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絶対界 第十章 霊気と霊気の交はりに就いて P185〜189

在は認ること難し。此理は諸子もよく知るならん。一本の鉛筆にて白紙に文字を認むるとき悪き鉛筆ならば、文字は描かれずして明らかに見ること難からん。 是等は分解性に属するが、故なりと知るべし。 一本の線に於ても融和性と、分解性によって相違あるなり。諸子はこの事柄に対しても、紙と線との融和と誤解する勿れ。 紙に線の現れざるは、紙と線との融和するとせぬとにありと思はば、我等の意味とは異なるなり。我の語るは紙と線とにあらず。 線の明瞭不明瞭を指すなり。 線の不明瞭は持続を有せざるが故なり。是を分解性と云ふ。 線の明瞭なるを融和性と云ふと知られたし。 是を縁と云ふなり。紙と線との縁にあらず。 線の明瞭不明瞭を有縁無縁の区別と云ふなり。兎に角紙と線との縁は実は縁にあらず。 唯紙の上に線が乗せられたるに過ぎざるなり。縁と云ふはつながりなるが故に縁と云ふなり。故に線の明瞭不明瞭によつて縁も相違あることに心を止めよ。 もとより紙の上に線を乗せたるも縁の部類に属することは云ふ迄もなし。されどその縁は融和性にあらず。謂わば他人との交はりに過ぎざるなり。 線のつながりは即ち血族性関係の縁と見なさばうなづくところあらん。是等の事柄も信仰の上には重大なる意味を有す。故に参考として語りをくべし。

諸子の肉体に備はりある筋肉の筋に、相当するものは引力性によって同種のものが結合して筋をつくる。 是縁の濃き故なり。肉是に伴ふは縁のうすきが故に稍もすれば分解する作用を有す。同じ肉体の中にありても分解性、融和性の相違あることに心附くならん。是等の道理は後に教主の語り給ふところによって明らかに覚ることを得ん。 親子兄弟の関係は即ち筋肉の筋に相当すと思はばうなづくところあるならん。是等はすべて教主の教へをまつべし。信仰とは唯引力を強くすることによって得らると知らば、拝みするに対しても従来の拝みと、今後の拝みとには必らずや相違あらん。 諸子の拝みは来れよと云ふにあらずして、去れよと云ふに等し。故に通せざるなり。朝には門戸を開らき、夕には閉すにてはあらざるか。 戸を開らくは来れよの意味にて、閉づるは去れよの意味ならん。この事柄より拝


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みの法を研究せば、引力圧力の関係も推して考案する道は開らかるる筈なり。されば拝みする時は来れよの拝みならざるべからず。拝みに対しては「末知日記」前書に示めしあることを参照せば可ならん。

此事柄より広く考察せば信仰とは神のみに限らず。すべての有益なるものならば引き入れて差支なからん。神ばかりが入り来りたりとて他のものを引き入るる知慧なければその信仰は空し。此理も合点することを得るや。我等先に語りし如く悪人の言葉と云へども善言なれば信ずべしと。又小児と雖も善言ならば取り入れよと語りしはこの意味に属す。故に信とは即ち引力に帰すとの意味も従つてうなづくところあるならん。信仰と云へば神にのみ、或は仏にのみ囚はれ居りては、其は真の信仰とは云はれざるなり。神を信じたりとて、その力を己に受けずば何の益にもならざるなり。 神を己にひき入れて、然してその徳に浴するにあらざれば真の信とは云はれざるなり。諸子はこの点に深く思ひを致されよ。然して天界を信じよ。天界を我ものに引き入れよ。言葉によってのみ悟らんとせばむづかしく思はるれど、是を行ひの上に移せばさまで至難なることにあらず、至極簡単なることにて目的は達せらるるなり。彼是迷ふこと勿れ。

引力には圧力あり、圧力には引力を伴ふことの理を考究せば従って法は得らる。拾も階段をつくるに等しと思はば可なり。或は線を長く々々延ばすと、同様の関係より考察するも可ならん。線を延ばすと云ふは即ち道をつくるに等し。さりながら諸子は新らしく道を造らんより既に神によって作られたる道を、或は線を追ふて進み居らば、其にて望みの地点に達することは得らると承知して、他に新らしき道を作るの必要もなかるべし。諸子は生れし時わづかに母の手に握られたるものが成長して、現在の姿迄のびたるにてはあらざるか。是等は引力と圧力によって同種のものが、 つみ重ねられてかくも完成したる点より未来を考ふれば、そこに何か一種の何物かのある事に心づかば、其にて悟りは得らるる筈なり。諸子の肉体を一枚の木の葉として考へを大きくせよ。肉体を幹として考ふるが故に、諸子の


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考へはあやまつ。肉体を一枚の葉として考ふるならば、幹の如何に大なるかに考へを廻らす時、未来の如何に大なるかを観る事を得ん。 一枚の木の葉は幹の如何なる所に置れあるやを知ること難からん。 諸子は天界を想像することの

得られざるも、みなこの比喩に過ぎざる故なり。

全宇宙の成立を枝葉に渡って考察せんとならば、如何に知慧ありとも如何に学問ありとも、到底計り知ることあたはず。されど是等と雖も人体の構造より考ふれば大同小異なるが故に、その大体の事柄の理を究め得ること難きにあらず。 全宇宙の組織も人体の組織も帰するところは同一の関係に置れたるが故なり。兎に角霊気と霊気の化合によつて種々様々のものが現出なし居ることは、智者も学者もいなみ難き事実なるによつてなり。 人体が種々様々の細胞組織によって現出したりとせば、その一個々々の細胞が霊気と霊気の化合により、作られたる事の理も推して知ることを得るならん。故にすべてを分解して始めの霊気に立ちかへらしむるならば、絶対界とは如何なる処かは是又察せられるならん。されど諸子の考ふる絶対界と事実に於ける絶対とは是又大なる相違あるなり。今も語りし如く白紙の上に一線を引く時、諸子はその線と紙とのつながりに対しての関係には眼をむくれど、其線の縁と云ふに対しては心止むる人は稀なり。唯線は点の運動なりとのみ考ふるにすぎざるならん。 点の運動とは即ち縁にしてつながり、其つながりこそ即ち縁なりとの考へを有せざるならん。点と点とのつながりが縁あるによって交はりを長くなし居るに他ならず。されば白紙と線の関係は唯紙の上に置あるにすぎずとの考へをなさずして、縁とは紙と線との交はりを有すとのみにて、帰するところは諸子の考への緑と云ふは、紙と線との関係にのみ重きを置き居るならん。 是を我等に云はしむれば紙と線の関係は自然の縁にあらず。余義なく結ばれたる緑にして其縁は一時的のものにすぎざる故な

り。所謂不自然の緑にして自然のものにあらず。 線の緑こそ即ち自然の縁として結ばれたるものとして、自然と不自然の関係は先づ斯る処にも見らるる道理あるなり。されどこの事柄に対しても線の縁は末だ、大自然の縁にはあらざ


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る関係もあるなり。自然を究めんとせばかくの如き複雑微妙なる関係あるが故に、諸子は唯一言に自然々々と口にし居れど、大自然の本体を正しく認識なすことは、容易の知慧にては計り知ること難からん。 諸子は空気は縁によって一体化なし居ることを考へしことありや。 縁あればこそ空気は一体化なし居るなり。是線にも点にも面にもあらざるべし。 体として考ふるも面として考ふも線として考ふるも、その区別を肉眼によって定むる事難からん。されど心眼霊眼にて見るならば、線ともなり面ともなり体ともなり居る事は是を知ること易からん。 大自然の縁とはかくの如き程度迄考へを廻らすにあらざれば認識すること難し。空気が大自然の姿なるによって、その自然より地球より草木に至る迄すべてはその縁によって作り出されたりとせば、縁のつながりは草木に迄及ぶと云ふ事の理は明らめらるる筈なり。

霊気と霊気の化合は先づ諸子の世界にて譬喩をひくならば、空気の其として教ゆるの他なし。諸子はこれによって霊気の交はりが縁によってつながれあることに気づくならん。然して縁とは如何なるものかの理も朧気ながら解することを得るならんと思ふが如何?決してこじつけの理論にはあらざるなり。理を非に曲ぐると云ひ、非を理に曲ぐると云ふはこじつけなれど、理を理によって語るは決してこじつけにはあらざるなり。よって我等はこじつけにあらずと断言す。 諸子は己が知慧を以て是等をこじつけなりとして考ふるならば、先づ如何にとも考へを廻らすべし。其は諸子の心なり。如何に考へ進むとも帰するところは此処に帰るの他なきが故なり。 空気が縁によって組織せられ居るとせば、霊気と霊気の縁の理は推して知ることを得ん。神を仏を霊気とし、人間を霊気として考ふる時は、すべては縁によってつながると云ふ事柄に対しても、其理は明らかに知らるる道理あらん。

神仏に姿あらば人間にも姿あり。姿を霊気にかへせば如何なる結果となるや。諸子は我に姿あり。されど神仏には姿なしと思ふが故に一体化すること難しと思ふならん。されば姿ある己を霊気にかへよ。然することによって神仏の


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霊気と一体化することはむづかしき事にはあらざるならん。されど是等の説は理に似て理にあらずと思ふならん。あるものをなしと思へとは是不自然の教へなるが故なり。ここに理論と実際との喰ひ違ひがありて、所謂云ふべくして行ひ難しの言葉となるなり。其は一方に実間あらば、一方に空間あるによってなり。即ち神と人との関係は斯くの如くなる隔りあるによって、神を見ることを得ざるなり。神は空間にして、人間は実間におかれある故なり。故に空実一体化せしめずば目的は達し難し。空を実になすべきか、或は実を空に運ぶかの方法を用いざるべからず。さればなしやすき方向にむくる事によって目的は達せられる道理あらん。実を捨てて空となすべきか。空を取り入れて実になすべきかの法を先づ考究せよ。 法は何れを択ぶも可なり。 諸子はなし易き法を択ぶべし。 所謂仏教に云ふ自力他力の法によって考究せば可ならん。

信仰と云ふことのあらはれはかくの如きものに対して、大なる力あらはるるによつてなり。信の種子を霊地に蒔けば、一方には信と又一方には不信との二葉に芽を出す故なり。 信と云ひ不信と云ふも、根に返せば種子は信なり。 霊地の力にて是等は二分せられ行くに他ならず。 諸子は唯信と云ふものの本体を知らざるが故に、信不信を彼是論議なしおれど、霊地にかへれば帰するところは信の姿に他ならざるなり。

是を要約すれば信とは、即ち魂の本質に他ならず。 故に信とは自己に有する魂のはたらきの現はれに帰すと云ふの他なからん。されば魂に知らせてその魂が厭ふならば、其は不善にして、己の本質に反する為厭ふなり。されど反対に好むと云ふは、魂に同化する喜びなるによつて、ここに好むと好まざるとの相違あるなり。此理より察すれば己に有する個性を発見せんとならば、魂の本質に立ち返へらしめてその好むものに対して、歩みを進めなば個性はのびて発育することは云ふ迄もなし。是即ち信によって得らると知らば、信仰とは他を求むるにあらずして自らを求むるに他ならず。されど外に対して何ものか目標を定めずば、個性を見ること難きが故に、仮に神を信ぜよと教へ居るな


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