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第五講 先づ心と魂との区別 P221〜226

第五講

先づ心と魂との区別


諸子は心と魂の区別を知らざるが故に、自然の理をきはむる事あたはざるなり。 心を魂と考へ居りては、到底人間の何なるかを知ることを得ざるは当然なり。人間と動物の異なる処はここにあるなり。獣類には人間に有する魂はあらずして、人間の持つ心に相当するものが彼等の魂となり居るなり。故に獣類には、人間の如き魂の具備はあらざる為、如何に努力すとも人間とはなり難くして進化の程度きはめてうすし。九流界のクウワオと雖も、人間の有する魂のあらずして心のみが備はり居る為、彼等は是を嘆き、早くその魂を求めんとして生命短からん事を望み居るなり。是を一言詞すれば獣類には心の魂ありて、人間の如き大なる魂の備はりあらずと知らば可ならん。 彼等の魂は人間の心に匹敵す。斯く考れば諸子は人間に生れし喜悦を、感謝せずしては申訳なしとの念は生ずる筈なり。諸子は魂を知らずして心のみ働らかせ居りては、動物と何等異なるところなき生活にて終らん。 実に勿体なきことにてはあらざるか。現今諸子の世界の人類はすべて心のみの作用によつて世を建設せんと計り居るため、その生活態度に於てもすべては動物性に化せられ居るなり。 心の智慧の拡大するは、蔭に魂の宿り居るが故にその光明をうけて、他の動物よりすぐれたる考へを有せど、心のみの作用にては魂の光明にすぎざるが故に、その程度はきはめて低し。

されば魂を発見するには何かの方法によつて、是を求むる道なかるべからず。心の作用のみにては苦みに苦みての後にあらざれば望は達し難し。 是を魂に任せなば、苦まずとも自づとすべてを明らむることを得るなり。 心は枝葉なるが故に限度を有す。魂はその根に相当するものとして考ふれば、是を発見するには左のみ至難にはあらず。もとより人間に与へられあるが故に、心を是にかへせば忽ち魂は現はれてその任務に順ず。諸子は己に有するものを知らず


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して、心のみを働かせて其によつてすべてにあたり居るが故に、迷ふこと多し。

慈音は日常他人との交はりにあたつては心のみを以て是に交はり、己指導者の任務に服する時は、魂を用いて是にあたり居るなり。 先に語りし、慈音は大自然と小自然の間に立ちて行じ居ると語りしは是なり。我、斯く語らば諸子は思ふならん。魂を見つけたる慈音ならば何故魂を以て、人との交はりを常になさざるやと。もし慈音にして魂のみ働かせて世に処し居るならば、世間の人は是を狂人扱ひにして交はりを結ぶものあらざるべし。其は諸子と慈音との隔りが余りに遠き故なり。故に慈音は魂を現はさず、諸子と同様に心を以て諸子と交はりをなし居るなり。されど慈音は人を陥れ或は人を犯す如き振舞は、魂の威徳が心をはたらかせ居るによつて、彼は罪悪を犯すものにあらず。

彼は時には心の人となり、時には魂の人となり、又或場合は霊の人となり居るが故に、 我等と共に語らひもし、教主の導きをも喜びて授かり居るなり。人見て法を説けと云ふ言葉もこの理なり。霊の人となり、魂の人となりて何も知らざる常人に対して交はるとも、それは決して通ずるものにあらず。多くの人より狂人扱ひせらるるの他なきことを知るによつて、彼は小自然大自然の間にありて生活をなし居れど、人来らざる時は魂の人となりて我等の導きを受け居ることの理は、諸子もほぼ察せられるならん。 小自然に順ずるは心にして、大自然に順ずるものは魂なりと知らばここに一段の工夫なかるべからず。

諸子は禅門の僧を見て狂人扱ひになし居ること多からん。 坐禅工夫して漸く魂を見つけたる僧に対してすら、 諸子は狂人の如く思ふならん。 さりながら現今の僧達は昔の徳者の説をとり入れて己、魂をも知らざるに是を知りたる如く吹聴して、世を害し居る人少なからずあるなり。さればこそ彼等は時には罪悪を犯し居ること多し。彼等は所謂さとりたるにあらずして、知りたる禅をなし居るにすぎざるなり。真の魂を発見したる僧ならば、斯る狂人の如き振舞は決してなすものにあらず。心は雲の如し。されど諸子の心は深き雲にして、太陽をさへぎり居るが故に常に陰欝と


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なり居るなり。故にその心の雲を晴らし居らば、其にて己に有する魂の太陽は赫々として輝くこと疑ひなし。心のみ働らかすは雲のはたらきにして、雨を降らせ嵐を招くは当然なるべし。

法とはむづかしきものにあらず。心を常に平になし居らば、黒雲むらくもは起らざる筈なり。 心を彼是とはたらかするは、恰も雲をよび雨をよぶに等しとの考へにてものに執着せず、ものに拘泥ざる生活をなし居らば、其にて魂との一体化は得らるるなり。 心の悩みは拝みと云ふ方法によって払ふことを得るなり。是を心の明らめと云ふ。 心明らむれば魂ははたらきて是を排除するは是魂の任務なるが故なり。諸子は叶はぬ時の神だのみと云ふ比喩の如く、苦みを解くには神の力をたのむならん。 諸子を守るものは諸子の魂なり。故に心の苦みを魂に訴ふることを神だのみと云ふなり。

慈音はすべてのことを明らめて悉く捨てさりたり。故に彼は心の悩みはあらざるなり。 諸子は捨て難きものを棄ることあたはず、さりとて求むるも得難きに不拘、そのものに固着して彼是心を労し居るが故に黒雲は益々加はる。故に魂の光は一層暗くなりて通ぜざるなり。 なり難きものは強いて求めずとも是をすてなば如何? 否棄るにも及ぶまじ。 求めよ、得られんと云ふ言葉もあるにはあらざるか。 魂に求めよ。 然せば魂は明るし。 汝の望を叶へしむるはたらきをよく知る。故に心に苦みあらばすべてを魂に求めよ。 さらば得られん。 閉されて入ることあたはずば魂に向つてたたけよ。 さらば開らかれん。敢て遠きを求めずとも近きにありと教へられ居ることは、此言葉によつて解する事を得るならんと我等は思ふが如何!心と魂は汝の肉体にあり。遠き所にあるにあらず。又も宗教くさき言を語りたり。されど是は魂と心の区別を明らめしめんがための言葉に他ならず。故に是等を宗教的に考ふること勿れ。

天理にらぬ任務をなし居りて、其にて望は達せずと云ふことなし。 諸子は心のみのはたらきにて魂を忘れ居るが故に、己の何なるを知らずして迷ひ居れど、汝に架せられたる魂は汝を棄ることなし。 心にのみ委せ居りては棄てら


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るるは当然なり。 何となれば自然を誤つが故なり。自然に逆行するが故なり。所謂自然を離れて不自然の方向に足をむくるが故に転落するなり。すべてを汝の魂にむけよ。其には先づ我に大なる魂ありて、其力は神より架せられたる働らきあるによつて是に従はば、其にてわづらひはあらじとの思ひを貯へて行ぜよ。信ずるとは己の心より己の魂のあることを信ぜよと教ゆるものなり。魂と心の区別は斯くの如きの相違あることに留意せよ。 とやかく心にのみ任せて徒らに心配すること勿れ。所謂安心とは魂を知るにあらざれば、真の安心は得られざるべし。

兎に角心のみの生活に甘んじ居りては、動物性にて終るの他なし。早くめざめて魂を見出し、是に心を委せて心魂互に融和した生活をなすことによつて、はじめて人間の姿となるなり。然らずばすべての事柄に対しての善悪邪正は知る事難し。何となれば動物性自然と、人間性自然とには大なる相違あるによりてなり。 相対性自然の中にも亦斯くの如く、小自然と大自然の区別あればなり。 心の善悪邪正と、魂の善悪邪正とには相違あるによりて、悩みは清除せらるるなり。例へば一個の宝を見たる心が是を盗まんと計るとき、その陰にひそみたる魂が、汝其を奪ふ勿れと教ゆるならん。其故に心は盗みをせざるなり。獣類はその明らめをなすことを得ず。欲すれば忽ち是を奪ふ。斯る事より推測せば、獣類には心のみありて魂のなき事を知るならん。 我斯く語らば諸子は云ふならん。手なづけたる動物は如何にと。是等は彼等にも心あるが故に、そのはたらきが人間より命ぜられてなさるるのみ。所謂人間の教へが彼等の心を化せしむる力あるによつてなり。 されど獣類には魂なきが故に、一度人間をはなるればもとの如く欲するものは勝手気儘に奪ふことをなすは、是彼等に魂なき証拠にして、先にも語りし如く獣類には人間の心に相当するものが、彼等の魂なるが故なり。是を人間にとりて考ふるならば、動物性本能とは心にして、人間性本能とは即ち魂なることの証明は是によつても明らかに知らるるならん。

反射力と云ふは心のはたらきにして、魂のはたらきにあらず。人間には魂あるが故に、心は二分されて是非の二つ


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に別れ居るが故に、是と云へば非と解し、非と云へば是と解する如き反射作用を起せど、其は唯魂によつて二分せられ居るにすぎざるなり。 謂はば心は魂に達して直ちにもとにかへる。 是はこだまの如しと知らば可なり。 魂が是非の区別を与へ得る余裕をあたへずして、直ちにもとに復するが故なり。自問自答の法とはこの反射力を応用して魂に迄到達せしめ、然してその魂より正しき答へをなさしめる方法に、他ならずと知らば可ならん。是等の方法は前巻にくはしく語りあるによつて、 諸子は既に承知なし居る筈なればくはしくは語らじ。もし諸子にして魂と心が何等の障碍もなく融和なし居るものならば、その反射力が忽ち答へとなりて心に通ず。故に心の反射力と、魂よりの反射力とには相違ある事の理は、推して知る事を得ん。

例へば、己の好むものを見て奪はんとする時、心のみの反射力ならば、奪ふべきか奪ふ勿れ。奪ふべきか奪ふ勿れと、再三再四繰り返してとやかく迷ふならん。 是が魂との反射力とならば、奪ふべきか奪ふべからずにて終るが故に、悩みはあらざるなり。其が次第に魂との交はりを深くすることに依て、欲するものを見るとも奪ふべきかの思ひなどはおこらざるなり。故に何等の妬み嫉みの心など露程もおこるものにあらず。 既に心は魂に依つて手なづけられ居るが故なり。恰も動物が人間の手によりて、育てられたると同様の結果なるに依てなり。 心を魂に融和せしむる事により、執着は清除せらる。 所謂棄執着の法とは、心を魂に同化せしむるにあらざれば、心のみにまかせ居りては、如何に苦み悩むとも成就するものにあらざる事の理は、是によつても明白ならん。是小自然と大自然の二つが、互に流転なし居るが故に、修養の道は作られ居るなり。拾も歩みのそれの如しと思はば可なり。この両自然がすべてに通じ居るが故に、進歩発達は得らるることの理をさとりたれば其より以上は、是を大自然に化せしめて一体となりて、更に次の小自然大自然の順序を追ふて歩みなば、最後には大自然の一路に到達して神の道に順ずることを得るなり。文意不明瞭にして解し難からん。されど是を読むもの考慮を払ひつつ、自得して更に順路を歩まれんことを望む。


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この事柄より現今諸子の世界に於て彼是論議せられ居る世渡りの方法を観察し見よ。 或は是とし非として、互に論議を交へ居れど、 其等の悉くが水掛論となりて是非をたしかむること少なからずあるならん。是等は魂によつて作られたる法則にあらざるが故なり。 神の定め給ひし法則には、斯るまぎらはしきものとしてあらざるなり。 魂の生活と心の生活とにはかくの如き相違あることに留意せられたし。諸子は人と交はるに心の交はりをなして、魂の交りをなさんとせざるによつて相争ひ、又相睦む等の行ひを持続し居るなり。故に何日かは真の融和をなすこと難からん。人間性の交はりならば決して争ひの生ずるものにあらず。心のみの交はりなるが故に、世は安からざるなり。夫婦間に於ても心のみの夫婦なれば、離婚する等の誤ちをおこせど、魂の夫婦とならば斯る事のあらざるは当然なるべし。古来日本の伝説に、遠く離れてありながら親と親との約束にて、結ばれたる夫婦が、互に顔をすら見知らざるに、一方が死したりと聞きて、生涯己縁附かざりしと云ふが如きことすらあるを我等は聞きたり。現今の男女間に斯る人のありやと聞かれなば如何に答ふるや。又斯る伝説を聞きて愚者と嗤ふや。我等に云はしむるならばこの伝説が真ならば、その夫婦こそまことの魂によつて結ばれたる夫婦として我等は賞讃するものなり。 人間の交はりに於ても

斯くありたきものなりと思ふなり。 斯くの如き底の交はりをなし居るならば、世の中の争ひは影を没して平和の世界とならんと思ふが、諸子には如何に感ずるや。余事は別として魂と心との相違は先づかくの如し。


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