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絶対界 第二講 大自然と小自然の関係 P203〜208

第二講 大自然と小自然の関係


前講の法則より自然と云ふものの理を探り求めざるべからず。第二講目に掲げたる大自然と、小自然と名づけしは他ならず。 全宇宙を大自然として研究する時、太陽系宇宙は小自然とみなして考究するの要あるなり。別段大小の区別の必要なけれど、兎に角不変性絶対変化性絶対の区別あるによって、自然の道理にも亦従つて異なるところありて、斯くは大小の区別もて知らせんと計りたるにすぎざるなり。 諸子の住居なし居る地球は太陽系宇宙なるにより、相対関係に置れありて空間時間を有するが故に、自然と云ふ言葉に於ても全宇宙の自然とは、その意味大に異なる点少なからず。よって太陽系宇宙を仮に小自然と名づけ、全宇宙を大自然と名づけて説明せんとなし居るなり。其心して聴れんことを望む。

我、大自然小自然と云ふ言葉を用いて大小の区別をつけたれど、帰する処は根より枝葉にわたる自然を現はすのみにて、別段大小の区を定むるの要はあらざるなり。されどかくせざれば諸子には通じ難きを慮っての意味なれば、誤解せざるやう注意なしをく。即ち大自然とは根にして、小自然とは枝葉なるが故に、換言すれば大自然を絶対と見なさば、小自然は相対の関係となる。されば絶対のながれが、相対に及ぼすことは云ふ迄もなし。 諸子は相対自然にのみ囚はれて、絶対に帰ることを忘れ居るによつて、ややもすれば自然を曲ぐること多し。是等に関して新らしき言葉の数々を造りて説明すれば、却て複雑となりて絶対自然をさとること難し。故に我等はこの事を知るによって単に大小の区別を以て、説明せんとはかりたる迄なり。 よつて諒せよ。一個の微分子が他の微分子と交はりて、更に異なりたる微分子を造り、又其が他のものへ化合して、又新らしきものをつくる。 此理は諸子もよく知るところならん。されどその最初の一個の微分子が、 何によつて造られしかに対しては知ること難からん。神は始めに何憶否何兆の多き


-203-


微分子を作られたりと仮定して考へ見よ。その何億何兆の悉くの性質が異なり居る性質を具へあるによって、其等が互に交はりて育ち行く理は、諸子には解することを得るならんも、始めに作りたる何億何兆の微分子の根元は、はかり知ること難からん。是即ち絶対自然なるが故なり。是を知るものは神を措いて他にはなかるべし。即ち神は造主なるによつてなり。さればこの何億何兆の微分子が絶対と云ふならば、その絶対なる種子に相当する微分子は、何によつて作られしかの源もあるならん。故に全宇宙の成立は始めなく又終りもなき底の姿ならずば、神としても是を作ることのあたはざるならんとは考へざるや。もし神にして形ありと想像するならば、神の姿を作りたるものは、更に何ものかと云ふ点に迄、追究せざれば真の自然を知ること難し。是等の事柄に関しては教主の説き給ふ説をききて導きを受けよ。

兎に角自然の力、自然のはたらきを認識するには、先づ大自然に帰らずば測り知ること難きは、かくの如き理論あるによつてなり。諸子は中途自然の法則に従ひ居らば其にて可なり。されどその中途自然を曲解して歩むが故に横道にふみ迷ふ。今も欣情が語り居る如く、神を作りたる神、その神をつくりたる神と追究すればはてしなからんと語り居るをきく。諸子の知慧はかくの如し。故に我等は諸子を導くの任務を架せられたるなり。

空より空を追ひ求むればはてしなし。 はてしなき所を盲目的に歩み居らば、転落するは当然なるべし。諸子は盲人なり。我等は手引きの役目を命ぜられたるにすぎず。されば我等の手にすがりて歩みを続けよ。 我等は決して諸子を転落の方向にむくるものにあらず。是大自然の道そなはりあるが故なり。 生れて死すと云ふが如き小自然の中に含まれたる中途自然にふみ迷ひ居りては、何日か大自然のふところに抱かるる時節来るべき。 生れて死すも自然なり。されど其は小自然の中の小自然に他ならず。 所謂相対自然の中の複相対なるによつてなり。網の目の一角を追ひ求めて廻転なし居らば何日かは、その目を度脱することの難きは当然なるべし。


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ここに又注意することあり。 諸子は自然と云へば人工を加へずして組織せられたるものを聯想し、人工を加へたるものならば是を自然とは考へざる傾きあらん。例へば路傍に落ちたる一個の石が何等人工を加へずして、仏の姿になり居るを見ば、是は自然石の像なりとして珍重なし居るを我等は見る。 諸子は是等を自然像或は自然石として、自然に形づくられたるものなれば、自然とは斯るものなりとの考へを有するならんが、是等を我等に云はしむれば其は自然にあらず。 偶然現出と見るの他なきなり。一個の石をとりて是に印刀を以て仏体を刻み上げれば、其こそ真の自然に合ふにて是等は不自然にあらず、又偶然にもあらざるなり。諸子の考へと我等の説とには斯る小さき例に於ても相違ある故に、我等の語る自然と云ふ言葉に対しても、諸子は曲解すること多きため、正しき自然を認識することを得ざるなり。 印刀を用いて彫刻するにあたつて自然に逆らふ方法を用いなば、像は刻み得るものにあらず。自然の法に従ふが故にかたちづくらるるなり。 是等を自然に順ずと云ふ。像を刻みてならざるは、自然の法に逆ふが故なり。 何等人工を加へずして像にかたちづくられたる石などは自然にあらず。是等は種々様々の化合がたまたま斯るものに現出したる迄にて、 決して自然のものにあらざるなり。されど是等は珍らしきものとして喜ばるるは不自然の現はれなるによつて唯珍らしきと云ふにすぎざるなり。斯るものを自然の姿と見なして尊び祀る如きは愚も甚だし。斯るものこそ不自然のものにて尊ぶには足らざるなり。大理石にて造られたる石塀に数多の仏像が手を加へずして、百体干体現はるる如き事あらば、斯るものこそ不自然のものなれば我等は是を卑しむ。されど諸子は斯る事のありとせば驚愕して其前に手を合はせ、拝する如き愚をなすならん。自然はかかる事のあらざるが故に、諸子は曲解せざるやう注意せられたし。石像をつくり、木像をつくる等々は相対自然の現はれにして、絶対自然にはあらざるなり。大岩石が地上に置るるも相対自然の現はれにて、是等は絶対自然にはあらざるなり。この理をよくよく認識するにあらざれ

ば、大自然の如何なるかはさとること難し。相対自然と云ふも絶対自然のながれあるが故なり。即ち絶対自然のなが


-205-


れが別れて、相対自然をつくり居る事に留意せば可ならん。人工を加へずして現出したる像と雖も、もとより自然のながれの備はりはあること云ふ迄もなし。形を見ることなかれ。形に囚はるること勿れ。 然らずば自然は解し難し。

諸子は斯るものを見て形に囚はれ居るが故に、珍らしきとか有難しとか云へる念の生ずるならん。されど斯る誤ちたる念は早く明らめよ。 然して正しき自然より是を見なほすならば唯訳もなきものにて、形状の異なりたるにすぎざるなり。何等意とするに足らずと知るべし。

兎に角大自然とは零の霊にして、他にはなしと語り居るはこの理なり。然るに是が次第に絶対相対とながれ現はるるに従って、実在に化せられ来る時、諸子はその実在のものを根本自然として考ふるが故に、ここに至って自然を誤つこと多し。 所謂諸子の世界は中途自然の法則を応用したるものにて、絶対自然或は絶絶対自然の程度迄考究して事を観察せざるが故に、正しきさとりは得られざるなり。

大凡絶々対の自然にはその範囲きはめて広きが如く感じらるれど、更に是を一体化せしめて考ふるならば、霊の原理はすべて一体にして唯異なるところは、作用の如何によって変化なし居るのみ。別段不審するに足らざるなり。この極致に考へを廻らさば、なしてならずと云ふ事一としてあらざるなり。大自然は斯くの如く不可思議なる意味を有す。 無量無辺とは大自然を措いて他にはなかるべし。

例へばこだま会に於て泰岳が諸子に力を与へんと称して、様々の物品に何か法力を用いたり。是等に関して諸子は如何に考ふるや。 こだま会の人達は唯不思議なるものよとのみ感じて更に考へを廻らさんとはなさざれども、もし他の人が是を聞くならば愚なる事よとて嘲り嗤ふ人もあらん。 又是を単に冷笑して眼を向くる人もあらざるべし。 知慧浅きものはすべてはこの種の類なり。 彼等は是等を迷信として嘲り嗤ふは大自然の道理を知らざるが故なり。 泰岳はミキョウの坐にありて重く用いられ居るものにて愚者にもあらず。 彼はなさんとせば何事をも行ひてならざる事なき


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力を有す。故に彼の力は広大無辺にして通ぜずと云ふことなし。されば、彼は泰岳となりて慈音に至り、慈音を通じて、 諸子の物品に力を与へたるは何故ぞ。 是等は泰岳にして諸子の信仰の程度をよく知るによって斯る法を用いたるに他ならず。何となれば泰岳にして諸子に力を与へんとならば品物の有無に不拘、諸子をして一種の力を授け得ることいと易し。其にも不拘品物に力を与へしは霊気を移したるだけにて、 諸子はこの品物によりて、霊気を育つることを知り居るによって斯く取り計らひしなり。所謂諸子は実在のものにあらざれば、信ずることの難きを知るによってなり。 彼は又喚魂の呪(じゅ)を諸子に伝へたり。然るに慈音の耳をふさぎしは何故ぞ。慈音は斯る法を用いずとも自由になし得るをよく知るによつて、斯る法は教ゆるも詮なしと知りて耳をふさぎたり。されど諸子の信仰の程度は左にあらず。故に実在的方法を示して、其によって魂の程度をたかめしめんと計りしに他ならず。 是等は大自然の法則より生れたる一種の方法にすぎざるなり。故に諸子はその物品を常に忘れず用い使用し居らば、従つて芽を出し花と開らくこと疑ひなく、又呪を間断なく持続し居らば何日しかその法力によって招魂はもとより遊魂の法に至る迄、自得することを得るは大自然の法力がかくなさしたると知らば可ならん。

すべて呪とか呪文とか、或は行者の法力のうち印を結び九字を切る等々の方法に於ても、現今の学理にては迷信盲信として省顧(かえりみ)ざるは、即ち自然の道理を知らざるが故なり。空には空の自然あり。実には実の自然あり。 空の自然は大自然にして、実の自然は小なりとしてすべてを考察するならば、従つて迷信盲信の理由も明らかに知る事を得るは云ふ迄もなし。 大自然の姿は余りにその範囲広きが為、稍もすれば迷信を伴ふこと多し。 されどその迷信と思ふ事柄に対しても、根に返して仔細に検討すれば何かそこに一種の何物かを、探り得ることも得らるる道理あるなり。空の自然を知らざるが故に、何事に限らず一言に迷信として捨つること勿れ。或程度追究してその理を究めて後に至って

棄つるものならば始めて捨てよ。 実のものならば信不信は直ちに知る事を得るによつて、是なれば理として採用し、


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非なれば直ちにする事を得るならん。 実の自然は限度を有するが故に、直ちに理非曲直を明らむる事を得れど、 空の自然は余りに深淵なるが故に、理非曲直は容易に明らむること難し。 兎に角自然と云ふは斯くの如き関係に置れあるが故に、我等の眼と諸子の眼にはその見かたに相違あることに留意せられよ。 六月十日 (昭和二十五年) こだま会に於て円海も泰岳も神と共に生活せよと教へしにはあらざるか。神と共に生活すると云ふは即ち自然に順ぜよと云ふ事に他ならず。諸子は常に神は神、生活は生活として区別なし居るがために、自然に順ずることあたはずして、却て不自由の営みをなし居るなり。 神と共に生活なし居らば真の自由は得らるる筈なり。

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