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※確認中 絶対界 第四章 絶対より見たる滅不滅の関係 P50〜57

第四章

絶対より見たる滅不滅の関係


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すべて物事を区分して考ふる時は、何事に限らず分離して其理をきはめずば解釈することはかたし。故に右と云へば左を考へ、我と云はば彼を聯想するによって相対関係となる。今ここに一つのものを見る時我とその物との対照によって、彼是と批判する事を得れど唯その物のみにては、何等想像することはなし難からん。 彼我の区別ありて対照するによつて、彼是と想像力が働きて其より其へと順次延長なし行くことは諸子も体験したるところならん。若しそのものに止まらば何等のはたらきもなさざるべし。 動ぜざる一個のものをそのままになしをかばそれは滅の状態となる。これに対象物を与ふるときはその相手かたが働きを起して、不滅の状態に化せらるるはこれ自然の姿なるべし。

例へば彼と我と坐する時彼は黙して語らず。 我も黙して語らすば、即ち彼我共に静の状態となり居れど、我彼に対して口を開らかば彼又我に答へん。然る時は静より動を生みたる結果とならん。すべては此理に等し。静と思ふも静に

あらず。動と思ふも動にあらずの理窟とならん。 不滅と云はば滅を聯想し、滅と云はぼ不滅を聯想す。かく相互に廻転して尽きるところなし。然りとせばその両者が何れに属するやに思ひを廻らし見よ。 滅不滅共に何れに帰せしむる

事難からん。滅にあらず、不滅にあらずと云はば其は何に帰せしむべきか。滅不滅の中間性は何に相当するや。ここに至って言葉は尽きるならん。 所謂滅不滅の中間性とは何に属するかと聞かれて、これには明確なる言葉ありや。 更

に新らしき言葉を考へざるべからず。唯言葉にては中間性滅不滅と云ふの他なからん。其を明らかに認識することを得せしむる言葉ありや。即ち其は味をきかれて説明に苦しむと同様の関係となるならん。又盲人に色を訊かれて其

に対して理解せしむる言葉もなかるべし。すべて物事絶対性とならば、かくの如くなる関係あるによつて、悟り得る如く又悟り得ざる如き有様なるによって、絶対と相対の関係は非常にむづかしき意味を有す。 諸子は絶対とか相対

とか云へる言葉を口になし居れど、果してその両者の真相を完全に悟り居る人は少なかるべし。 先に語りし如く不動智ならずば絶対とは云ひ難しと、語りし我の言葉に対しても、 諸子は誤認なし居るならん。 不動智或は不動心と云は

ば固着したるものを聯想するによって、其は滅の状態と誤認するならん。 例へば一個の大なる岩石の如きを不動と見なすならば、其は滅の状態にして不滅の絶対にはあらざるべし。大なる岩石はその居にありて動ぜず、動ぜざるが故に何等のはたらきをなさず。 はたらきをなさずして止まり居るは静ならん。静となりて何事もなさざれば、形ありて行ひなき無役のものにして、其は滅したる姿なり。然りとせばその大岩石は絶対の滅と見るも差支なからん。もし大岩石が無限性のものならば如何?即ち絶対滅と見るの他なかるべし。はたして全宇宙に於てかかるものありやについて検討せざるべからず。諸子は全宇宙を絶対不滅と考ふるならば、その不滅のものとは何を物語るかとの疑念を起すならん。滅の絶対不滅の絶対と区分せらるるならば、すべてに対して絶対と云ふ言葉の意味は那辺にあるかとの迷ひも、従つて湧き出づるにはあらざるか。 諸子の語る言葉に春は逝きて春はかへる。花は逝きて花はかへる。されど人は逝きて人はかへらずと云へる言葉を我等は耳にす。果して然あるか。

君は逝きて君は帰らずとならば、春は逝きて春も返へらざるべし。此言葉の意味をむづかしく考ふること勿れ。 さりとて又余りに簡単に考ふること切れ。絶対の原理にはここに大なるさとりの力あるによつてなり。 所謂減すると思


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ふも心の迷ひ、滅せずと云ふも亦心の迷ひに他ならず。然りとせば滅不滅は諸子の心の動揺に過ぎざらん。是を心理学上より推考せば明らかにうなづかるる筈なり。 所謂不動智不動心とならば、これらの事柄は明らかにさとり得る道

理あるなり。故に不動智不動心とは無始終霊子に化せられずば、得らるるものにあらず。諸子の修養とは即ち無始終霊子に化せられずば、正しきさとりは得られざるが故なり。 我等、絶対原理とは即ち無始終霊子を措いて他になしと

語り居るは、此理に基きての説なればよくよく味はれんことを望むものなり。喰はずばその味を知ること難し見えざればその色を知ることも難からん。 我等常に諸子に対して時間空間距離等を考ふること勿れと語り居れど、事実諸子にはその言葉の通ぜざることは百も承知の上なり。諸子は時間空間距離を有する世界に住居て、果してそれ等の事柄を確かにさとり得べき道理なきは当然なり。 我等がかかる事を教ゆるは、却て誤りとなり居ることは万々承知なし居れど、語りをかば何日かはその意味を、悟り得る日のあらん事を慮って語りしにすぎず。 諸子の世界と雖も時間空間距離は考へかたによってはあらざるが故なり。


何となれば諸子はたとひ百年生きたりとてそは分秒にも足らざるならん。 唯生きて唯死すの言葉にすぎず。然りとせば時間空間距離はあらざるなり。今後その生が如何に持続すとも、すべては一睡の夢にすぎず。長きと思ふも長からず、遠しと思ふも遠からず。此事実に徴しても考へかたの相違によつて、時間空間距離はなしとの言葉はこじつけにはあらざるならん。然るにこれを無始終霊子に帰せしむるならば、その生も無始終に化せられて尽きるところなく、又始まるところもなかるべし。然りとならば永久不変となりて滅せず。 此等こそ絶対と見なして可ならん。 霊魂不滅の原理はここにあるなり。


諸子の魂が無始終霊子の一個と見なさば、即ちその一個の魂は永久不変の魂ならん。故に不滅なり。諸子はものの大小を考ふるが故に、己が魂を大なるものとして想像すれど、その魂が無始終霊子の一個にすぎずと聞かされなば、


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大小軽重の考へより微々たるものなりとして、無意義のものの如く想像するならん。この事柄に関しては日本の神話に見らるる如く、天を摩する大なる神が、僅小小指にも足らぬ神の前にひれ伏すと云へる話より、想像せば知らるる如く、天を摩する程の大なる姿が、小指に足らぬ魂に及ばずとの比喩に徴しても、霊子が如何に小さして何ぞ悔む事のあるべき道理あらんや。又仏教の言葉に細には無限に入り、大には方所を絶すと云ふあり。即ち霊子の力は無限小無限大なることは、宗教を問はず科学に於てもみな一致したる法則なるならん。 霊子の力は絶対なるが故に、宇宙は保たれ居るなり。故に霊子は動にもはたらき静にも通ず。是が拡大せられて種々様々の物体をも作り、又動物などを造り出したるものにて、これが種々様々の変化によって形を変じ居れど、 根原に立ちかへらばすべてはもとの霊子にかへると見なすも可ならん。これ即ち不滅の力あるによつてなり。身心魂に現はれ来る作用のすべては、霊子あるが故なり。この霊子の具備の程度に応じてすべてのものが個々別々に区分せられたる作用をなすは云ふ迄もなし。

動物の魂と人間の魂との相違は、即ち霊子の作用によつて隔りあるなり。 心のはたらき魂のはたらきを指して智慧と見なすならば、智慧の程度に相違あるも、みな霊子の相違によると見なすも差支なからん。 霊子のはたらきの強弱に

よって、智識の程度も従って異なる事の理は、推して察する事を得るならん。此事柄より考へを新らしくせば、減と云ふも不滅と云ふも帰するところは、霊子に帰へると云ふ言葉にすぎず。然りとせば滅と云ふ言葉もなく不滅と云ふ

言葉も成立せざるなり。 滅不滅なければ即ちを絶対と見なして可ならん。 ここに至って初じめて言葉も尽きるなり。この事柄より更に修養の点に於て研究するとき、絶対自力絶対他力と云へる言葉は、何れも帰するところは末だ絶対の境地とはならざるならん。 又是等を区分して絶対他力絶対自力と云へる言葉は、即ち何れも終末他力終末自力の意味には通ずれど、絶対と云ふ言葉は成立せざるべし。故に是等両者を一体化せしめての後にあらざれば、絶対と云ふ境地には移されざるなり。自力と他力が完全に一体化して、自にも通じ他にも通ずる力に化せられずば、絶対の


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力は完全に作用をなすものにあらず。 滅不滅の一体化と同様の姿なるによってなり。

或人、他人に語って曰く、「汝は天の星を見て汝と星とのつながりを知るや。 汝と星とは何等の関係なしと思ふならば、其は誤謬なり。天に輝く一個の星を見て彼は我祖先なりと思ふならば、汝と星とのつながりある結果とも見ら

れ、又是が何等のつながりもなしと思ふならば、 関係は断るる筈なり。 又是を簡単に見るならば関係あればこそ汝の眼に映るならん。所謂縁あるによって星は汝の眼に映るなり。 縁なければ映るものにあらずと。 よし又映りたりとて

その星に心を置かざれば縁は断るるが故に、何等の関係もあらざるならん。恰も水に映ると同様にて一時の現はれにすぎず。されど水に映るも縁あるが敢なるべし。 これ即ち一時の縁にて結ばれたるわづかの関係あるによつてならん。

天に輝く星と地球に立てる汝と遠く隔てありながら、物の見かた考へかたの如何によつては或は縁となり、それによって関係はつながりもし或は断れもするなり。縁と云ふに変りなけれど、 浅きと深きとの相違にて、関係の程度も淡厚の区別あるならん。汝は汝の家に伝はりある系図を見る時、我祖先は何の某なりしと見されあらば、其が汝の脳裡にうつりて、我祖先はかくかくの人なりしと思ふ時、既にその幾代か以前の個人が、汝に現はれ来りたるにてはあらざるか。かく考ふれば死したりと思祖先が今や生きて、汝の心に来りたるならん。 ここに汝の心は動きて祖先の何某を追憶する時、祖先の霊は汝の心中に活躍するにてはあらざるか。汝は是を唯空想にすぎずと思ひて放棄するならん。空想せしむる力は何によって生ぜしや。帰するところは祖先の某が是をなさしめたりと云ふも差支なからん。 天の星を見て是が我祖先なりと考ふるならば、その星と我とのつながりを求めんがために、種々様々の空想をたくましくして、星と汝がつながりを見出す方法もあるならん。 例へば彼の星の霊気が汝の父母に伝はり、その父母より汝が生れたりと考ふれば、星と汝は不可分の間柄とも見なすことを得ん。是空想によって汝と星とのつながりを発


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見することも、こじつけながらなし得るにてはあらざるか。全宇宙の中にありて生存なし居る以上、全宇宙は汝の住居にてはあらざるかと。然りとせば汝と全宇宙は不可分のものならずや。此理をよくよく悟りなば自他の区別はあらざるなりと語りしと云ふ話あり。 或人の語りしと云ふ言葉より諸子は何かさとるべき材料を得たりとは考へざるや。諸子の眼は暗夜に遠くを見ることを得ず。さりながら眼を天にむくれば、何百万里隔ると云ふ星の光を、見る事を得るにてはあらざるや。 暗夜にわづかの距離を隔てたる人形すら見えを眼にて、幾百万里隔たる星の光を見ると云ふ眼に対して、何か又新らしき考へを廻らす時、光が汝の眼に歩み来りしか。汝の眼は彼の光に歩みを進めしかの何れかに属するならん。其は科学上より説明なし得らるれど科学を離れて、これを精神状態より観察する時は、如何なる方向に思ひを致すべきかに迷ふならん。幾百万里隔つとも汝の眼と、彼の星との関係は不可分なるが故に、距離を考へずば恰も幼児が手をあげて是を取らんとするに等しき関

係とは考へざるや。大自然の妙味はここに存す。幾百万里遠きを見る眼を持ちながら、わづか離れし人影を見ることあたはざる眼とを対照する時、大自然の中が如何に不思議なる働きをなすかに意を用いざるべからず。 慈音が天界の

様を見せられたりと語りなば、諸子は嘲笑の心を以て彼に接するならん。 彼は手許にあるものさへ見る事あたはざる不拘、天界の様を見る道理あらんやと思ふは当然の事なるべし。 さりながら眼をあげて見る星は何百万里の遠きを見るに不拘、暗夜の人影すら見ることあたはざると云ふ事柄より、考察する時は不審するには足らざるならん。 自然の具備を認識するならば心眼と肉眼の区別は察せられる道理あるなり。 光を受くる眼に光が歩み来りて是に映じ、その映じたる光が汝の心に感じて、始めて星と云ふものの見ゆるに過ぎず。肉眼見えざれば眼ありて眼なきが如し。完全なる肉眼と不完全なるとの相違にて、見ゆると見えざるとの相違は是みな心のはたらきの如何によると云ふことの理より、その思ひを大自然に帰せしむれば妙味はしんしんとして尽きざるなり。肉眼肉耳の必要なき心魂の眼にすべ


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てを委すにあらざれば、大自然に順応することは難からん。 肉体のはたらきに於ても同様の事柄あるなり。 例へばここに一本の大樹ありとして此木を切らんとならば、多くの人の手をかり、多くの時間を費してこれを切り倒さざる

べからず。若し其が多くの人手にても切り倒すことあたはざる底の木なれば、ここに大なる機械をそなへて是を倒さずば、望みは達し難かるべし。然るに断る大木と雖も時至らば斧を用いず、機械を用いずとも倒るるにてはあらざる

か。斯る大木を作りあぐるにも人工にてはなし難きに不拘、延びるものは伸び、倒るるものは倒る。若し其が時間空間を考へずば瞬間に育ち瞬間に倒るる関係となるならん。 大樹と思ふも大樹にあらず。 大小を考へずば何等不審する

ことあらざるなり。 我斯る愚論をくだくだしく語り居るは、何故かに考慮せられん事を。汝の肉眼は汝の肉耳は汝の肉体は、すべて小さきはたらきの心のみにて斯くる迷ひを多くなし居るなり。 肉体のすべてにはたらく心の力はかく

も迷ひを深くするのみにて、大なるさとりは得られざるなり。 肉体すべてのはたらきのみの心は大抵限度を有す。 是を名づけて動物性本能と云ふなり。筋肉には筋肉の心、五感には五感のはたらきのみにて、其は肉体運動の神経の作

用にすぎず。諸子の日常生活はすべて肉体組織の結合したる作用にすぎず。 所謂その結合したるもの心と思ふは迷ひなり。 肉体の具備に対して是を働かしめ居るものは、神経の結合したる作用にして、足を魂と考へなば大なる誤ち

なりと知るべし。故に肉体失はるればそのはたらきの作用は用をなさざるに至る。故に肉体滅すればその結合せる心も分離されて影を止めず。即ち死するとは働きをなさしむる結合心の分離せられたるに、他ならずと知らば可なり。

されど魂は死するものにあらず。

全宇宙の組織は無始終霊子より気体、更に其等が自然廻転なして寒熱を作り、合して空を現はし、更に水地を出現するに至りたる順序を、逆に返らしむれば、気体となりてはてしなく続く結果となる。 故に魂はこの気体に編入され

て尽きることなきが故に、霊魂は不滅と云ふなり。この理より推して考ふれば、気光素の如何に大切なるかを知るな


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らん。絶対界とは即ち気光素界を云ふにて、 この界に立ち返りて始めて安楽の位置にをかるると知らば可ならん。 気光素はすべてを組織し、 光気素はすべてを破壊すと語り居るは、この理に基きたる理論なりと知らば可なり。

光を気にせしむると気を光に化せしむるとの相違によって、斯くも隔りあることに留意せざるべからず。 光に重点ををかば、気は影となり、気に重点をおかば光は影となる如く、世人の自然と我等が語る自然とには、ここに相違

ある事に注目せよ。世人の思ふ自然とは光気素自然を考へ我等の語る自然とは気光素自然を示めし居るなり。 我等の語る自然は気に重点を置きての説なれば、諸子の思ふ自然とは従つて相違ある事に心せられよ。 諸子の思ふ自然は

光に重点をおきたるが故に、すべては破壊性に傾く。即ち光とは実在を意味し、気とは空を意味すと知らば、 諸子と我等との考へは全く反対となり居ることに気附くならん。 諸子は実を旨とし、空をおろそかになすが故に、世は治ま

らず。 破壊より破壊へと進み居るがために、永久安からぬ生活となり居るなり。 是空に重点ををかざるが故なり。 空に重点をおきたる方法ならば、実これに伴ふが故に、世は安楽となる事は疑ひなからん。

先に語り気にかかる事は早く整理せよと教へしは、この理なるが故なり。 実のために気にかかることを長く止めおくならば、安き日のあるべき筈なし。然るに諸子は実を大切として、気をおろそかになし居るため、何日迄も安き日の来ることなきなり。この事柄には思ひあたる事の数々あらん。 宜しくよく研究せられんことを。兎に角大切なるものは気なり。気とは空を意味す。 実を離れて空に帰するは、即ち光をはなれて気に帰せしめよと云ふことなり。断

く語ればとて空に重点をおき空にばかり囚はれ居りては、実是に伴ふものにあらず。又実に於ても是と同じ関係となる。されば空によりて実を伴ひ、実によりて空を伴ふの何れかを択ばざるべからず。我等の語るところは実を伴ふ空

を重んぜよと云ふなり。是を気光素と云ふ。空を伴ふ実は即ち光気素と知らば可ならん。 気光素と光気素は相似て等しからず。即ち順逆の相違あるによつてなり。


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