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絶対界 第九章 不滅母霊子と無言詞の関係 P162〜P166

時物と物との化合することなく、唯思案なし居りては機能は得難し。其と同様にて諸子の拝みは思案に等し。故に通ぜざるなり。此心と此心と化合せしめて、その望みに役立しめんとの考へにて拝みするならば、其は調合したる薬を服用したると同様の結果となる故に、病苦は治癒する如く望みを成就するなり。 一心と云ふは即ち薬剤と薬剤と化合する如く、一服に調合して用ゆるに等し。故に一心となりて拝みせよと教へ居るならん。 念ずると云ふも即ち化合を云ふなり。 心と心の化合是即ち念なり。此法を用いてすべてに行ひをなさばすべてに通ず。故に念力は通ずることの理も推して知るならん。 無言詞は念ぜられて、初めて有言詞となる。 是化合するが故なり。 問へば答ふ。 是又念の力なり。問ふとは薬を与ふるに等しく、答ふとは即ちききめに等し。問ひても答へざるはききめうすき故なり。此理を知るならば自問自答の方法も従って判明するならん。 諸子の自問は調合の不完全なるが故に、自答も不完全となるなり。 心と心を正しく調合して与ふれば、ききめは顕著なるが故に、答への結果も極めて顕著となることは是又理なるべし。

罪人を縛る一本の縄は細き繊維を捻じたるものなるべし。細き繊維が集りて捻ぜられたるいましめの縄によつて、罪人を縛る如く心の繊維を集めて何を縛らんとするや。悪の報は悪の縄に依て縛らるるや。或は善の縄によって縛らるるや。善因善果 悪因悪果と云へる教へはあれど、仔細にこれを検討すれば、又新らしき考へを起すならん。念の力は心の繊維の集めかたに依て、種々様々異りたる法の現はるるものなり。悪人のみ縛ばられて、善人は縛ばらるることあらじと考ふるは誤ちなるべし。善人は善に縛ばられて悪をなさざるのみ。悪には悪の縄あり。善には善の縄なかるべからず。即ち善に縛られ、悪に縛らるる故に、人間の生活は不自由となるなり。是理窟にあらず。一つの法を設けてその法に従はしむると云ふも即ち束縛(なわめ)なるべし。斯く考へ来る時、法とはものを縛る縄なりと云ふもこじつけの理窟にはあらざるべし。人と人との約束は、即ち自他の二者が念となりて初めて、法は現はれたるならん。法とは


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一種の力なり。 自他の約束が守られざるは念の力うすくして、法の力のよはき故なり。この理を考ふれば念ずる力の程度は、即ち念の強弱によるとの理も知ることを得るならん。 気の力は集れば実に広大なるはたらきとなる。 空中に起る雷が地上の物体を粉砕する力を有し居るを見ても、気の力の如何に大なるかを知ることを得るならん。 人体小なりと雖も是に宿り居る気体のはたらきが如何にすぐれたるかに思ひを致さば、修養修行の念力は粗略にはなしがたからん。 或人曰く、知慧のかたまりは即ち魂なりと語り居るを我らは聞きたり。 彼の説によれば大なる魂は、大なる智者なり。 知慧なきものは魂も小さし。 故に魂をみがくと云ふは知慧を大にして光を強くするにあらざれば、 魂の実は結ばれず、又光もにぶし。 故に知慧を増すことによって、魂の実をみががずば光は遠くを照らす力なし。 始めに魂と云ふ小さき種子を蒔きて、 知慧の肥料によって是を育て、然して完全なる稔りを得さすことに依て、 はじめて魂の威徳は現はるるなり。 他の動物と人間との異なる処は、即ちここにあるなりと教へ居るを我等は聞きたり。この説は諸子の世界の人にあらず。即ち九流界下部の教へなり。人より教へを受けて学びたる事柄は誰も知る。 是等は動物性智覚にして知慧にあらず。唯養分を吸収したるに他ならざるなり。 クウワオと云ふ動物が九流界にありて、その人類より授けられたる事柄を知るによって、すべての事柄に対してはたらきをなすことを得るも、彼等は知慧の具備あらざるが故に、自覚する力あらざるなり。故に彼等には魂と云ふものの存在せずと語り居れり。是等はすべて九流界人類の説にして珍らしければ、諸子の参考として語りおくに止むべし。是等の説に対して我等は彼是と批判することは避くべし。後に教主の語らるる教へを受けて、諸子の自覚を促す材料とせば可ならん。話は横道に入りたり。もとに復すべし。

一流界二流界の如く語らずして通ずる程度迄、進まずば無言詞界とは云はれざるなり。されば無言詞界のすべてを知らんとなれば、その居に達せずば得られざるやと云ふに然らず。理を知りて法を案出すれば、無言詞界は諸子の世


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界にありても、覚ることを得るなり。覚りて法を行へば、凡てに通ず。語らずとも思ひを起せば、言葉なくともその思ひは全土に通ず。是なれば是として叶へられ、非なれば非として退けらるるに終る。思ひを起して言葉に組織せらるる迄に、その思ひは一二流界のものには直ちに通ず。されど思はざる以前の事柄は、神より他に知るものはあらざるなり。是等の理は有形無形を問はずすべては然あるなり。不滅母霊子は全宇宙にみなぎりありて通ぜざるところなし。故に諸子の世界にありても是等の具備はあるなり。是を大自然の具備と云ふ。

諸子は全宇宙の何処かに特別に備へられたる、神の世界がありと考ふるならん。我等も修行時代はかかる考へを有し居たるなり。全宇宙の中に特別なる場所を備へて、その所に神の居ますと考へなば、其は大なる誤ちにて、 神の居は何処如何なる処にも全土にまたがりて、その居を有しあるが故に、別段ここぞと云ふ特殊の地点を設けあるにあらずと知りおくの必要あるなり。その心にて日々の修行を怠らざるやう注意なしおくものなり。然らば神とは如何なるものかと云ふ疑問を起すならん。もし神は己のみ安らかなるところに住居して、 諸子を危きところにおきて安んじ居るものならば、神としての価値はあらざるなり。危き処に諸子をおきて、神のみ安き所に在りて、諸子を顧みざる如きものならば、神の価値は尊ぶに足らず。却て卑めらるる他なかるべし。何となれば諸子を造りしはすべて、神の力なり。故に諸子は神に造られたる、神の子なり。 苦むものを作りて、苦ませて是を喜ぶ如き神ならば、其は神にあらず。親は我児を愛す。神は諸子を愛するは当然なるべし。

故に神は全宇宙の一角に己が住居を造るの必要もなく、住まはんとすれば何処に在りても住居することの自由なるによって、別段ここぞと云ふ定めのあらざるは、 是又察するにあまりあらん。 神は常に諸子を見守りあるが故に、分時も諸子より眼を放すことあらざることに思ひをいたし居らば、軈ては神を見る眼は開かれて、神なる親を知るに至らん。其はとにかく諸子の心否諸子の魂が、無始終霊子に迄立ちかへることを得ば、すべての謎は解けて迷夢より


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醒めることの時節到らん。不滅母霊子に迄立ちかへらせんが為に、種々様々の教へをなし居れど、要は不滅母霊子に迄立ちかへらするための手段に他ならずと知るべし。

無言詞と云ふもすべては気のはたらきに他ならず。気をはたらかすは不滅母霊子なるによって、動じ居ることに留意せば可なり。 諸子の言葉に、「言はず語らずして思ひ通ず」と云ふあらん。 是無言詞のはたらきを指したるにて、通ずると云ふは不滅母霊子の力なり。不滅母霊子は電気の根源にして、電子はこの霊子より生じたるものなりと見るも可ならん。 原子電子のすべては、無始終霊子より作らるるものと見なすも可ならん。 是等を学理的に説明することは易けれど、専門的になるによつてここには省略す。諸子の中には剣道に秀でたるものもあらん。剣の極意に到らば合気の術とか、或は気合とか称する法を修めて用い居るもの多し。 剣道も此位置に迄進みなば、既にわざを超越したるものにて、気によって他を制する力に化せらるるなり。是を会得するには心の修養すぐれずば、理解することあたはず。されど会得すれば至極簡単なるものなり。 催眠術とか感応術とか云へるものも、すべては気の用いかたを指すにて、山中に行ずるものなど皆是等の方法の教へを受けて学び居るなり。この原理を究むる事によって大自然に立ちかへらば、天界の如何なるかは見ること難きにあらず。心平にせよと云ふことは、是諸子に分り易く説明するならば、寒暖計を先づ零度迄下げて、然してすべての温度を計れよと云ふことに帰す。先づ己が心をおちつけて零度、即ち本心迄気を下げ居らば、他よりはたらき来る気の程度は直ちに、幾度あるかを知ることを得ると同様なりと考ふればよし。諸子は常に己が心を頭の中に上昇せしめ居るによって、すべてを計ること難し。故に何事をも感受することを得ざるなり。剣の極意に無念無想と教へ居るも、即ち心を平にして彼是の迷ひをおこす勿れとの教へならん。是等の話はこだま会に於て円海がくはしく語るならん。 彼の説を聞きて参考とすべし。

不滅母霊子に立ちかへるには拝みする法を用ゆるに不如。拝みすれば心は平静となるによつてなり。 諸子は沈黙状


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態を心の平静と考ふるは誤ちなり。たとひ種々様々の言葉を用いて人と語り居るとも、心の沈黙を守り居らば其にて可なり。諸子の沈黙は口に言葉を発せずして心中に種々様々の雑話を語り居るに他ならず。心中の雑話を止めて口より出づる雑話にかへよ。人と種々様々の雑話を交はし居りても、心の動揺を止め居らば其にて可なり。拝みとは是なり。この方法を習慣的になし居らば、自然に理解することを得るなり。嬰児が常に肉体をはたらかせ筋肉を動かし居れど、其は唯肉体筋肉の発達する程度に応じ居るに過ぎず。或は笑ひ或は泣く等々も、筋肉の動作に委せ居るにすぎざるなり。されど笑ふ時は何か一種の霊気あるによって笑ひもし旦つ泣きもするなり。是を汝等の意識にて鑑別することを得るや。生理学よりは斯々なりと説明し居れど、其は肉体のみの観察にて、霊的よりの観察にはあらざるなり。もし諸子が修養修行の力によって、魂霊の力を備えるに到らば、是等の鑑別は明瞭となるなり。 何となれば嬰児にも霊気あり。諸子にも同様なるによって、霊気と霊気の交はりを用ゆれば、直ちに知ることを得るによってなり。


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