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絶対界 巻の三 絶対界とは如何なるところか P195〜198

界 巻の三

絶対界とは如何なるところか


絶対界に生れて絶対界に帰る。 もし其が中途にて絶滅するものならば望を達したりとは云ひ難し。 先にも語りし汝は永久汝なりとの説より是を考察する時、絶対界より絶対界にかへるは是その言葉に匹敵す。されど汝に出でて他の彼に変化せば、其は中途挫折して目的を達したるにあらず。 さりながら絶対界より生れたる汝ならば、最後に至って絶対界に帰るの順路あることは察せられるならん。ここに迷ひの生ずるなり。絶対に生れて絶対に至らば、生れし時の絶対と到りし処の絶対とには、相違ありやについて、又新らしき考へを起さざるべからず。 去年の元旦と今年の元旦とは元旦と云ふ言葉に於て同じけれど、事実に於て去年と今年の相違あらん。此事柄より生れし時の絶対と死しての後の絶対とは、等しからずとの疑問を起すは当然なるべし。然りとせば絶対と云ふに対して、不変と云ふ言葉は成立せざるべし。生れし絶対死しての絶対、其が等しからずとならば、絶対にも二種、或は三種の関係ありやとの疑問を起すは当然なるべし。 さりながら諸子の考へは未だ相対考へをぬけきらずしての、考へよりこの疑問を生ずるなり。 何となれば生れて死す。 これ時間空間を考慮し居るが故なり。地球は太陽の周囲を一廻転するには一年の月日を要す。是時間空間を有するが故なり。 去年と今年の相違を考ふるも、是又時間を想像するが故なるべし。 もし是等に対して時間空間をとり去りて、考究する知慧のそなはりが諸子にありや。 先に円海が神も知らざるならんと言ひし言葉に対して諸子は如何に考ふるや。諸子の信仰は相対性の考へより、神を眺め居ること多し。諸子は己にして己を


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知らずと云ひしに対しても、末ださとるところあらざるなり。円海が己末だ地上に生をうけ居りし古き昔を思ひ出して、諸子の心をさとり居るが故に、斯く語りしも決して偽はりの言葉にてはあらざるなり。 神を措いては他に知るものなからんと云へる言葉あり。其言葉あるに不拘何故円海が斯る言葉を用いしや。円海の言葉は即ち諸子への促しの意味と、他にめざめしめんが為の心より斯くは語りしなり。然るにこの言葉に対して諸子は反射力を起して反問なしたるにはあらざるか。是即ち諸子は心を神にむけたる故なり。諸子は、神は凡てを知らざることなしと思ひ居ながら、何故神の眼をくらます如き行ひをなすや。所謂神は知らじと思ふ心より行ひしか。 然らずば神を疎んずる心より斯る行ひをなし居るがの二つなるべし。然りとせば神を神とせず、神を粗略になし居ることを意味するによって、円海はこの言葉もて汝等の心を引き戻したるに過ぎざるなり。すべて空なるものにて眼に見ることのあたはざる神の存在を、彼是論議するとも証拠だつるもののあらざるが故に、神も知らざる事あるならんと語るとも、神は知ると語るとも唯空論にすぎざる故なり。神は知ると思ふも知らずと思ふも、 其等は諸子の心に神あるか、或は神なきかの二つより出づる言葉にすぎず。諸子の信仰は相対性なるが故に、神は知らずとの言葉ありとも敢て咎むるところなからん。是を絶対信仰より語るならば、即ち神は知り給はざるところなしと云ふ結論となるなり。諸子の信仰は相対なるが故に、円海はかく語りしに他ならず。されば一層眼を深くして神は知り給はざることなしとの境地に迄、進みなば何とて不善の行ひをなすべきことあらんや。諸子は日々善行をなし又は悪行をも敢てするは、即ち相対性信仰の現はれにて、末だ絶対信仰とはなり居らざることを考へて、ここに一段信仰の度を高めよと云ふ意味より円海は斯くも

教へたるなり。五月 (昭和二十五年) 二十七日のこだま会に於て泰岳が諸子に教へたる呪(まじない)に対して、此呪(まじない)の何なるかを絶対信仰より見るならば、その尊き教へに感謝するならん。然るに諸子は未だ相対信仰より度脱しあらねば、その意味は察すること難からん。 こだま会の中にて慈音のみが教へを受けざりしは何故ぞ。慈音に聞かすの要なければ泰


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岳は彼の耳をふさぎたるなり。この例に徹しても諸子は一工夫せざるべからず。 絶対の原理をさとりて、其絶対を目標として進むことによって、目的は成就するなり。是を名づけて絶対より絶対に至ると云ふなり。絶対より絶対へ方向をむけ居らば、すべては絶対にして不変なり。是即ち無始終霊子より、無始終霊子を追ひ求めて尽きることなし。此境地に至ってこそ、初じめて諸子は絶対境に移されたる結果となるなり。諸子の到達するところは絶対にして、 出発せしところも絶対なりしことの理を覚らば、其にて諸子は肉体を有しながら既に絶対界の境地に移されたる人となりたるにて、ここに始めて望は達せられたることに留意せよ。然して其さとりを貯へ居らば、永久神の子として神の許を離るるものにあらず。其後は神より恵まるる徳の稔りが完全となり行きて、ここに初めて神の家に帰る事を許さるるなりと知らば、さとりとはむづかしき理論あるにあらず。 教へられて然あるかとのみの考へにて、何日迄も其教への姿を見守り居りては、無用の書物を眺め居るにすぎず。其書によって己その程度迄至るにあらざれば、真の理を明らむること難し。 知るのみにて行はずば食を眺めて喰はざるに等し。味をききて喰はずば味は味はるるものにあらず。要は食するの他なかるべし。故に早く喰ひてその味を知るべし。

前より語り来りたる如く諸子の考へにては絶対とは、すべて行き詰りとなりたる所を想像するならん。 我等の語る絶対とは行きづまりを指すにあらず。 絶対より相対、相対より又絶対にかへりなば、其ところこそ極致なるが故に、以上進むことあたはず、故に其居を指して絶対と考ふるならば、其は行き詰りにして絶対にはあらざるなり。又かかるところに到達するならば不変性なるが故に、決して安楽の場所とは云ひ難し。所謂死ぬと云ふ他なかるべし。死すと云ふは止まるの意味ならん。即ち止まり止むの意味なるが故に死したるならん。 斯るところを絶対と考ふるが故に、諸子の心は安からざるなり。最後の地点が行きづまりとならば、其は修行するの必要もあらざるなり。 我等の語る全宇宙は無始終なるが故に、絶対と教へ居るにて是を正しく認識するにあらざれば、絶対の意味を曲解して迷ふは


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当然なり。無始終なるが故に絶対と云ふなり。行づまりを指すにあらず。この意味は容易にさとることは難からん。

よって修行せよと云ふなり。 修養修行の力加はらずば、この意味を把握すること得ざるは当然なり。即ち絶対なるが故なり。絶対性原理とは無始終界を指すにて、此事柄をさとらんが為の修養修行に他ならず。諸子は一時的然あるかとのみの考へにて終らば其は行きづまりにて絶対にはあらざるなり。絶対なるが故に果しなく尽きる所あらざるによって、我等は是を絶対と名づけ居るなり。迷ふと云ふも絶対自然の現はれにして、迷はずと云ふも同様なり。故に迷ふとか迷はずとか云ふが如き言葉もて、知らしめんと計るとも、決して諸子の心に貫徹するものにあらず。諸子の魂にこれを明らめしめずば、到底言葉にては明らむること難き故なり。されど是が魂によってその真を探ることを得ば、 此処に初めて絶対の何なるかは知る事を得るなり。絶対を知らんとならば到底諸子の世界の言葉にてはさとり得るものにあらず。 言葉なきさとりにあらざれば絶対を知ること難し。 現在学者間に於て絶対とは是なりとか、相対性原理は是なりとか語り居れど、 其等を我等に云はしむれば相対性絶対を語り居るにて、絶対性絶対にあらざるなり。相対即絶対絶対即相対とは、即ち真の絶対にあらず。帰するところは相対性絶対に他ならざる故なり。 現在の学問は相対性絶対を語り居るにすぎずして、真の絶対を明らかになし居る学問にはあらざるなり。故に無より無を追ふて追究せられなぼ、語ることを得ざるならん。有に於ても同様の関係となるなり。有無に関してすら、是を絶対化せしめて語ることを得ざる学問にて、到底真の絶対を語ること難からん。 是等はすべて言葉の至らざるが故なり。故に真の絶対を知らんとならば無言詞界の教へを受けずば、絶対の何なるかはさとること難し。されば教主によって教へを受けよ。


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