等に対して不審するものもなかるべし。 地球より月界迄わづかに九万六千里と計算なし居るにはあらざるや。法を以てすれば百万里遠からず。されど汝等の肉体にて、機械なくしては一里すら飛行すること難からん。すべては法なり。すべては知慧なり。知慧によって法を知るにあらざれば、人類の向上発達は望まれざるべし。先にも語りし如く九流界上流の人類は、隣国の小児と小児同志が朝夕交はりて遊び居ると聞かされなば諸子の世界の人類は疑ふ者多かるべし。されど事実に於て彼等は法を知り、其を応用して交はりをなすことを敢て奇とせずたはむれ居るなり。まして二流界一流界ともならば、全宇宙を我物として、自由自在にかけめぐるも、敢て意とするには足らざるならん。 是等は諸子の科学の法則より順次考究すれば、その理は知ること難きにはあらざるべし。知すぐれて大自然を悟り、その大自然に有する法に合ふ道を択ばば、すべてはなしてならずと云ふこ

となし。ならざるは知慧なきが故なり。 全宇宙にはすべてに関して材料は、完全にそなはりあるなり。 法によってその用法をあやまたずば、何事も成就する事疑ひなしと、我等は断言して憚らざるなり。病苦を治癒せしむるに対しても薬石のそなはりが存し居るに不拘、知慧なきが故に諸子は是を知らず、平癒すべき、病気をも死に至らしめ居るは、実に遺憾なることなり。如何なる病苦に対しても、苦みをまぬがれしむる法もそなはりあるなり。されど諸子は是を知らざるのみ。 みがきて知慧を求むれば、その材料は悉くそなはりあることに留意せよ。是等はすべて不滅母の


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そなはりより、次第に拡張して研究すればすべては明らかとならん。

形あるものには形を以てし、形なきものには形なきものを以てすれば、法は得らる。不滅母霊子の研究に迄、科学の力をのばしなば、すべての道は開らかれ、すべての法を案出すること難きにあらざるが故なり。 言葉なき言葉を聞くものは誰ぞ。例へばこだま会に集り来る人達の肉眼(め)は、慈音に注がれ居れど、彼等の心眼は、慈音に来る円海を、見んとなし居るにはあらざるか。耳に於ても然り。声は慈音の口より出で、彼等の肉耳に通じ居れど、その言葉は円海の声として、心耳に、聞き居るにはあらざるか。肉耳と心耳の相違はここにあるなり。 肉眼心眼は又同様なり。 心眼を開けよと語り居るに対して、諸子は何か他に肉眼以外のものを発見せんとして、却て心眼を閉ぢ居るなり。法とはむづかしきものにあらず。今も語りし慈音の譬喩の如く、こだま会の人々は心眼肉眼を同時にはたらかせ居るによって、その区別は脳裡に映りて、円海の講義を聞きとり居ることに心づかば、心眼心耳とは別段変りたるものにあらざることを悟るならん。

諸子はよく如何にすれば、心眼は開らかるるやとの質問をなして、新らしき法を他によって求めんとなし居る如きは、心眼を開くにあらずして、却て心眼を閉ぢ居る結果となるなり。無言詞を聞く耳の理も、従つてこの理より考察すれば自づと悟ることを得るならん。 徒らに心を労して他によって法を求めんとすることの考へを捨てよ。 諸子には神より授けられたるすべての材料が整備ひ居るなり。故にその組みかたを正しく用ゆれば、はたらきも従つて是に伴ふ。然して法も自づと案出せらるるは是すべて、神の恵みに帰す。無言詞を聴かんとして、神を拝むは法の極意なり。むづかしきものにあらず。諸子は薬を調合するに何々と何々を化合して服用せば、何々の病苦は治癒すとの法を知るならん。 其と同様にて拝みとは物と物との化合せしむる法にて、所謂病を知って薬を説くに等し。

諸子は何か他に求むる力の存在するとの思ひにて拝みをなす故に、その拝みは通ぜざるなり。 何となれば拝みする


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