hiro-yuのブログ

ユーさんとやり取りするためだけのブログ

絶対界 第十章 霊気と霊気の交はりに就いて P174〜177

自得する道は開らかるる事を知るによって、参考に迄語りおくべし。霊気を知るは魂にあり。 魂の力優れずば霊気に順ずることは難し。是は複雑微妙なる意味を有す。霊気とは先にも語りし如く、すべてに通ずることは諸子も知るところならん。霊気には特殊の作用あるによって、無言詞を有言詞に化せしむる力もあり、又法を作る自然の備はりもすべて霊気によってなされ居ることは、従来より語り来りたる如くなり。たとえば肉体をはなれたる人の魂を見る力は、霊より他にあらざるなり。霊の力備はらずば、すべて無なるものを見ること難し。諸子の中によく語り居る霊魂と云ふは実は霊魂にあらず、錯覚幻影に他ならざるなり。是等は心魂の気によって見るが故に正しき見かたにはあらず。所謂俗に云ふ「幽霊見たり枯尾花」の譬喩に他ならざるなり。真の魂は霊ならでは見ること難し。肉眼を通じて心眼、心眼を通じて魂眼のみにては正しき魂は見ることを得ざるなり。其が今一層深くなりて魂眼を通じて霊眼を開らかしむるにあらざれば、完全なるものは見ることを得ず。この理は既に諸子も解することを得るならん。 されど事実に於て是を見ることを得ずば、机上の空論にすぎざるなり。己・霊界の人となりて、然してすべてを見るにあらざれば、正しきものを見ること難し。 我等が口角泡を飛ばして語り居るはここなり。諸子を天界に導くと云ふは肉眼より心眼、心眼より魂眼、魂眼より霊眼と次第に行をすすむる事によって、初めて霊界の位置に置るる事なりと思はば天界は遠からず、汝生きながらにして天界に到ることを得るなりとの理を語り居るに他ならざるなり。故に肉体失はるれば修養修行は困難なりと、語り居るはこの理なるが故なり。我と慈音が語り居るも、即ち霊と霊の交はりあるが故なり。霊眼の度加はるに従ひて、神の世界に通ずることは、既に末知日記にて語り居る如くなれば、朧気ながらにても諸子はこの理を知ることを得たるならん。故にこの方向に向つて歩みを進めよと教ゆるものなり。汝の魂は汝の肉体に宿る。汝の肉体を汝の魂に委せ、更にその魂を霊に委することによって初めて、天界に往生することを得るなり。往生と云へば忌はしき言葉の如く感ぜられるならん。今も慈音と隣家の母と語るを聞けば、生れし赤子は最早百


-174 -


ヶ日経ちしと云ひしとて是を忌み嫌らひ、又お七夜に命名するを一七日と云ひたりとて、忌み嫌ふと話し居るを我は聞きて、ここに何か無言詞のはたらきのあらざるかと慈音に語りたり。百ヶ日と云へば死を思ひ、百日と云へば別段気にも止めざるならん。 又お七夜と云ふも、一七日と云ふも、同様の関係にて死と生の相違となるが故に、かかる言葉の相違によつて間違ひを生ずること多からん。言葉にはかかる不自由なる区別あり。されど無言詞は然らず。無言詞は複雑なるものの中より、一個の確定したるものを取り出して語るが故に、かかる迷ひはあらざるなり。霊気は汝にも備り又他のすべてのものに備はる。霊気の力すぐれ行かば草木とも語ることを得るなり。されど草木には魂と云ふ具備あらざるが故に、人間の霊気を送るとも彼等には通じても、何事の応答はあらざるなり。是と反対に草木の声は、人の霊気に伝はり来れば、忽ち是を知ることを得るなり。

諸子には知慧うすきが故に「云ふべくして行はれず」とか、或は「云ふは易く行ふは難し」など云ふ言葉あらん。是を我等にはしむれば云ひ得らるるものならば、行はれずと云ふことなしと公言して憚らざるなり。 既に言葉に組織されて語ることを得るならば、行ひてならずと云ふことなきなり。ならざると云ふ事は言葉にては到底、現すことを得ずと云ふ底のものに多し。されど事実に於て行ふことを得るとも言葉に表現すことの至難なること多からん。是諸子の知慧の程度が低き故なり。又言葉の不自由なるにも基因すること多し。慈音の如く無学無智の者にしてありながら、霊気に順ずることを得たるが故に、我等の説を聞きて修養の度をたかめ居るなり。諸子はすべての備はり完全なるが故に、却て種々様々のさまたげに囚はれて、霊気に和することを得ず。和することを得ざるが故に、順ずるこ界も得ざるのみなり。今や諸子の世界には霊に順ぜしめて是に何事をも任せ居る人はあまりに少なし。故に諸子の世とは混乱より混乱へとれて、正しき世界を現出せしむる事を得ざるなり。

兎に角心意魂魄一体化せしめて、是に霊のはたらき加はらば地球に住居ゐて、居ながら天界の姿に化せらるること


-175-


疑ひなかるべし。心のみの世界を作り居りては、肉体に囚はれて動物性に変化するの他なきが故なり。 永久不変なる愛の力によって世を建設するにあらざれば、世は保たれ難きこと云ふ迄もなし。諸子は個人愛にのみ囚はれ居りて、他に及ぼす愛の力はうすし。是等は心のみの気をはたらかせ居りて、他に合する力うすきが故なり。

夫婦の愛は自他の愛にして、心の愛にあらずと云ふならん。されど現今称へ居る諸子の世界の夫婦愛は、我等の眼より見る時真の夫婦愛にあらず。即ち個人愛に属すること多し。 真の夫婦愛は現今の如き、動物性愛にあらず。さればこそややもすれば離婚をなして、平然たる如きを見ても明らかならん。 一度婚して又離れ、然して又他と婚する如きは、是動物性にはあらざるや。所謂一時的の気まぐれ結婚にすぎざるが故なり。かかる人達が真の夫婦愛など知ることを得ざるは当然なり。夫婦となりて世間態を憚かり、余義なく一生をすぐし居る人あるも、 我等はよく見る。かかる夫婦は真の心気一体化なし居るにあらず。其はまだしも親子関係に於ても同様の事柄多し。 親は子を育てて或程度迄是を育つれば、是を追ひやりて顧ず、子も亦同様の事柄をなし居りてあるに不拘、世間は其をすら敢て不審ともせざる如きは何故か。其が所謂現今の人類が定めたる憲法とか云ふに至っては、実に滑稽至極とや云はん。己のみよければ他は如何になるとも差支なしとの考への如き、自由主義は是正しき自由にあらず。是等は神の法則に反する故なり。諸子は不便なる人なりとか称して財宝を与へ居るにてはあらざるか。 其にも不拘、親が老衰して働く力失せたる者に対して、是養老院などに入れよとて、顧みざる如きことをなし居るに不拘、一方には何々会へ夥しき財宝を運び居る者すらあるを見る。然して其が憲法上何等差なしとか称し居るは、実に面白きことにてはあらざるか。一国の平和も、一家の平和も、同様にてはあらざるか。一家れて一国安かるべき道理あらんや。一国治まらば、一

家治まり、一家治まらば、一国治るは是理なるべし。余事は兎に角霊気和すれば、人類悉くに通ずるが故に、世は安し。愛の力は鬼をも泣かしむ。 愛とは何か。愛とは霊気の合したるを云ふなり。霊気合して愛となる。 人の性は善


-176-


なり。性とは霊気の合して現れたるを云ふにて、霊気合して性を産む。故に人も根に帰ればきよし。されば心意魂魄すべて霊に返へれば、清き姿に化せらるるは是又当然なるべし。 樹木は冬になりて枯れたる如く見ゆれど、春にならば又花を開かせ、 実を結ぶにてはあらざるか。 冬になりて枯れたる如く見ゆるは、すべてを根にかくしたる姿なり。其が春になりて花を開かす。 是又根に相当する霊気の力なるが故なり。すべてに眼を注ぎ凡てのものに心を致さば、自づと理解する道は開らかれある事に留意せられよ。

天地相和してすべてをつくる。天と地と合するを諸子は会ふと云ふならん。会ふとは愛の意味なるべし。 我等、諸子の世界の言葉を知らねば、その意味の如何あらんかは知らねど、天地和合することを会ふと云ふならば、会ふは愛に通ずと云ふもこじつけにてはあらざるならん。よしその言葉がこじつけとして語りたりと思ふも、其は諸子の心任せなり。兎に角我等はその意味ならんかと語りしのみなり。地も霊なり。天も霊なり。 天と地合するは、即ち霊と霊との相通ずるが故なり。不可分の関係にてはあらざるが故なり。諸子の肉体に於ても同様の関係あるなり。諸子は他人と会ひたる時手と手をにぎりて挨拶をなすならん。 又相互に頭を下げて挨拶になすもあるならん。是霊気と霊気を合せしむる一つの方法なるべし。相互に霊気の合通を計る方法なるべし。礼義とは和する方法ならん。又もこじつけの言葉かは知らねど我等に云はしむれば、礼義の礼は、即ち霊気の霊に通ずと見ても差支なからん。 相互に礼を交はすは、即ち霊を通ぜしむるに他ならず。故に礼を霊に通ずと云ふもこじつけにはあらざるべし。

拝みすると云ふは即ち霊を霊に、同化せんとの一つの法なり。 礼義を重んぜよと云ふは霊気を重んぜよと云ふ事に変へては如何。然せば拝みの意味は察せらるべし。信ずるが故になきものをもありとして悟る事を得るならん。無きものをなしと考ふるも亦信なるべし。 異なるところは不確定と確定の相違あるのみ。 信と云ふ言葉には相違なからん。不確定も信なり。確定も信なり。諸子は信なきが故に親は子を捨て、子は親をかへり見ず。自は他を欺き、他は


-177-

×

非ログインユーザーとして返信する