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絶対界 第十章 霊気と霊気の交はりに就いてP166〜173

十章

霊気と霊気の交はりに就いて


肉眼には光を伴ふ。肉耳に於ても是に類する関係あるなり。故に物体に遮ぎらるれば見聞することあたはず。然るに霊気は実間空間を嫌はず通ずるが故に、あます所あらずして感応導交するなり。一如と云ふは即ち霊気ならでは、一如とはなり難し。赤子を知らんとならば、赤子の程度迄尺度を合はせて是にあたれば、その何なるかを知ることを得るなり。 幼児小児は壮者老者の心状を知ることを得ざるも、その尺度が及ばざる故なり。 其が次第に年長けて尺度の具備長くなるに及んで、すべてを知るに至る。 是を名づけて個性をのばすと云ふなり。されど霊子の力は単位より計算し行くならば、 如何に変化なすと雖も長短によって計る事は至難にあらず。

不滅母によって作られたる諸子の肉体の中に、更に魂と云ふ別個の種子が蒔かれて、其が次第に成長し行くも、皆


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不滅母霊子のはたらきに他ならず。 魂あるが故に知慧のはたらきが、出現して是を育つ。是又不滅母のはたらきなり。前にも語りし如く是等は無始終霊子の存在するによって、かくも微妙なる実体に化せられ来りたるなり。霊気とは知慧のみに限らず、空実共に有する或一種の化合せる、空の気体なりと見て差支なからん。 この事柄に対して説明するには、新らしき言葉の数々を設けずば判明し難からん。是等を詳細に研究せんとせば霊気学とも称すべき、一種の書物を以て講ずるにあらざれば理解することは至難なり。されどここには其等の必要なければ、唯霊気として語りおくに止むべし。実に対しては実の霊気あり。空に対しては空の霊気ありとのみ知りおかば可ならん。先にも語りし如く、諸子は円海の話を聞くにあたり肉眼にて慈音を眺め、心眼にて円海を見んとする如きは、是即ち空実の同時にはたらき居る姿なりと見ばうなずく所あるならん。されば空実一体化して、霊気交はるにあらざれば、通ぜざる事の理も察せられるならん。空のみ通じ実是に伴はずば、一方的となる故に通ぜず。実に於ても同様の関係あるなり。

日本には相撲取りと云ふ力比べするものあらん。是等を見るに行司と称するもの、相方の態度を見守りて気を計り、然して気合すれば、合図をなして相撲しむるならん。 肉体の技に於てすら空実の尺度あるにてはあらざるか。その行司と称するものの心が乱れて是を見る事あたはずば、力士は相撲こと難からん。是等は、遊戯の如く思はるれど、修養修行の材料として研する時、何か其処に大なる真理を発見する事を得らるるにてはあらざるか。両力士が互に眼と眼を見張りて、相互に相手方の技を看破せんとなし居る姿を、行司が程よき所にて一致点を見出して、是に相撲しむる、所謂三味一体の境地に至って、はじめて勝敗を決す。 勝敗を決する時間は僅小なれど、三味一体となる迄の時間は長し。 ここに至って霊気の力の、如何に大なるかを知らざるべからず。彼等は相撲に到る迄の間に、既に全身汗をなし居るにてはあらざるか。是気の力のはたらきが技術に於て、その影響は、彼等にとりて重大となり居るが故なるべし。 剣道に於ても然あるなり。 真剣勝負とならば、一人は必らず倒る。 生命を賭しての剣なれば、尚更気


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の力の如何によっては、生命に及ぼす重大なる戦ひとなる事は云ふ迄もなからん。 気によって気を計る。気によって気に和す。この事柄に対してはこだま会に於て円海が語りたる如く、或剣士は剣道の師を択ばずして、その極意は禅門の僧より学びたりと語り居るを聞きたり。すべてのためしは斯くの如き小なる所に迄、気のはたらきの大切なるを物語り居るにてはあらざるや。是等の理をすべてに対して広く耳目をむけよ。 然して気によって物事を観察せば、鳥の声は言葉にかはりて聞え、虫の声に至る迄言葉となりて、 諸子の耳にも伝はらん。 動物の声又然あるなり。然して其等のすべてが言葉となりて、 諸子の耳に伝はる時、更に其等に対して思ひやりの心に化せられて彼等に対しても、憐みの手は差し延べらるる道理あらん。 天眼通地眼通と云ふはこの理より推測すれば、明らかに覚る事を得ん。 是には法あり。法とは別段不思議なる術を用ゆるにあらず。 諸子の心の用いかたの如何によって自得することを得るなり。

我等常に語り居る如く全宇宙は善悪邪正を問はず、凡てが完備せられ居るが故に、皆其々に適合したる方法を用ゆればすべてに通ず。是を霊のはたらきと云ふ。霊とは絶対を云ふなり。故に霊は悪魔をも知り、神をも知る。善に用ゆれば善となり、悪に用ゆれば悪となる。善悪邪正を嫌はず、霊は是に従ふと云ふは、絶対の具備なるが故なり。諸子の言葉に「天網恢々疎而不失」と云ふことあらん。又「人盛なれば天に勝ち、天定まりて人に勝つ」と、云ふ言葉もあるならん。 全宇宙は斯くの如くすべて完備なし居るが故に理に合へば法によって凡ては成立するなり。 唯異なるところは結果に於てあるのみ。是を仏教者が善因善果 悪因悪果と称し居るなり。 みなすべて神の法なり。悪魔と雖も法を用ゆるが故に、通ずるなり。悪魔は悪法を用いて世を乱さんと企み居れど、結果に於て悪は亡ぶるが故に其は永久ならず。善法と雖も是に類することなからずあるなり。霊は善にもくみし悪にもくみす。されど絶対なるが故に用ゆれば通ずれど霊は直ちに絶対に帰るが故に、善悪邪正を間はず、是に染まることあらずして、唯行ひに対しては


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たらきをなすに他ならざるなり。 諸子は魂を霊に融合せしむる事に依て、法は自然に会得する事を得るなり。 学びてなし得る法は、一時的のものにて永久的にあらず。 学ばずして自得したる法ならでは、永久不変とは云ひ難し。 絶対なる霊に化せられて初じめて、魂は完全さとり得るなり。 さとりを得ば、法は自づと得らるるものにて、学ばんとしてなし得らるる法にあらず。 学ばずして自得する法を求めよと教わるものなり。行者の如く雲を喚びて天かけり空かけるとも、誤まてば転落す。 是法力の尽きたる故なり。 学ばずして霊化したる法は天かけり空かけるとも、決して転落するものにあらず。斯く語らば諸子は不審するならん。されどさとり見れば訳もなきことにて、むづかしき事にはあらざるなり。五月十三日(昭和二十五年) こだま会に於て円海が語りし如く、体温計を零度迄下ぐる底の修行せよと教へたり。常に心を平にして、心と魂と平均させ、更に進んで魂を霊にまかせる方法を、暗に教へたるなり。 心乱さずば魂の光は赫々と輝く。恰も雲晴れて太陽を見る如く、明朗となるなり。 ちぢに心を砕く故に、雲は起り日をさへぎり、果ては雨を喚び風を起すに至るなり。されど人には心と云ふ雲の備はりあるによつて、日々断間なく空を行くならん。されど其雲を濃くせざる修行を名づけて、平常心と云ふなり。 うすき雲は一時太陽をさへぎれど須臾にして遥に飛散す。一日のうち空に一点の雲も見ずと云ふ時間はすくなかるべし。諸子の心も其と同様なり。肉体の関係にて種々様々の思ひより気圧の現象が或は低気圧となり、或は高気圧となりて雨を降らす事もあらん。されど其等は自然にまかせて、心の雲を安らかならしめ居らば、暴風雨の起る事あらざるべし。 肉体のある以上肉体より受くる影響は、斯くの如き関係あるによって、心の雲を起すこと多けれど、其を成可く平になして、太陽の恵を受くる方向に

努力なし居らば其にて可なり。然してその太陽に相当する魂が、霊気に和すれば、低気圧などは霊気によって飛散す。故に明朗なる日々を送ることを得るなり。斯くして赫々たる光明に浴し居らば、学ばずとも法は得らる。その法と云ふは、霊の力あるによつてなり。是は理に似て理にあらずと諸子は考ふるならん。されど事実は事実にして理窟


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にはあらざるなり。 魂の眼明らかとならば天眼地眼は得らる。先づこの眼を開く事に努力せよ。 諸子の如く動物性本能に囚はれ居りては到底この居に達することを得ざるなり。早く動物性をすてて人間性本能に生れかはらんことに努力せよ。

徒らに彼是と理窟をならべて批判し居らば、動物性より度脱すること思いもよらず。理窟をぬきにして兎に角心の眼を、魂に迄進めしめよと奨むるものなり。然せば学ばずとも法は得らる。是我等の体験によって得たるままを諸子に伝ふるにすぎざるなり。肉眼肉耳の失はれたる人は触覚によってすべてを見る。 是を見て正眼正耳の人は不審するならん。一方に欠陥あれば一方に、又是を鑑別する備はりがはたらくによつてなり。是自然の法なり。彼等は学ばずして法を会得したる故に、鑑別する事を得るなり。敢て不審するには足らざるなり。 是等と雖も皆魂の具はりあるによって行はるると知るならば、ここに何か大なる考へをめぐらして早く己が有する魂を発見する道を構ぜよ。然る時は必らずや、霊の力是に和して、法を自然に教ゆるが故に、自づとさとる事を得るなり。

学びて得たる法と、学ばずして自得する法の二種あるは、魂の作用と心の作用との区別あるによって、ここに相違あることも推して知るならん。 学びて知るは心にして、学ばずしてさとるは魂なり。故に魂ならざるべからず。霊は心にも通じ魂にも通ず。この事柄は「末知日記」前書にくはしく語りたれば、諸子はすでに認知なし居るならん。されば魂を霊にかへす方法を構ぜずば、無言詞の如何なるかを知ること難し。霊界とは無言詞界なり。魂は是を受けて言葉に組織してすべてに通ぜしめ居るが故に、実在的となりて現はる。魂を霊によって育つるにあらざれば、完全なる結果は得られざることの理も、推して察するならん。霊界は終始なきが故に、この所に魂をおかば、永久生死の苦はあらざるなり。是を安楽界と云ふなり。 又自由の世界とも見て可ならん。 故に魂は霊に返すことによって、不滅となるなり。霊に返すことをせざれば、生死の苦を伴ふ。故に迷ふなり。 魂の本体は霊に通ずることは、すでに説き


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たり。されど未熟の魂ならば、不完全なるが故に、霊に帰せしむるともそのはたらきはにぶし。 故に迷ふなり。此理を知らずして諸子は一生を空しくなし居るが故に、浮住界の悩みを受けて、苦より苦と苦みに移され生死の間をさまよひ行くが故に、滅不滅の関係は繰り返されて果なく持続するは憐むべきことにてはあらざるか。もとより霊の余力を受けて育ちたる魂なるが故に、かかる悩みは持続するなり。すべてを霊に任せて魂を完全ならしむれば、斯る憂ひはあらざるなり。 我等は諸子をしてこの苦患よりまぬがれしめんが為に、肉体を有する諸子に対してこの事を伝へ教へて、然して不滅の地に到らしめん事を命ぜられて、 諸子を導き居るなり。現に円海のミキョウは多くの魂をあづかりて、或は天界に或は下界に、其々運び居る任務をなし居りて分時も彼は怠らず。 忙がしく働き居るなり。 是等はミキョウのみにあらず。 セイキヨウも同様の任務をなし居るなり。されどセイキョウとミキョウとの役目は又別個の関係あるによって、その趣きを異になし居ること云ふ迄もなし。 我、テッシン又同様の任務をなし居るなり。 天界は複雑なれど皆それぞれの事柄に対して、其に相当する任務者の働きありて、一糸れず整理なし居るが故に、一見何事もなきが如く見ゆれども、霊界の忙しさは筆舌の及ぶべきところにあらず。 諸子は眠りたければいねもし、遊びたくば遊びもなせど、我等には斯る余裕はあらざるなり。諸子は日々忙がしく働き居るが如く見ゆれど、遊ぶ時間は働く時間に比べて非常に多し。 二十四時間のうち働く時間は僅かに二三時間に過ぎざるなり。或者は一時間乃至三十分の働きにて終り居るものすらあるなり。 我等の眼より見る時は一日全部諸子は、遊び居るなり。 我等は食するにあらず、いぬるにあらず、遊ぶにあらず。是を諸子の世界にて云ふならば、一日二十四時間全部働きをなし居るなり。 斯くして疲労を感ずることなく嬉々として任務に服し居るなり。 諸子はかかる事をなし得るやを考へ見よ。 諸子ならば天界などに赴きて斯くも忙がしければ安楽などとは、夢にも考へられずと思ふならん。 諸子の日々はたらき居るは働きにあらずして、遊び居るが故なり。 誰かがあらはしたる天国地獄と云ふ作文の中に、極楽に赴きて始めは楽しかり


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しが、日を経るに従ひて倦怠を感じ、軈て其が嵩じて悪事をなして地獄に堕ち行く小説を我等は見たり。斯る極楽は空想的の極楽にて、真の極楽を知らざるが故なり。 永久不滅なるが故に働きは楽し。 働かざるが故に倦怠を感ずるなり。是等の事柄の詳細は教主によって、更に諸子が思いもよらざる教へを受くるならん。話はいささか横道に入りたる感あり。

心の気、魂の気、霊の気、すべては気なり。心気と霊気と交はらしめ、或は魂気と心気と交はらしめ、或は魂気と霊気と交はらしめ、或は心魂霊の三つの気を交はらしむる事の相違ある事に考へを移して、研究せざるべからず。心気は霊気を受けて働らく。されどその交はりの厚きとうすきの相違によって、時には心気のみはたらき居る為、霊気はうすくして力を少なくする事は、諸子は日々体験するところなるべし。心気と霊気と密接に交はらしめて働き居る人を、名づけて賢者と云ふ。言葉を俗化すれば利巧なる人とか、或は小利口なる人とか云へる類のものは、即ち心気と霊気の交はりの厚きを云ふにて、患者と云ひ或は痴者と云へる類は、霊気の交はりにぶきを云ふならん。 もとより霊気は交はり厚ければ是に従ひ、うすければ又是に従ふ。魂を忘れがちなる諸子なるが故に、心のみ忙がしく働かせ居るによって或は悲しみ、 或は怒り、或は倦怠を感じ、或は、眠りを催す等々の事多し。 其が一度魂の働き現はるる時、ここに又一段変りたる姿となるなり。 例へば諸子は一つの心配事ありて思案に及ばず、沈思黙考して深く悩みを重ねる時、ここに又新らしき道は開かれて、その悩みが解除せらるる如き体験はあるならん。 所謂窮すれば通ずの比喩に洩れず、斯ることはたま々々あるなり。其時こそ魂は働きをなしたるにて、その魂が霊によって方法を知り、然して魂より更に心に及ぼして、その悩みを解決する事を得たるなり。

此体験に基きて日々の修養修行に心して思ひを致すならば、魂の在処を知ること易からん。然して常に魂と霊との交はりを厚くすることによって、心の働きなど如何に変化すとも、是をゆるす明らめをなしたる人こそ、確かなるさ


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とりを得たるにて、心の用法に対して彼是と迷ひを深くする間は、 末だ魂を知らざる故なりと思ひて、深く行ぜんことに努力せられよ。

とりわけ心の気と、魂の気とのみ交はり居る人には神懸りとか、或は悪事を企む人の多きは霊気がにぶき故なり。末知日記前書に語りし如く心にも二種あり。 又魂にも二種ある事は既に諸子も知るところならん。即ち心意魂魄を云ふなり。其が心気と魂気とのみ交はらば、従つて霊気も亦一方的となるによって悪人ともなり、又狂人の如く神懸りとか称する如き姿となるなり。 是等を応用したる法には合気の術とか、或は気合術とか、又は催眠術等の如き事をあらはす術となるなり。即ち気に依て気を制すと云ふは、一方的なるが故なり。 名づけて是を抑圧法と云ふ。小児を叱りて屈服せしむる親の姿は是なり。命令的に人を屈服せしむるは心魂の気をはたらかすることによって、かかる一方的の姿となるなり。 心意魂魄の気和すれば、自然にそなはる威徳にて、命令せずとも従はしめんとならば従はしめ、開放せんとならば開放すること自在となるなり。心意魂魄和して霊気加はらば、其にてすべての法は、自づと覚り知ることを得るなり。 心魂の気或は意魄の気のみ和するならば、学ばずば法は得られじ。 諸子は未知日記全巻を熟読して、更に一工夫せられん事を。

子に対する親心は善良なる人間に育てんとして、心魂の気をはたらかするのみならば、或は叱り或は鞭打つ等の法を以てせざるべからず。是と反対に意魄の気のみ和して育つるならば、其は俗に云ふ動物愛となりて是又完全に育つる事を得ざるなり。俗に云ふあまやかすと云ふに他ならざるが故なり。意魄は愛を意味するが故なり。是等はすべて霊気の和しかたの相違にて、その範囲もきめて広し。詳細に語り居らば枚挙に暇なし。依って是等は省略す。されど我等の云はんとする霊気と霊気の交はりと云ふは、更に別個の関係あるなり。即ち心魂をはなれて、霊気に順ずる和しかたを云ふと知るべし。 是は非常にむづかしき論説にして、諸子には解しがたからんと思へど研究せば、自づと


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