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絶対界 第一講 不変性絶対と変化性絶対との関係 P199〜202

第一講 不変性絶対と変化性絶対との関係


成人聖者に問ふて曰く、絶対とは如何と。聖者庭の池水を指示して、絶対とは此池を指しその中に有する水も絶対なりと。 彼又訊ねて曰く、されば相対とは如何なるを云ふか。聖者曰く、池も相対にして水も相対なりと。彼更に問ふて曰く。されば何れに信を置くべきや。聖者曰く、汝の心のままにせよ。絶対と思はば絶対とせよ。 相対と思はば相対とせよ。是即ち絶対信なりと。 或人その意味の何なるかを知らず。されど重ねて是を追究する言葉も出でざるため余義なく黙したり。此時聖者その態度を見て彼に語りて、汝今心を動かし居るその姿こそ即ち絶対なりと。是を聞きて人手を打ちてさとりたりと云ふ例話あるなり。是等の理を諸子は如何に感ずるや。今此例話を更に縮小して考へ見る時、諸子は日々の生活に於て見る如く諸子の家には浴槽もあるならん。 又他に種々様々の器物も貯へあるならん。 是等はすべて完成したるものにてすべて皆絶対の姿なり。浴槽の全きものならば水は洩れずして人も容るる力そなる。故に全き浴槽は既に絶対の位置に置れたるものならん。是が損傷あれば水は保たれず。故に是等は相対関係となるなり。聖者が示めせし池も絶対なるが故に水も絶対となりて中に魚も踊る。故に水も絶対なり。池も絶対なりと教へたるなり。されど池不完全ならば水は保たれず。 水保たれずば魚踊ること難し。是相対なるが故なり。故に聖者は相対と教へしなり。 相対と感ずれば相対にてよし。絶対と感ずれば絶対にてよしとの教へも、この言葉によってうなづく処あるならん。 さりながら是等の説に関しては諸子は種々様々の方面より、又種々様々の疑問をなすならん。池は水を貯へんがための目的にて組織せられたるものなれば、完全に池となりて水を貯ふることによって、ここに池としての任務は果されたるなり。故に池の絶対は水を貯ふるにあるなり。浴槽に於ても同様なり。此種の類を名づけて変化性絶対と思はば可なり。即ち池は池の目的を達したるによって、其以上のものに化せられることあら


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ざるが故に、変化性絶対と云ふなり。斯く語らば諸子は思ふならん。是は不変性絶対なるかとの疑問なるべし。さりながら其は然にはあらざるなり。 是等は池として一時的のものにて他に化せらるれば池としての姿を変ゆるが故に、一時的の絶対となるのみ。 姿変われば他のものに変ず、故に変化性絶対と云ふなり。

人間は人間として終らば是等は一時的絶対に置れて、更に人間を離れて他のものに変化す。故に人間と云ふ名称は一時的絶対にして、是等も変化性絶対に属すと知らば可ならん。此比喩よりすべてを考ふれば、絶対より絶対へのつながりとなるならん。更に又他方面より考究せば相対より、相対の関係とも考ふることを得るなり。故に聖者も池も絶対、水も絶対、更に見かたによりては池も相対、水も相対の関係あるによって、何れに信を置くも可なりと教へたり。されど真の絶対とは如何なるものを指すならんと、或人が考へて迷ひたれど問ぶべき言葉を知らず、唯沈黙してありし姿を見てその思ひの境地こそ、真の絶対なりと聖者は語りしなり。是をさとりたるが故に、手を打ちて唯声を発したるのみにて、何等の謝辞を述ふることもあたはざりしなり。 この境地こそ即ち真の絶対境と云ふなり。 諸子はこの理を知るや。汲めども汲めども尽きざる泉こそ実在の絶対なるべし。汲めども汲めども測り知れざる知慧こそ空の絶対なるべし。

諸子が現在用い居る易学の理論として、大極別れて両儀、別れて四象、別れて八卦、別れて何々と語り居れど、是逆に返せば大極に返る。其大極を絶対と思ふならん。是を我等に云はしむればその大極は、即ち変化絶対に他ならず。又日本の国史に独化の三神偶性八神以下等々語り居るも、是等を逆に返せば易学の大極に等し。又仏教者の弥陀三尊とか称し居るもすべて同様にて、弥陀と云ふも是又変化絶対を現はす。他の宗教に於てもみな是等に類す。 何とならば大極別れてとある以上、その大極は変化するによって別るると云ふ意味を現はし居るによって、是を変化性絶対と云ふなり。されば是に対して不変性絶対と云ふ言葉の現はるるは、即ち変化性絶対と云ふ言葉の対立にして、絶


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対に於ても不変性と変化性との相対となる。然して何処迄追究すとも言葉によって定めがたき絶対に迄至らしめずば、確定絶対とはならざるべし。もし絶対に於て確定なしたる絶対を得るならば、無始終絶対に迄至らしむるにあらざれば得ること難し。 故に無始終界こそ真の絶対界なりと語るの他、言葉にて云ひ現はすこと難からん。 果して斯るところを探り求むることを得るや。 もし其所のみ一定の場所にありとせんか、そは神の世界を措いて他にはあらじとのみ答ふるの他なかるべし。然して斯るところのあるならばその位置こそ、限度を有すと云ふ理論も成立するならん。ものごとを仔細に検討すれば人智にては到底認識すること難きは当然なるべし。 獣類にも筋肉の具備あり。人類の筋肉と大差なかるべし。然るに獣類には知慧を有せず。人類にのみ知慧ありとするならば、それは何によってそのはたらきをなさしむるや。 肉体あるが故に知慧はそなはるとの理に帰するものならば、獣類に於ても同様の具備ある筈なり。然るに人間と獣類との知慧の相違は非常に異なる点少なからずあるならん。 学者は是等に対して人間には魂の有するが故なりと。 然らば獣類には魂の備はりなきが故に魂なしとして、人間と比較し見よ。人間の筋肉のはたらきによって種々様々の行動をなす。 獣類も然り。 その筋肉の動作は何によってはたらかされ居るやと、仔細に追究して考へを深くする時、ここに至って又言葉にて云ひ現はし難き数々の説は現はるるならん。生きると云ふ力のあるは何故ぞ。植物も生きる力によって発育するならば、生と云ふ原理は、何処より来りしか等々の質問を重ねらるれ

ば、答へに窮して知らずと云ふの他なかるべし。この知らずと云ふ言葉に迄すべてのものを深く研究して、仏教者はすべてを空なりと説きたるならん。仏教の一切空とはすべてを知らずと云ふ言葉に帰するの他なかるべし。 知らざる境地を空と云ふならん。 知れば空にはあらざるなり。 一切すべて計り知れざる境地を空と云ふならば、空の理論を究めずば空も空となる。その空を知るものは誰ぞ。 又その空を作りたるものは誰ぞと深く追究するならば、ここに又妙味しんしんとして尽きざるものあらん。 すべては教主の教へによつてこの解決を計るべし。


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斯るまぎらはしき方面に諸子の心を引き入るるも、すべては空のはたらきなり。変化性絶対も不変性絶対に包和せられあるが故に、変化性絶対が現出せられ居るなり。変化性絶対は既に空の中に存在する、空の実在なり。故に空の相対も帰するところは、不変性絶対の流れによって働らかせられ居る事に留意せざるべからず。 変化性絶対変化性相対すべて不変性絶対の中にありて、空の実在化となり居る点より、空の中にも空の実在あることに気附かざるべからず。空しとの言葉は、無のなき迄の意味ならん。此言葉と雖も徹底したる無の言葉にあらず。何処迄口にすとも無きものはなしの連続となるのみにて、最後の終点を求むること難からん。無きもの無か、或は無と云ふ言葉なしの意味か、曖昧なる言語にして、俗言に云ふからつぽにすぎず。然して何もあらざると云ふに尽き居るならん。空の研究を進めなばあるものなしの点を、発見すること難きが故なり。諸子は絶対無とか、有を伴はざる無とか、称し居れど斯るものはあらざるなり。 何とならば斯るもののあるならば、無始終霊子もあらざる地点を作らざるべからず。 斯る処を如何にたづね求むるとも、無始終霊子なるが故に知ること難し。 無を伴はざる絶対無、有を伴はざる絶対有とは、即ち無言詞を指すの他なきなり。仮に是を絶対境と考ふるも差支なからん。もし其以上の処あるならば其は神に於ても是を応用なし給はざるべし。又神を措いては他に知るものもなからん。 又人類としてかかる処を探り求めんとなすの要もなからん。 無始終霊子を絶対として考ふれば、其にて神の世界をも知ることを得るによって、其以上追究して迄考察する必要はあらざるなり。 全宇宙は無始終霊子の備はりなるが故に、是を不変性絶対と云ふなり。 無始終霊子の不変性絶対の中に、変化性絶対のあらはれありとして考究せば、其以上の研究は神となるにあらざればなすこと難し。教主と雖も其以上は語り給はざるべし。又語らずともその処迄認識する力備はらば、其にて天界のすべては明らかに知ることを得、又自由自在に往行することを得るによって、安楽境は求め得られて永久不変の居に、置るるこ

とは疑いなきなり。


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