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絶対界 第四講 神我一体によって真の自由は得らるるやP215〜220

第四講

神我一体によって真の自由は得らるるや


此講目の如く神我一体とならば不自由の束縛は解かれて解放せらるるやと云ふに対し、諸子は更に迷ひを深くするならん。神ありと思ふ心にすら不自由を感ずるに、神に交はらば尚更窮窟となりて、己が欲するがままの行動はなし難からんとの思ひを抱くならん。 諸子は神ありと思ふは唯思ひのみにて悟りたるにあらず。己が行為の正しからざる


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場合、心には不善なりと思ひつつ、その不善を敢てするにてはあらざるか。 心に不善と考ふる時は、其は神ありと思ふのみにて、その不善を敢てするは神を知りながら否神を恐れつつ誤ちを犯すなり。 斯ることは屢々体験するところ

ならん。悪きと知りて不善を企つ。悪きと知るは神を知るなり。是を行為に移すは神を離るるなり。汝の魂は汝が心を知る。汝の心は汝の魂を知る。その故にこそ心魂互に争ひを交へ居るによつて是一体化にあらず。 故に魂の束縛に縛ばられて苦むなり。 魂心一如の生活をなし居るならば、親しみ睦みて行動を共になすによつて、善行は営れ悪行は捨てらるるが故に、反目する憂あらねばすべては自由自在の身となりて、ここに不自由の束縛は解放かれたるなり。

末知日記前巻に於て親に不孝をなしたるものの子が、不孝なせし親に対して孝行の取扱ひをなし、却て良心の苟責にせめられて苦みと云ふ例話あるならん。 不孝の子が孝行の子によって縛られたる苛責のなわは、その苦みの程度は諸子には察せらるるや。 常に語り居る如く人の性は善なり。 その善と云ふは即ち魂を指すなり。不善を犯すは心にして、その魂より心が縛ばられて苦み悶え居れど、是を魂に返して共に一体化して道を歩まば、其束縛は解かれたる事の理は察せられるならん。

わづか諸子の肉体に宿れる魂と心の一致によりてすら、自由は得らるる道理より、ここに一段思慮を深くして霊に及ぼすことに努力せば、その力の偉大さは想像にあまりあらん。 諸子は己に有する魂を余りに低く評価なし居るが故に、魂と神との関係をはるかに遠きものとして神と我とは到底一体化するなどとは考へず。故に諸子は神より遠ざかり居て、勝手気儘の行ひをなす為不自由の世渡りをなし居ることは察せられるならん。 心と魂の如き関係より、更に進んで魂と霊に移して是を更に延長して、霊と神に通ぜしむれば、心魂霊神一体化なすことは難きことにはあらざるならん。 故に順序として心魂一体の修行をなし、 終つて魂霊の修行にうつり、然して霊神の交はりを深くすることによつて、ここに初めてすべては完成す。されば基礎となるべき心魂一体の方法を知りて、其によって行じ居らば、


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第二段の魂霊一体は学ばずともなし遂げらるることは云ふ迄もなし。 魂霊一体の法を知るをさとりと云ふなり。 さとれば最早霊神一体の法など自づと自得するによって、ここに初めて神を知るに至る。 故に大切なるものは心魂一体の法にして、又その行の困難なることは筆舌の及ばざる程苦き行をなさざるべからず。 是が完成すれば最早魂霊の一体化など至つて容易となりて、その後はさまでむづかしき苦みを味はずとも望は達せられると承知せよ。

心魂の一体化は至極簡単の如く感じらるれど事実は左にあらず。 仏書にもあるく煩悩の犬は追へ共去らず。 菩提の鹿は招けども来らずと云ふ言葉もあるなり。即ち雑念妄想は容易に失するものにあらず。 明らかなる光明はその雲にとざされて光は容易に輝きを増すことの困難なるを教へたるものならん。 肉体と魂の間にある心が、雲の如く常に魂の光をさへぎり居るが故に、心魂一体の修行は困難となるなり。 心を空にして、魂の光を肉体に輝かせることによつて、初めて心魂一体の望は達せられると承知せよ。この理は誰にも理解することを得るに不拘、事実に於てなし得られざるは、そこに何か一種の妨害となるべきものの存在なし居ることに意を用いざるべからず。 理解することを得れど法を知らざるが故に、苦しむなりと語り居るを我等は耳にす。理論と事実とに於て是が一致せずば理も理にあらず。されば是には何か一種の法なかるべからず。雲を払ふには風ある如く、心の迷ひを晴らすには風に相当するものもあるならん。迷ひを晴らすは明らめなるべし。この迷ひにはこの明らめあり。 彼の迷ひには彼の明らめなかるべからず。故に是等を明らめんとせば即ち修養修行の力なくんば得ること難からん。是には指導者を択ぶの要あらん。

其は兎に角神我一体によって真の自由の得らるることは理解したるならん。 小我をすてて大我を得よと云へる言葉は、即ち心をすてて魂を得よとの教へなるべし。是を更に延長して小魂をすてて大霊を求めよ。 更に進んで小霊をすてて、 大神を求めよと云ふに迄行ぜざるべからず。是を要約すれば、小自然を捨てて、大自然に順ぜよと云ふ言葉に尽きるならん。 諸子は是を机上の空論と思ふや。我等は然とは思はざるなり。 末来は遠し。諸子は未だ小さき心をす


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てかねて、其にのみ囚はれ居るにてはあらざるか。日々の世渡りに於ても彼是わづかなることに囚はれて、其にのみ拘泥して或は嘆き或は喜悦ぶ。 或は怒り唯徒事に心を労し居りては、我等の説を聞きても机上の空論と思ふの他なかるべし。 早くめざめて広大無辺の霊界にまなこをむけよ。 然して机上の空論と思ふことを早く事実に於て、体得せられん事を我等は望むものなり。

諸子の信仰は余りに小さし。 彼の神を信じて福徳を得んとか、此神を信じて病苦を払はんとか云ふが如き些細なる信仰にては、我等の説を聞きても机上の空論と思ふの他なかるべし。我等の語るところはかかる微々たる事柄を彼是論ずるものにあらず。 諸子は霊の研究せんとか、霊を科学的に研究せんとか云ふが如き愚昧なる事柄を、誇大なる如く吹聴し居るは、実に滑稽至極の事にて、我等に云はしむれば、大海に一疋の小魚を探り居るに等しと云ふの他なからん。 今少しく智慧をはたらかせて、霊の本体を明らめよ。

近来の科学者が心霊とか称して、妖怪を彼是論じ居る如き愚昧なるいたづら事は、恰も小児が玩具を以て遊ぶに等し。斯るものは霊にあらず。故に斯る考へを以て研究なし居る間は、到底霊はおろか神を知る如きことは及びもつかざるなり。 既に二流界の人類ともならば斯るたはむれごとは小児と雖もなさざるなり。 諸子の世界に於ては迷信とか盲信とか、たはけたることを如何にも誇大に吹聴する如き愚者は余りに多し。 斯ることにて如何に霊を研究すとも、到底霊の端緒すら知ること難からん。呵々。

宗教者は諸子に向ひて活眼を開らきて天の高きを見よ。 又眼をおとして地の低きを見よなど語り居れど、宗教者にして真の天を眺め地を眺め居るものありやと、我等は疑はざるを得ざるなり。諸子の中には天の高きと云へば唯星をながめて彼是論じ居るのみにて、正しき天の高きを活眼によりて眺め得る人はあらざるなり。 天の威徳は魂霊一体となるにあらざれば到底計り知ること難し。諸子は心をのみはたらかせて肉体の神経に和して、身心一体の生活をなし


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居るによって見る眼はせまし。さればこそ望遠鏡をかり、或は顕微鏡によつて肉眼より心に通ぜしめすば、見ることあたはず。よし見えたりとするも其は微々たるものにて取るに足らず。わづか機械の力のはたらきにすぎざれば、かかることはもとより論ずるに足らざるなり。見ることあたはざる天界の真相を、魂霊一体化して見るにあらざれば、全宇宙の如何なるかを語るも、其は机上の空論なりとのみ感ずるの他なからん。教主が無言詞界の様を語らるるに対して、この予備智識を有し居らざれば到底理解することあたはざるべし。 先にも語りし如く儲子は己の空想を是以上考ふるはずと云ふ程度迄拡大して、尚一層拡大力を増進せよと語りしも此事あるによつてなり。 諸子の心は恰も針の穴より天を覗くの譬喩よりも尚小さし。さればこそ狐狸むじな等に誑ささるる等の迷ひを、今尚有し居る人も多し。人間にして動物に劣る如き心にては、天理を究めんなどは思ひもよらず。 斯る迷ひを一掃して心を魂にうつして更に魂を霊に任せよ。 然らずば真の自由は得られざるなり。 我等の語る自由とはなしてならざる事なしと云ふ程度迄進まずば、真の自由とは云ひ難し。 なさんとしてならざる如き自由は、真の自由にあらず。 諸子は勝手気儘の行動をなして、其は真の自由なりと考へ居る如き微々たるものは自由にあらず。 神の法則に従ふが故に、真の自由は得らるるなり。是等の道理は教主によつて明らかに知ることを得るならん。 鳥は空を飛びまわる。果して其が自由と思ふや。鳥は空を飛べど翼の力衰ふれば地に落つ。斯る事を諸子は真の自由と考へ居るが故に、其は限度を有する自由

にて、正しき自然の自由にはあらざるなり。 神はすべてのものに自由を与へんが為に、不自由なる形をつくり給ひしなり。人に翼をつくり又水掻をつくりて空をかけさせ水を潜らす如き自由を与へんとならば、神は即ち是等をつくり給ふならん。然るに九流界に於て使役せられ居るクウワオなどは、天かけり水をくぐる事をなし得るに不拘、是は動物にて人間にあらざるを見ても、明らかに此理を知ることを得るならん。 汝等は、不自由なる肉体に何を宿され居るや。 肉体の自由を得て其にて満足なし得るものならば、クウワオにも及ばざるものにて、人間としての価値は那辺に


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ありや。是等の理を深く考へ見ば自由とは如何なるものか又自然とは如何なるものかの想像は得らるる筈なり。 現今汝等が世界の自由主義と称し居る法則は、すべて天理に作る主義なるによつて、是は肉体本位の自由となりて、 人間性の自由に欠くるところ多し。 故に争闘の絶間なきなり。 天理に従ひ神に順じて人間性を引き延すならば、真の自由は自ら得らるる道理を早く研究せよ。 諸子の世界は法則をつくりて、その法則の縄に縛られて自由を失ふこと多からん。是等は肉体性自由にて、魂の自由にあらざるが故なり。 肉体の自由を好むが故に、武器を造る。 武器を造りて其によつて、己が肉体を失ふ如きは何と云ふ愚なることぞ。 是等は自然を曲解して、 小自然に順じ居るが故なり。大自然の法則に従ひて真の自由を求めずば、人間としての価値はあらざるなり。神は人間をつくり、其人間をして向上発達なさしめて、是を大自然の方向に向はしめんとして地上に生存せしめたり。其地上の生存はきはめて短かし。 諸子は永遠の望を抱きてその方向に向はずば、地上の苦みははてしなく続きて、何日かは度脱すること思ひもよらず、折角人間に生れし喜びを味ふことすら難からん。さればこそ諸子は人間などに生れしは何故かなど、愚痴をこぼす人多きは是天理をわきまへざるが故なり。 九流界のクウワオは早く任務を終へて動物界を度脱して、人間界に入り度しとの望を抱きつつ生活なし居るにてはあらざるか。然るに諸子はたまたま人間に置れし此喜悦をすら感じざるは、何と云ふあさはかなる知慧ぞと、我等は痛歎するものなり。 諸子の肉体は、人間と云ふ魂を入れある器に等し。その器に囚はれてながく苦みを味ふことの非を早く覚りたるものこそ即ち神の子なるべし。

諸子の世界にて現今幾十億人かの人類あるに不拘、真の人間は先づなしと云ふも敢て過言にはあらざるなり。よしありとするも指折り算ふる程度にて、その指折り算ふる人すら真の人間にはあらじと、我等は、断言して憚らざるなり。さればこそ諸子の世界にては人間を最高位のものとして、其以上のものなしと称へ居るにてはあらざるか。 指折り算ふる程の人類が、我等は真の人間にあらず。 よし人間たりとも我等は最高位のものにあらずと、さとり得たる底


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の人ならでは、真の人間にてはあらざるなり。故に我等は斯くも断言して憚らざるなり。

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