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絶対界 第十章 霊気と霊気の交はりに就いて P190〜194

り。されど是は方便にして帰するところは、自己の魂を発見する方便にすぎざるなり。信の力すぐるれば自己の魂が稔りを全うすることの理は、かくの如き関係となると知らば更に新らしき道を構じて、其によって自己の個性を発見せば、神を求め仏を願ふの要もなからん。 例へば我に信じらるる事柄に対して、他人は厭ひて信ぜざることのあるに対してもうなづくところあるならん。 小さき例にとりても我にはこの薬草が貢献ありと思ひて他に奨むるとも、其人には効果なき事の事実もあるならん。 其等に対して諸子は体質の相違なりと思ふならん。その体質の異なる如く信の方向にも同じ形のあることに注意せばうなづくところあるならん。さればこそ我はこの神を信じ彼はその神を厭ふ如き等々みな、その人々の個性の相違によるなり。故にミキョウも他の人の信仰を傷くること勿れとさとせしも、すべてこの理なるによってなり。外を求むるも帰するところは、内を求め居るに他ならず。是と反対に内を求むると思ふも、他を求め居る関係もあるなり。是は自他一如なるによつてなり。 他と思ふもすべては我なり。 自他一体の境地に至らばすべては、一に帰することは既に諸子も知り居るところならん。

斯く語らば諸子は思ふならん。 悪人は不善を喜ぶは是悪を信ずるによるかとの疑問なるべし。然り、然あるなり。すべて諸子の世界には人々によって定められたる約束の善悪あるによつて、ここに又種々様々の異なりたる範囲が拡められて枝葉をつくること多し。 悪人は悪を好むと云ふも魂の信あるが故なり。されどその魂の本質は善なり。 先にも語りし如く魂に相当する信の種子が、 二葉に芽を出したる時、善に属する方を育てず、悪に伸びる方向に信を育つるが故に、ここに善悪の区別あるなり。故に悪人は悪の方向に育ち行きて悪を好むなり。されどもし其が中途に至つてさとりて魂の信にかへれば、その悪の個性は消滅して善の方向に転換して、ここに初めて悪人が善人となる如き結果となり行くも、すべては個性の魂の信にかへりて、はじめて正しく化せらるると知らば可ならん。善人と云ひ悪人と云ふも斯くの如き性質を有するが故に、二葉は育ちて枝葉をつくるに至るなり。信と云ふも個性なるが故に、そ


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の栽培法をあやまてば善悪何れにも育てしむることを得るなり。悪を信ずれば悪となり、善を信ずれば善となる。 すべては信なり。 栽培するとは即ち指導者の責任にありと知るべし。 兎に角信の力は其人々の個性によって強弱あることは云ふ迄もなし。信ずる力を養ふを魂を磨くと云ふなり。

ここに又考ふべきことは信仰の力を強からしめんがための方法として種々様々の教へをなす。その事に対しての注意なり。個性の相違をよくよく見出して、そのものに対して適当の法を以て導くにあらざれば、信の力を強からしむること難し。厭ふものに対して強いて好まざるものを以て導くとも、望を達すること難きは云ふ迄もなし。ここに指導するものを択ばざるべからず。是を他を求むると云ふなり。他によつて自を育つると云ふもこの種に属す。彼我一体となる喜びこそ真の信となるなり。霊気と霊気の和すると云ふは、即ち縁なりと語りしも是なり。縁とは好めるものと好めるものの両者が和合するが故に縁となりてつながる。 是を縁の道と云ふなり。 この云ひまわしは不徹底なれど我にいささか思ふことあるによってかく婉曲なる言葉を用いて語りたるに他ならず。是等は後に諸子が合点する日は遠からずあるべし。 ここに一言注意することあり。 この十章に対して文字のあやまり或は書損等のあるところは改むることは苦しからず。されど文意を彼是批判して筆を加へて添削すること勿れ。是はかたく止めをく。

好むと好まざるは和合するものにあらず。是を縁なしと云ふなり。縁なき衆生は度し難しと仏書に認めあるはこの理なるべし。故に己の欲する方向に心をむけ居らば、是に対してその好むものと同化するものの来りて結合するは、縁の一大事にしてここに新らしき道のあることに心せよ。

諸子はつる草をつくりたる体験あるならん。つる草は彼方此方とのび行きて何か手がかりあらば其にからみてのび行き、更に又他に手をさしのべて己が欲する方向にのび行くにてはあらざるか。是を人工にて他に転ぜしめんとそのつるを他のものにからますとも厭ひて其ものを離れて、他の方向に転じ居る如きことの体験はあらざるか。魂なきつ


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る草に於ても斯くの如く縁のある方向にのび行き居る事柄に徹しても覚る道はあるならん。 よく我等の耳にする俗言に縁は不思議なるものと語り居るを聞く。されど縁は不思議なるものにあらず。縁は不思議ならざるところにあるなり。空気は縁によって一体化なし居ると語りしことに対してよくよく考察して悟りを得よ。

異国の人と信を厚うするも縁なるべし。其は人種の異なるに不拘霊気と霊気の縁が結ぶ事によって、つながれたるに過ぎざるなり。此事柄に対して我語りし汝の肉体を一枚の木の葉として考へよと教へしはここにその意味のあることに気附きしならん。 異国人の肉体と汝の肉体との相違は、恰も異なりたる木の葉の如し。されどその木の葉が枝より出でたるものとして考ふる時は、霊気とは木の葉を生ぜしむる枝に他ならずとのさとりは得らるる筈なり。 一枚の木の葉を仔細に観察し見よ。必らず同種のものはあらざるべし。一見同じものに見ゆれど、其を仔細に検討すれば、同じものは一としてあらざるなり。枝より幹に幹より根にかヘせば、如何なる関係となるや。諸子は此点に着目して己が修養の資料とせられんことを。

空と実とは別個の如く取り扱はれ居れど帰するところすべては空なり。然して、空と実とをつなぐは即ち縁なるべし。縁を辿りて逆上れば空にかへり、其が反対の方向に向ふならば実となる事は是当然なり。縁を辿ればすべては一にして、不可分のものにあらずとのさとりは得らるる筈なり。故に縁は霊気と霊気を同化せしむる糊に等し。一個々々の細胞が区分され居る如く見ゆれど、それが縁によってつながる。されば縁とは引力圧力に相当するはたらきを有するものとして研究せば、離るるも縁なり密着するも縁となる関係もあるならん。 一個々々の細胞が、或はつながり、或は離るるも是皆摩擦のある故なり。全宇宙のものすべて同種のものならば其は絶対にかへるとき一つのものに結合されて、其以上のものを作り出す力を失ふに至るは是又理なるべし。されど始終なき全宇宙なるが故に、斯くも微妙なる素質を有し居るなり。 始め終りなき全宇宙の姿こそ即ち絶対と云ふなり。故に絶対の中に種々様々のものが


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作り出だされて、ここに相対関係のそなはりを有するに至りたり。是等の道理は教主の教へをうけよ。

全宇宙より更に宇宙と組織されて、その宇宙の中の一部に作り出されたる汝等が世界と雖も、根は一つにして、たとえ形状の異なりありと雖も、大体の骨組はすべて一つの原理よりその流れを有するによって、小動物に至る迄みな全宇宙の素質に依って現はされたるものなれば、是を根に返せば、悉くは同種のものに化せらるる道理あるなり。故に根より枝葉に至る迄考察せば、全宇宙すべてのものは一つとして、不可分のものはあらじと云ふ理も察せられるならん。例へば霊気を一個の細胞と見なして考へ見よ。我の霊と彼の霊と同じからずと雖も、縁と云ふ法によって是をつながば密接する事は至難にはあらざるならん。例へば汝の思ひを彼に通ぜしめんとならば、先づ彼の霊気の分度を計り、然 してその程度を己が程度と同じ迄に至らしめて、然してその思ひを彼に通ぜしめなば彼は認知することを得るならん。恰も彼の電波と我の電波とを同一にして言葉を送ると同様の関係となるによってなり。通ぜざるは波長の合はざるが故なり。 波長を合はすと云ふは、即ち縁なりとして研究せば汝の声は天に通ず。汝の思ひは天に感ぜしむる事難きにはあらざるならん。行者は朝に夕に此法を研究して機械なくして常に無電を交はし居るなり。霊気の通ずると云ふは此理にして別段不思議なるものにあらず。されどその法が未だ人にさとり居らざるが故に、機械なくしては通ずることあたはざる如く思ひ居れど、衆人悉くが、この法を学び知るならば、無電機械の必要もあらざるならん。 是等の理より種々様々の事柄が古来より伝説となりて、迷信とか妄信とか云ふことを語り居れど、深く根にかへして観察するならば、その迷信妄信はすべて明らかとなることは云ふ迄もなし。諸子は己が知慧にて計ることあたはずば、其は迷信として取り上げず徒らに放棄する傾向あるは、研究力の乏しきが故なり。狐狸に誑かされるとか云へる言葉すら、現在の諸子の世界には研究する人はあらざるならん。もし、是等に関して霊気の研究なし居るものならば、又一種の発見は得らるる筈なり。狐狸の人を誑かすなどはもとより取るに足らざる愚説なれど、霊気の研究より


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考察するならばここに一種の感想と、新らしき発見は得らるる道のあることには心附かざるならん。 狐狸は人を誑かすとも人は人を誑かすにてはあらざるか。 更に面白きは執念の蛇とか妖怪の猫とか云ふ如き伝説もあるならん。 是等に関しても研究せば面白き事の意味のあるものなり。蛇の術とか、蝦蟇の術とか云へる事柄は、霊気の研究には面白き意味を有するものにて、是を唯迷信妄信として、放棄するは至らざるが故なり。敢て愚説として顧ざる人の方が、却て愚人なるべし。猫は鼠をとる。その態度より霊気の研究は得らるる筈なり。 又蛇が鼠を或は蛙を狙ふ態度など、又蝦蟇が空とぶ虫を吸ひ入るる様などより、引力圧力の研究の材料は得らるる筈なり。余事は兎に角霊気と霊気の交はりが、愛の交はりとなる場合と憎悪の交はりとなる場合の事柄に対して考へ見よ。 愛の交はりは即ち和合にして、憎みの交はりは分離の交はりに相当す。故に愛は引力に合ひ、憎悪は圧力に合ふ。この事柄より霊の研究を更に深く深く進めば、大自然の妙味はしんしんとして尽るところなからん。実に面白き事ならずや。又この研究を重ねる人にあらざれば、天界の如何なるかは認識すること難し。諸子は肉体滅後の如何なるかを知らんとならば、この研究を深くせざれば望は達し難し。故に肉体ある間にこの研究をなして後輩者の為に、導きをなすことに努力せられては如何!

(昭和二十五年三月十日-五月二十五日)


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