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絶対界 第三講 自然と自由の関係について P208〜215

第三講

自然と自由の関係について


諸子は神を知りて神と共に生活する事あたはざるは、即ち自然の道理を体得なし居らざるが故なり。 神の存在の有無を論ずることを暫く止めよ。 兎に角自然と云ふ事に対して、自然は神なりとの思ひを抱きて日々の生活をこの自然に任せてつとめする事に努力せば、その姿こそ即ち神と共に生活し居ると見なして可ならん。 又其が神の作られたる自然に従ふと思ふもよし。すべてを自然に任すと云ふは一切悉くを、神に委ねたりと思ひて己が心を兎や角と迷はすることなく、唯なるがままなさるるがままに任せて、己が任務のみ粗略にせず一路邁進することを、神と共に生活なし居ると考ふるも可なり。諸子は神は神、生活は生活として、日々を過し居るが故に、自由のなわめに縛ばられて苦み悶え居るなり。 従来より語り来りたる如く、すべてを神に委せよと教へしは是なり。 神を知らずとも神ありとして其に己の運命を任す底の心がけあらば、其にて神との生活はなし得らるるならんとの思ひを貯へよ。 泰岳が語りし如くすべてを捨てて神に従へよと語りしも是なり。 泰岳は一椀の食をとるに対しても己のみ喰ふにあらず、神と共に食するなりと聞かされしにてはあらざるか。諸子は唯訳もなく喰ふによつてその食は死したる食となるなり。 神と共


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に食するが故に、その食は活力となるなり。故に真の自由は得らるるなり。自然に順ずるが故に初めて自由は得られ、何処に到るも心のままになりて不自由を感ずることあらざるなり。 諸子は自由を得んとして、却て自然より遠ざかり不自由の網にかかりて悶え苦む。心せざるべからず。

諸子は我儘気儘より意の如くならざれば、不自由なるものとして世を呪ふこと多からん。もし諸子にして神と一体化して生活し居るならば、斯る誤ちたる考へは起すものにあらず。 我等は諸子に神は自然なりと思へよと教へしは此事あるによつてなり。 例えば人と人と互に約を結びて作りたる法則に対してすら、神は其法則を曲げ給はずと語りしは、諸子の知るところならん。人間同志の定めたる法律と雖も、その法律は神としても曲げ給はざるを見ても、法則と云ふものの如何に大切なるかを覚らざるべからず。人と我との間に於て約を結び是を違ふ如きは、法律を守らざるが故なり。人には人の法律あり。 神には神の法律あり。人の法律と神の法律とには隔りありと雖も、法律の大切なるは此理に徹しても明らかならん。 諸子は他人と約束なしてをきながら其を守らず、違約して後に一言の言葉にて詫びる如きは是自然の道理を知らざるが故なり。 九流界の伝説に婦人が男装して男界を犯したる例話を、諸子は記憶し居るならん。神はその男装せる婦人の法律にそむきたるに対して、法律を守らせんがために、女子を男子に化せしめたりと云ふにてはあらざるか。是等は神にしてなし得る事なれど、法律の重きを覆すことをなさざる神の思し召しこそ尊しとは考へざるや。もしその婦人がいたづら事の為にかかる事をなしたならば、神は是を救ひ給はざりしならん。 彼の婦人は夫との約束を守りたる事を諒として、神は救ひ給ひしなり。 法律(起きて)と云ふはかくも尊し。然るに諸子は法律を破りて平然たる如きは、是神と一体化したる生活を営み居らざるが故なり。 神我一体の生活をなし居るものならば、自然の法律は彼是考へ居らずとも神はよく知る故に、 我如何なる行ひをなすとも神は咎むるものにあらず。 されど神とはなれて生活なし居らば、神は過誤を咎め給ふが故にここに至って不自由を感ずるなり。我儘気儘の行ひを


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なす人は神を離れ居るが故に不自由を感ず。されど神と一体化して暮し居らば、かかるわづらはしき苦みは、 清除せられて真の自由は得らるるなり。自然は法律なり。法律なくして自然は成りたつものにあらず。神は自然なり。 自然なるが故に法律を法として作り給ひしなり。

諸子は恰も是等を具備する僧に等し。 名づけて是を仏法僧の三宝と見るも可ならん。仏は神なり。自然は法なり。是を用ゆるは僧に相当する諸子なるべし。故に空なる神を己にとり入れて我ものとなし、然してそのものと我と一体化して世渡りし居らば、 決して誤謬を犯すものにあらず。 所謂神我一体の生活する事によつて、ここにはじめて真の自由は得らるるなり。 諸子は神を念ずるは外を拝み、然して生活は我のためなりと考ふるが故に、一体化することを得ずして、常に二つの道を交々歩み居る為、如何に専心万苦すとも望は叶はずして、空しき世渡りをなし居ることに早く覚醒めよ。

諸子の諺に二兎を追ふものは一兎を得ずと云ふ教へのあるならん。是等の言葉は自然を教へ居るなり。 諸子は二兎を追ふが故に一兎をも得られず。 手を空しくして帰るの余義なきに至る。 是自然に順ぜざるが故なり。 泰岳が一腕の食を神と共に食するが故に、他人の半分喰ひて足ると教へ居るにはあらざるか。 泰岳は無学文盲の者にて、世間よりは愚物と嘲らるるに不拘、天界を明らめしも、神と一体化なしたる生活をなしたる結果に他ならず。もの云はぬ錯杖を招けば彼に来る。 諸子は斯る事のあるべき理なし。若しありとするならば何か其に相当する種子仕掛けのあるならんと思ふならん。然るに彼の師は徒弟に教へて、彼は法力を用い居るにあらず。又是には何等の種子仕掛けもあらざるなりと読めたりと云ふにてはあらざるか。 諸子にはかかる事のありと語るも到底信ずることあたはざるならん。たまたま信ずる人ありとせんか、其人は泰岳は神業を用いたるか、或は泰岳は、 神なるべしとのみ語るの他なかるべし。

されど円海は事実に於て泰岳の行ひを見て驚嘆する他なかりしなり。 我かく語るとも諸子は事実に於て見聞せ


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ざる故に、到底この言葉をすら信ずること難かるべし。 ものの理をきはむればかかる事のなし得るは当然にして、決して不思議するに足らざるなり。其は理を知らざるが故なり。

諸子の世界に不思議なる手品師が、種子仕掛ある方法によって諸子の眼をくらますにすら、その法を知らざる間は不思議なりとして感嘆する患者は多し。法を教を教へられてはじめて合点する如きは、諸子の知慧のはたらきが斯くもにぶき故なり。泰岳が円をかきて線をひき其を枕にあてて眠ぬる時は、己が欲する知人に対面することを得との呪(じゅ)を教へたり。我等は面白き教へなりと思へど諸子には其理を知らざるが故に、唯不思議として聞きたるのみならん。

泰岳は自然を尊び自然を認知なし居るが故に、斯る事を伝ふるに対しても、決して偽はりとは思はざるなり。さればこそ彼は慈音の耳をふさぎたるなり。

即ち慈音は大自然と小自然の中間に立ちて行じ居るによって、初心者の行とは大に異なる事を知りて、慈音の行に妨害となることを知るによって、斯く取り計らひたるなり。 こだま会の会員は初心者にしてあるが故に、斯る法を伝へて其によって大自然を知らしめんとして、斯る簡単なる法を伝へて其によって霊の偉大なるを知らしめんと計りたる迄なり。智者には智者に対して、学者には学者に対して、其々の分度に応じて導きをなすにあらざれば通ぜず。 人類の程度に応じて、適宜の方法を以てするにあらざれば、案内することは難し。 宗教者の教へにも斯る底の方法が設けられありて、教化なし居るにてはあらざるか。 所謂人見て法を説けの譬喩あるによっても知らるるならん。 方便とは即ち其人々の程度に応ずる実なるべし。余事は兎に角神と我と共にありとして行ずることの大切なることは斯くの如き関係あることに留意せよ。神と共に一路を歩まば淋しくはあらざるならん。仏書の中に「無常忽ち到る時は国王大臣妻子珍宝助くるなし。 唯一人黄泉に赴くのみなり」と云ふ言葉あるを見る。唯一人黄泉に行く底の行をなして何の益かあらん。一人行くが故に迷ふなり。 我等に云はしむれば行じて、神と共に行けよと教わるものなり。 淋しく一


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人歩み居りては迷ふは当然なり。神と共に行きて迷はぬ処に到るべき修行なしては如何?是は肉体滅後の事にて語るも詮なし。されば肉体を有する間も神仏と共に生活なし居るならば、肉体滅後の憂ひはなかるべし。 宗教くさき教へなれど敢て宗教を意とする勿れ。

今も慈音は隣家の婦女に対して語り居るを聞くに、若き頃は決して生死など考ふるものにあらず。年老ゆるに従ひて生死を感ずるに至るは、即ち稔りが得られてはじめて生死を知るなりと教へ居るを聞きたり。恰も米の苗は如何なる実を結ぶかは知らざるに等し。老ゆると云ふは稔りに近づきたるが故なり。 若き頃は、寺参詣などなすものにあらず。 老ゆるに及んではじめて寺門をくぐるにてはあらざるか。 斯る修行を小自然にまかせ居らば臨終に至って迷ふは当然なり。早く大自然に立ち返りて迷はざる自覚を求めては如何?

神我一体の生活を営む人は、即ち大自然をわきまへたる人にして、是を知らずなるがままなさるるがままに生活なし居る人は、小自然に順ずるが故に事にあたって狼狽するなり。 狼狽すれば苦みを伴ふ。是自然を曲解して世渡りなすが故に、ここに自由は得られずして不自由のなやみとなるなり。大自然と小自然の関係は斯る小さき処にも、発見することを得るなり。大自然に従ふとは即ち神我一体の歩みをなすにあらざれば理解すること難し。諸子は小自然にのみ囚はれて、彼是心をはたらかせて自然不自然を観察なし居るが故に、大自然に順ずることをなし得ざるなり。今も語りし慈音は大自然と小自然の間にありて行じ居ると語りしに対して諸子は不審するならん。慈音にして大自然を知り、神と共に生活なし居るならば、 小自然の理は既に明らめ居るにてはあらざるかとの疑問を起すならん。もとより慈音は大自然を知るが故に、神と一体化なしたる歩みをなし居ることは云ふ迄もなし。さればこそ教主は慈音に対して導きをなし居るにて我等も共に彼に至り居るなり。 唯我等が諸子に導きをなすに対して、その中介者たる役目を慈音が架せられあるによって、ここに小自然と大自然の中間にさしはさまれて彼は行じ居るなり。慈音のみならば最


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早何等の教へをなすの要もあらざるなり。唯諸子を導かんがための役目を架せられたるが故に、彼は両道に立ちて行の苦みをなし居るにすぎざるなり。此書を読むもの慈音に対しても深く感謝せざるべからず。

其は兎に角神我一体となる事の理を解したるならば、 如何にせばなし得らるるかの法を修めざるべからず。神の存在の有無を先づ捨てて兎に角神ありとの念を貯へよ。然してその神は我に来り我を守り給ふとの念を深くせざるべからず。諸子は神を知らんとして神の形を追ひ求むるが故に、神を知ることを得ざるなり。 既に諸子の肉体には神の影宿り居るにはあらざるか。形など追ひ求めずとも既に諸子の肉体に神あるが故に、諸子は生存なし居るなり。もし神が諸子をはなるれば、 諸子の肉体は忽ち火中せらるるか、土中に埋めらるるの他なかるべし。此考へを早く思ひ浮べよ。是即ち神我一体の法なり。

是等は宗教者が諸子に、神仏の広大なることを知らしめんがために、種々様々の絵空事を以て教へ居るため、其が却て邪魔となり、幻影を追ひ求める結果となりたるが故に諸子は、神と云ひ仏と云へば或は幻影を、或は幻声を追ひ求めて、外を探り内を顧ざる結果となり居るなり。神は遠きにあらずとしばしば語り居るに不拘、諸子は遠き空を仰ぎて、神を求め居るは是みな宗教者の教へかたが誤り居る故なり。是等もみな大自然と小自然の理を知らざるが故に、斯る迷ひを誘発したることに思ひを変へよ。 然して諸子の心に否諸子の魂に、神の宿り居ることに覚醒(めざ)むれば、神と共に生活は営まるる筈なり。帰するところは諸子は神なり。 諸子は仏なり。諸子の肉体は諸子の心は人なり。 人と神と一体となりて世渡りをなし居らば、其にて大自然に順ずる道は開らかるる筈なり。

即ち諸子は霊と云ふ絶対性より、魂と云ふ相対に、更に心と云ふ複々相対に化せられ居るによって、心のみはたらかせ居りては、小自然の生活をなすにすぎざるなり。 末知日記前巻に於て、孝子が世の中に親ほど尊きものはなしと語りたる、 例話を記憶なし居るならん。 諸子は親のありしことを知るならば、その親を生みたる親、更にその親を生


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みたる親のありし事も察せられるならん。孝子の話によれば我等神を見たることなし。 又君主も尊きかは知らねど、我等は何等の直接の恵をうけしを知らず。故に我にとりては親程尊きものはなし。 親去りし後は親は天界より我行動

を見守り給ふ故、親を離るることあらねば、親程尊きものはあらじと語りたりと云ふにてはあらざるか。 親を知るに諸子は己に宿されたる魂を知らじと云ふ事のあるべき。 諸子も親を知るならん。然るにその親の有難味を感ぜざるは親と共に生活なし居らざるか故なり。所謂親よりはなるるによつてなり。仮にその親を神として考へ見よ。神にして親の如き姿を有するならば、諸子はその神をも離るる事もあるならん。 子にして親を知りながら姿あればこそ親を離るるなり。親死してのち親の事を思ひ出して己が不孝なりしを悔ゆる如きは、親を離れし後、一体化せんとの心より出でる現はれならんとは考へざるや。姿を有する間は相争ひ、姿失せて悔ゆる如きは何故ぞと深く考慮し見よ。然る時は親子一体の生活の如何なるかをも知り、其によって更に神我一体の理をも覚る事を得るならん。 姿あらば相争ひ姿なければ是を慕ふ。神にして姿あらば諸子は神と争ひをなすならん。姿なきが故に、神を慕ふとは考へざるや。大自然と小自然の区別は斯る事に於てもさとる事を得るなり。

諸子は従来学び来りたる魂心一体の理は既に承知なし居るならん。 我に魂ありと云ふことは既に諸子も知り居る筈なり。されば我等が語り来りたる理論より推測する時は、帰するところ神我一体とは魂心一体の生活せよと語りしにすぎず。斯く語らば諸子は思ふならん。 魂心は一体化せずとも我にある以上、そのまま生活なし居らば其にて可ならんと。諸子の心は、諸子の知慧は斯る極端性を有するが故に、ここに迷ひを生じ誤ちを犯すなり。故に是を知る等我は一歩進めて神我一体の生活をなせよと教へ居るなり。末知日記前巻に於て或僧が、無条件に阿弥陀を念ぜよ。 彼是智慧をはたらかせて学理より、或は智慧より、念仏の理を明らめんとなす勿れと云へる如き意味の事を語りあるを思ひ浮べよ。 学問智識によりて覚りたる念仏は相対性にして小自然なり。 されど無条件に念仏するは即ち大自然の


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法則に従へよとの意味ならんと我等は思ふが如何! 彼是思ひ惑ひて念仏せば、其は一体化にあらず。二道の関係あるによって小自然の法にすぎず。 すべての理論理窟を取り去りて、絶対服従の念仏とならば、即ち仏我一体の法則なるによって、同一経路を一体化して歩む姿と見なすも可ならん。 弥陀と共に歩み弥陀と共にすべての事にあたるならば、其によって真の自由は得らるるに反し、智慧学問によりてさとりたる念仏ならば、弥陀と我との対立となりて、或時は弥陀に順じ、或時は弥陀にはなる。故に是は一体化にあらざるが故に、或は縛ばられ或は離れたりなどなすによって、時には楽み時には苦む。是小自然の法則によるが故なり。不自由の束縛を早く離れよと教へしは、即ち神我一体の生活をなせよと云ふにすぎざるなり。 魂と肉体とは離れ難き関係に置れあるに不拘、諸子は時によりては魂を離れて心身の交はりに任すること多し。其は魂に対して感謝の思ひうすきが故なり。 よつてその魂なるものを仮に神として尊ぶならば、 何とて魂の眼をのがれんとするが如き過失は犯さざるべし。 神を知らずとも神は汝にあるなりと教へしに不拘、諸子は己が魂を価値なきものとして放棄なし居ることを知るによって、種々様々の方面よりかかる理論を力説して導きをなし居るなり。 神を知らずともよし神を作れよと云ふも、真の神を語るにあらず。汝の魂を神として敬へよとの意味にて、神を作れよとは即ち方便に用いたる言葉と知らば可ならん。 然らずば真の神を求むるとも得難し。 先づ汝の魂として日々の生活をなし居らば、其にて人間の一歩は得られたるなり。


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