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絶対界 第十章 霊気と霊気の交はりに就いて P178〜184

自をはなるる如きは是信にあらず。信ぜざるが故に、斯る姿となるなり。此意味を諸子は知るや。諸子には到底理解すること難からん。 諸子の信仰は信にあらずして唯知ると云ふに他ならず。 知りたりとて信ずる力なくんば、其は空行く雲の如し。神を知りて神を信ぜずば、自他一如の関係とはならざるなり。然して霊気は和せざるに至らん。無智の人には斯る言葉もて語るとも、到底さとる事は難し。諸子は知らんとして学ぶが故に、学びて其徳を発揮することを得ざるなり。知らずとも信ずる力を強くするにあらざれば、霊気は通ずるものにあらず。斯く語らば諸子は 霊気は、何ものにも通じ居ると云ふに対して又も不審するならん。霊気はすべてに伝はり居れど、信ずる力の程度によって強弱はあるなり。知らざれば信ずるあたはずとの考へならば、諸子は、生涯信仰することは難からん。知ると知らずに不拘、信ずる力を養はずば、さとりは得難し。 かく語らば知らざるものを、信ずることは得ざるにてはあらざるかとの疑問をなすならん。 斯る疑問を抱く間は、到底信ずる力はそなはらざるべし。知る知らずに不拘、すべてを信に化せよ。 諸子は他を信ずれば彼は我に対して善とならんとか、或は又我に力を与へんとか云ふが如きことを信ぜよと誤解する勿れ。我等先に語りし欺かるるとも信ずべしと云ふ言葉に対して、誤解し居ること多き故なり。 諸子の思いは誤てる考への信なり。 我等の語る欺かるるとも信ぜよの意味を曲解なし居るが故なり。所謂信の意味を誤解なし居るによって、斯る誤ちたる方向に信をむけ居ること多し。

今慈音は隣家の未亡人と語り居るを聞くに、その未亡人の曰く、「人を呪ひて死に至らしむる如きことのなし得るや」と。慈音是に答へて 「其は念力と称して念の力強ければ、なし得らるるなり。されど斯ることは一般人のなし得らるるものにあらず。故にかかる人は或一種の精神障碍者なり」と話し居るを聞きたり。念力によって他を虐ぐることを得るならば、是を反対に用ゆれば人を救ふことも得らるる道理あらん。 人を倒すのみが念力にはあらざるべし。用ひかたの如何によっては、その余力が種々様々に通ずることが察せられるならん。されど果してそれが真なりや偽


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なりやは、常識判断にては到底考への及ばざるならん。されど信ずる力の備はりあるものならば、考へずして行ひ得るなり。即ち学ばずして、知ると云ふは是なり。信ずる力は誰にもそのそなはりを有す。然るに是を引き出す力と、気力のうすき為涌き出で来らざるのみなり。信と云ふは霊の地なり。此地に、相当するところにすべての種子を蒔けば、その分に従つて成長す。 所謂信とは霊の地なるが故に、すべてを発育せしむる力の具備あるを指すなり。是を絶対の地と名づくるも可ならん。大地は一見すれば唯土の如く見ゆれど、蒔く種子に応じて其々の養分を送りて、その個性を活かし育て居るにてはあらざるか。もし大地に種子ならざる他の器物を埋るとも其は育たざるべし。然るに器物を長く土中に埋むれば時間によって、その埋めたるものが形を変ずる場合もあらん。是等も信の力に帰するなり。例へば一個の木の箱を土中に埋むれば、腐蝕して影を止めず。その土に化せられるならん。是即ち信の力なり。汝の肉体を土中に埋むれば、骨格のみ残り他は消滅す。 然してその骨格も軈ては消滅するならん。 是大地の力なり。信の力は同様の関係ありと知るべし。汝の肉体に備はりある霊地も斯くの如き働きをなすなり。故に霊地のはたらきを粗略にせずして、霊地に肥料を施して霊地を肥す方法を信仰と云ふなり。然して信仰の力をのばすとは、霊地を肥して如何なるものをも育つる働きを増大せよと教へ居るなり。欺かるるとも信ぜよとは欺かれし種子をも育てよと云ふことなり。霊地は如何なるものをも嫌はず育つるにあらざれば、霊地の徳は発揮することあたはざるなり。欺くとは悪き種子なり。欺かるるはその種子を蒔かれたるを意味す。その種子を育つれば悪き実を結ぶは当然なるべし。されど其は霊地の罪にあらず。 蒔きたるものの罪なることは推して知ることを得るならん。善不善、正不正に不拘、蒔きたる種子、蒔かれたる種子を育つるは信仰なり。即ち霊地なり。悪き種子は育ち易し。良き種子は育ちがたきことは、諸子も体験したることならん。取れども取れども尽きざるは雑草なるべし。此雑草をも刈りとりて程よく按排し、肥料として地をこやすならば却てよき種子の養ひとなるは、是又諸子も体験したるならん。信仰の法はかくの如し。諸


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子の信仰とは確定したるもののみを、信ずる力を養はんとするが故に、却て雑草ははびこるなり。

此理を悟らんとなれば、先づ信仰に相当する霊地を発見するにあらざれば、正しき信仰は得られざるなり。果してその霊地は那辺にあるかに思ひを廻らさざるべからず。諸子は美しき花園を見て、大地の徳を見ず。 花にのみ心惹かれて唯美しき花よと称讃するのみ。是を育て開らかせたる大地には無関心なるべし。末知日記前書にも語りたる如く、泥中の蓮を見て、蓮にのみ思ひを致し、泥中を称讃する人は、あらざるならん。是等は信仰の力うすきが故なり。否信仰と云ふ霊地を知らざるが故なり。 もし花園に心奪はれてある時、 その花が毒気を発するものならば、 諸子は眠りにおちて生命すら失ふこともあらん。其が大地の信仰に迄達し居らば、かかる花には心止めずしてのがれ去ることを得るなり。信仰の力とはかくの如し。一度あやまてば生命をも失ふ。迷信とは是なり。 是等の類を迷信と云ふ。 正しき霊地は雑草を繁茂せしめず、是を肥料として正しきものを育つるによって、かかる誤ちを犯すものにあらず。

我、諸子に問ふべし。諸子は日々他人より恵を受けて有難しとの言葉を発するならん。是等は諸子の全世界に通じたる言葉なり。然しその有難しと云ふ言葉の意味を、我等の心に感ぜしむる答へをなせよ。何が有難きか。 この言葉は一般に用いられてありながら、一種の挨拶にすぎざるなり。 今一層是を深くして忝と称する言葉、更に一層深くして、勿体なしと云ふ言葉に到らしめて、 其等の意味を我等に納得せしむる底の説明をなし得るや。

有難し添勿体なしとの意味は那辺にありや。是を徹底せる言葉に迄変へて、衆人の心に感銘するところ迄至らしむるにあらざれば、霊地を知ること難し。諸子の世界には一般の挨拶語として用いられ居るにすぎず。その言葉は一片の雲にすぎざるなり。斯ることにて信仰は得らるるものにあらず。 末知日記前巻に語りたる、「何事のおはしますかは知らねども、勿体なさに涙こぼるる」と云ふを語りおけり。日本人の用い居る勿体なしと云ふ言葉を、他国人に通


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ぜしむることを得るや。 然らざるべし。信仰を深くする霊地とは是なり。霊地は勿体なしの程度迄進まずば、霊地を発見すること難し。 諸子は神を信ぜんと努力しありながら、神を知らざるは、即ち霊地を知らざるが故なり。故に何ものを見ても有難しの真をすら、究むることを得ざるなり。

太陽を眺め其が形あるに不拘有難しとも思はざるが故に、眼に見えぬ空気にすら有難しとの念はおこらざるなり。かかる程度の信仰にて、神を信ずることの得られざるは当然なるべし。有難しより辱、更に勿体なし迄の真の念に迄到達せずば、神を拝することは難し。勿体なさに涙こぼるると云ふ極致に迄到らしめずば、汝に宿り居る神の姿は、恰も空気のそれと同様なるが故に、見ること難きも推して知ることを得るならん。無智者の人にして、日々勿体なしとて暮し居る人は多し。是等は学ばずして霊地を発見したる人なり。諸子はなまじ知慧の備はりありて、其が却て信仰のさまたげをなし居ることに意を用いよ。今も語りし隣家の未亡人の言葉の如く、念力にて人を陥るる底の人は常識の備はりうすき人にて、唯怨み妬みの念のみ学ばずして働き居るが故に、かかることをもなし得らるるなり。是等も或一種の霊地を見つけたる人なり。 されどかかる人は反対に、人を救ふ方向に念をはたらかす力なければ、所謂悪魔に冒されたる人と云ふの他なからん。 もし其が悔ひ改めてその力を転ぜしむるに至らば、人を救ふことも学ばずしてなし得らるる事は云ふ迄もなし。屢々語りし如く大悪は、 大善の基なりと、説きしはこの類なりと知らば可ならん。

念力によって種々様々の事柄をなし得ると云ふは、帰するところ霊気と霊気の交はりを結ぶ力に他ならず。 念によって気と気を接続せしむる事によって、すべてに通ずと知らば可ならん。念と云ひ、縁と云ふも気と気のつながりなり。縁とは一種の波長にして、念は其をはたらかする動力と見て差支なからん。 念ずると云ふは波長を送る方法にして、縁とは相手かたの波長に合せしむる検波器の如し。是等はすべて霊気と霊気を交はらしむる方法の源と知らば可


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ならん。末知日記前巻に於て掲げたる或僧は、道に乞食の寒気に堪えかねてふるへ居るを見て哀を催し、己が衣を脱ぎて彼に与へしに彼は一言の礼もなさざるに対して、何故感謝せざると問へば、乞食答へて、汝、施物をなして何故感謝せざると、反問せられて僧は赤面して合掌せりと云ふ例話を、説きたるを諸子は記憶せるならん。 諸子はこの意味を如何に考ふるや。是等は即ち検波器のむけかたが方向を誤ち居ることを教へたるなり。僧は乞食に物を施して、彼に答へを促すは、波長の方向を乞食にのみむけ居りて、大切なる方向に霊気をむけ居らざるが故なり。故に乞食より教へられて神仏の方向に、波長をむくることを覚りたるが故に、赤面する他なかりしなり。

我ものにあらざるものを他に施し、他より感謝を受けんとは僧としてなすべき事にあらず。 仏の命によりて僧は乞食に施こしをなしたるなれば、仏に対して僧は感謝せざるべからず。僧は僧としての任務をなし遂げたるは、是仏の力によりて衆生を救ひたる結果なれば、仏に対して感謝せざるべからず。故に乞食より教へられたるなれば乞食の言葉は、僧に対して直に感謝の言葉を発したるなれば、すべては感謝に帰せしめられてその全きを得たるなり。

諸子の修養修行と我等の修行とにはかくの如き相違あるなり。気と気を合すると云ふことに対しての一大事はここにあるなり。諸子は自己中心として、他に恵をなして其を善根なりとの考へにて、他より感謝の言葉をきかずば腹たち罵るならん。斯る恵は真の恵にあらず。 斯る信仰にて如何に善行をつむとも其は空し。諸子は、神仏のものを奪ひて、そのものに依て自己の栄達を計らんとするが如きは、神仏を粗略になしたる行いなるが故に、如何に功徳をつむとも望は達せざるのみか、真の神仏を知ること難かるべし。 是等は信と云ふを誤ち居るが故なり。神仏と離れざる信仰ならでは、無言詞界に入ること難からん。即ち無言詞界の方向に波長をむけずして、徒らに有言詞の方向にむけ居りては通ずるものにあらず。憐みの心をおこして乞食に衣を与へしは、有言詞の方向にむけ居るに等し。然し施し終りて感謝を捧ぐるは、是霊地に波長をむけたる結果となるなり。諸子は日々他人のために尽し居るならば、尽したる


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後感謝の思ひを、神仏に捧げ居らば、めぐみし者より一言の挨拶なしとて、怒り罵る如き愚はなさざるべし。

諸子は神仏の下僕にして、神仏の命に従ひて凡てに務めをなし居ると云ふ考へにて、行じ居らば其にて可なり。一つの命を受けてつとめ終らば、神仏より賞せられん。その賞せらるる言葉は、即ち有し難しと云ふ言葉となりて現はるるなり。然して再三再四つとめを粗略にせず、賞せらるる度加はるに従ひて辱なし、勿体なしの賞が深くせらるると知らば、「何事のおはしますかは知らねども、勿体なさに涙こぼるる」底に迄賞せられて、ここに初めて神仏と諸子が接近して、その姿をも拝することを得るに到るなり。むづかしき事にはあらざるべし。又理に外れたる教へにもあらざるならん。

ここに注意することあり。其は他ならず。我等の導きと宗教者の指導とには相似て相違あり。 宗教者は一方的の説なるが故に、ややもすれば瞑道に陥り易し。 仏教者の如く無常観のみ語り居るが故に、人心は陰欝となり、然して活気を失ふこと多からん。 余りに神仏を恐れしむる結果、陰鬱となり行く傾向あるは、我等よく知るところなり。 仏教信者の涙もろくしてよく嘆く人は多し。されど日本古代の神道の教へには、かかる人の少なくして、活気にみなぎりたる人多かりし昔を我等は知る。 全世界の宗教者悉くが是等に類するたぐひ多し。是みな誤ちたる導きをなし居るが故なり。 我等の導きは唯諸子をして、 天界の姿を知らしめんがために語り居るに他ならねば、宗教者と同一の思ひにて此書を見る勿れと注意しおくべし。余事は兎に角神によりて作られたる諸子なるが故に、諸子には己と云ふものあらざるなり。故に神の命に従ひて行動せずば、使命は果されざることは云ふ迄もなからん。然るに諸子はすべて自己中心に物事を考ふるは所謂我儘気儘と云ふなり。されば早く我儘気儘を捨てて天の使命に順ずる道を考究せよ。 然らずば霊気を知ること難からん。神に順ずと云ふは霊地の徳を知ると云ふことなりと思はば可なり。霊気と霊気が一体化することを信と云ふなり。信は真なり。信は親なり。親しむの意味に通ず。親しむとは結合を意味す。故に和する


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なり。さればすべては信なるべし。神と云ふも亦信なるべし。神を仰ぐことも信仰なれば、是又和する方法を示したるに他ならず。故にミキョウは神を知らずとも、神を作りては如何と教へたるなり。是等はこじつけかは知らねど言葉至らぬが故に、かく語るの他なきなり。文字の意味にこだはらず、唯その大体の意味をのみこむことを得ば、其にて我等の望は徹したるなり。

諸子の信仰とは我等より見る時は圧力性にして、神仏を迎へ入るるにあらずして押し出し居る如き方法を用い居る姿なり。信仰の本質は圧力性にあらず。 引力性ならでは信仰とは云ひ難し。信ずるとは引力を意味す。 諸子は神と己と対照として、己を神に至らしめんとの考へより見えざるものを探り求め居るが故に、信は得られざるなり。 対象物を作らず、又対象物を考へざる引力性を働かさずば信とはならざるなり。不滅母霊子は先にも語りし如く、活動霊子補助霊子にわかるると語りたるは是なり。活動霊子は諸子の考へにては圧力と思ふならん。もとより圧力に相違なし。されどこの圧力を反対に用ゆれば引力となる関係あるなり。 活動霊子を引力に用ゆれば、補助霊子は圧力となり、補助霊子を引力に用ゆれば、活動霊子は圧力となる。故に引力と圧力は相互に用いかたによりて、何れにも化せられる力を有す。此事柄を予め認識なし居らずば、我等の語る説を知ることは至難なるべし。 活動霊子 補助霊子は、相互融和性と分離性の素質を有するによつて、一方に融和性のはたらきとなれば、一方は分離性のはたらきをなすと承知せられたし。融和性と分解性の素質の原理は、即ち霊子の摩擦に依るが故なり。是が次第に発育延長する事によって種々様々の無形有形のものに、組織せらるることの理は推して知ることを得るならん。 是等の詳細は後に教

主の語らるる教へによって確かに覚ることを得るならん。今は唯是を参考に供しおくに止むべし。

諸子の語り居る言葉に有縁無縁と云ふことあらん。有縁とは融和性にして、無縁とは分解性なりと知らば可なり。

例へば紙上に一線を引く。 是が融和性なるによって線となりて現はるれど、その線がもし分解性ならば線としての存


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